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「愛する」とは(死によって終わる愛を終わらせないようにすること)

割引あり

愛に死が絡む物語

自分が大学生の頃に、『ノルウェーの森』という小説が大いに売れて、一種の社会現象みたいになった。ネタバレになるといかんから詳述しないが、恋人の死を受けいれられずに精神的に不安定になってる女の子との、切ない恋の物語だ。自分の友人のなかにも感化を受けた奴が何人かいて、ラストシーンを真似て、「オレも旅にでて、電話ボックスで『ぼくは一体誰なんだ』って叫びたくなったよ」なんて言ってる。それはさすがに恥しくてできないから、主人公のタバコのもみ消し方なんて真似てる。

「そんなに言うなら」と自分も借りて手にとってみた。だが、自分は子どものころから小説に恋愛の甘さを求めすぎてちょっと食傷気味だったから、青臭さばかりが鼻についた。だから、柳田国男じゃないけど、「小説なんか読むより、政治学とか経済学の本の一頁でも二頁でも読んだ方がいいや」ということになった。よく覚えてないんだが、たぶんこれが青年時代の小説の読み納めになって、文学に長い別れを告げるきっかけにもなった。

じゃあ、読んで感動しなかったかというと、やっぱりひどく感動した。なんでかよく分からないけど、泣かされた。やっぱり「ぼくはいったい誰?」って問いたい気分にさせられた。

なんでだかはよく分からなかったが、愛と死が絡んだ話には、だいだい自分は泣かされる。それだけは感じていた。より正確には、愛が死によって引き裂かれる話に、自分はめっぽう弱い。どんなにお涙ちょうだいの話でもだ。映画館でもぼろぼろ泣いてしまう。自分がとくに弱いのかもしれないが、自分だけではないと思う。

だが、不思議であるのは、ぼくらが真似たがった『ノルウェーの森』の主人公は、他人から羨ましがられるような境遇にない。愛する人を救うことができなくて、死ぬほど苦しんでる。そして、苦しんだ末に、結局は愛する人を喪ってしまう。愛はまったく無意味であった。そんなものがあってもなくても、世界には何の変わりもなかった。それどころか、愛があるから余計につらくなった。だが、愛が無意味であるとすると、他のすべても無意味だ。世界はつまるところ無である。自分が何者なのかさえ分からなくなるような、そういう場所である。

なのに、不謹慎にもぼくらは彼の境遇に憧れて、「ああ、オレもあんなふうに人を愛せたらな」などと考えたわけである。ひとは苦痛を避けて快楽を求めるものであるという功利主義的な人間観からは、あるいはヒトもまた利己的な遺伝子に操られる動物であるというような社会生物学などでは、どうやっても満足には説明できなさそうな現象である。

「己の死」と「汝の死」

こんな話もある。自分はもう一回は死んだような人間であるから、「己の死」というものは大して気にしてない。「死を恐れるのは生きてる証拠だし、死んだらもう恐れないんだから、そこには何の問題もない」くらいのところで、エピキュリアンに構えてる。そういう経験のない人でも、自分がいつかは死ぬということは否定しないが、それはまだまだ遠い先のこととして、普段は大して気にもかけてない人が多いと思う。

ところが、「汝の死」、つまり自分にとって大切な人の死について考えさせられると、やっぱり心がゆり動かされる。母の遺言状なんてものを読まされたときなんか、部屋で一人で文字通り慟哭してしまった(ついでに言うと、「してしまった」の主語/主体は自分だが、「自分の意志に反して」という含意があるから、何かに「させられた」という受動態に近い。パトスだ)。単に悲しいというだけの単純な感情からではない。自分の無力さへの怒り、自分がやれることをやってこなかったことへの後悔、報いの少ない人生の虚しさへのやりきれなさとか、何かもっと複雑な感情が絡みあってる。

であるから、自分の死には冷淡な人であっても、大事な人の死には無情ではいられないらしい。本能的なもの、生物学的な意味での自我(エゴ)によるものだけが、死に対する恐れではない。ぼくらは別のしかたでもまた死を恐れていて、それは愛と関係してる。自分が愛するものを奪っていく死が怖いんである。

だが、これとてもまたエゴの一種かもしれない。自分の好きなものを自分の同意も求めずに奪っていくものを、ぼくらは憎み恐れる。奪われると気づいたときは、悲しくなって泣く。キャンディをいじめっ子に奪われる子どものように。それだけのことかもしれない。

忘れてはならない人

だがまた、こういう話もある。『ノルウェーの森』の女の子みたいに、死別した恋人のことが忘れられない人がいたとする。その人にとっては、恋人と過ごした過去の方が圧倒的なリアリティをもっていて、今ここの現実世界がかえって非現実的な夢のように感じられる。それで、この世界に属し続けることが無意味に思える。

普通であれば、そうやって苦しむ人に対しては、「過去のことは忘れて、また新しい人を見つけなよ」という助言をしたくなる。昨日食べた料理はおいしかったけど、今ここにはもうない。悲しいけれど、今日は今日でまた新しい料理がある。明日には明日の料理がある。失われたチーズを求めても無駄であって、次々に新しい愛の対象に乗り換えていければ、ひとは幸せである。

そういう助言が適切な状況は、いくらでも考えられる。というよりも、死別ではなく、生きて別れた恋人への未練から落ち込んでる人がいたら、たぶんそれが唯一の適切な助言だ。しかし、死によって引き裂かれた愛に関しては、そうではない。愛する人をおいしい料理に譬えることに、ぼくらは何か重大に不倫なもの、非人間的なものを感じとる。この助言を普遍的な真理として受け容れたときに、その人だけではなく、自分たちの世界の何か大切なものが傷つけられたと感じてしまう。死があいだに挟まると、ぼくらと愛の関係の何かが決定的に変わってしまうのである。

実際ぼくらは、口では「忘れろよ」言っても、やっぱり忘れてはいけないと心の底では思ってる。その証拠に、そう言われて「そうか、じゃあ、そうしよう」と簡単に忘れられるような奴は、薄情で恩知らずな奴だと感じるにちがいない。そういう奴ばかりであったら、あの『ノルウェーの森』でぼくらを憧れさせた悲しくも美しい物語までもが、「なんだかバカな連中がいるなあ」という滑稽な喜劇になってしまう。それでもそう口にするのは、ひどく落ち込んでる人を心配して励ます必要から便宜的にそうしてるだけだ。容易に忘れられないということを知っているから、そう言える。

しかし時間は、なにものも容赦なく流し去る。「去る者は日日に疎し」であって、死者、もう存在しないもののリアリティは日に日に薄まってくる。そうであるからこそ、生々しかった心の傷も、時間が経つにつれて癒えてくる。そうでなければ、ぼくらの心はずたずたになって、とてもじゃないが何十年も正気で生き続けることができまい。

ところが、自然がわざわざ忘れるように勧めるものを、ぼくらは意地になって思い出そうとする。実際には、日々のルーティンに没入してるときには、もうほとんど忘れてるんだが、わざわざ記念日なんかを設けて、そのときだけはあたかも一時も忘れていなかったかのように振る舞う。

恋人、夫婦、家族だけじゃない。大規模な災害や事故の犠牲者、国のために戦って死んだ兵士たちだってそうだ。イエとか民族とか国民などというものが、そうやって作り上げられる想像の共同体だ。イエや国の始祖、それらを守ったり偉大にするために己を犠牲にした偉人や英雄たちの歴史を教えることによって、たまたま同じ場所に生れついた人の群れが、死者への愛を介してつながる共同体になる。「死は君たちをぼくらから奪い去った。だけども、ぼくらの君たちに対する愛は奪い去ることができない。」たぶん、これが追悼のメッセージだ。

虚無を乗り越える愛

愛する者からの死による別離。それは誰にとってもつらいものである。それをぼくらは誰でも知ってる。それでも死が避けられないものである以上は、いつかは別れの時が来る。愛は愛するものを死から救うことはできない。それを知りつつも、ぼくらは誰かを愛さざるをえない。結局は死によって奪われるんだが、追悼することによってなおも愛し続けようとする。そう振舞うことを拒む奴は、薄情とか恩知らずとして憎む。ここに人間の大きな闇の一部分が潜んでないか。ぼくらはまだ、自分たちにとって無視しえないような大事なことを、自分たち自身に対して説明してないんじゃないか。

どうやら、ぼくら人間が抱く死に対する恐れは、何かを愛したいという欲求(エロス)と同様に、どんな生物でも本能的にもっているそれをはるかに超え出てしまっている。死は苦しいものであるからとか、死んだらもういい思いができなくなるから、死後に何が待ち受けてるかわからんから、という以上のものがある。実際に、自分の生物学的な意味での死を受け容れることは、そう難しくないのかもしれない。なんとなれば、いくら心配したところでいつかはお迎えがくる。だから、いつかは諦めがつく(たといそれが死に際だとしても)。死の床で自分の人生の意味や来世のことに目が行った人は、『戦争と平和』のアンドレイ公爵みたいに、もう後に遺される人のことなんて気にもかけないかもしれない。

ところが、「己の死」は受け容れられたしても、「汝の死」は受け容れがたい。いな、たとい死にゆくのが自分であったとしても、愛する者を後に遺していく者は、その行く先に対する懸念を拭い切れないかもしれない(たとえば、芥川龍之介の遺書)。みんながみんなアンドレイ公爵のように、俗世を見限れるとはかぎらない。そのばあいに怖れられてるのは、己の死そのものではない。己の死によって、もう汝を愛することができなくなることである。死ぬのが自分であるか他人であるかは、この際には重要でない。死によって愛の関係が断たれるということが問題になってる。だから、ぼくらは公爵の死に際の無関心(とくに、かつて愛し裏切られたナターシャに対しての完全な無関心)にショックを受ける。死は愛でさえもまったく無意味にしてしまう。これが怖れられている。

してみると、われわれが恐れる死とは、汝との別れによって、永遠だと思われた愛でさえ永遠ではないことが暴露されることだ。あるいは、われわれが恐れるのは死そのものではなく、死によって失われてしまう愛の空虚さだ。誰かを愛することはその人と永遠にいっしょでいたいと望むことだが、それは失敗に帰することがはじめからわかり切ってる。だから、未練なく死んでいこうと思う人は、人であろうが何であろうが、死すべき運命にあるものを愛することなんかしない方がいい。しかし、愛することもまた他のことと同じく無意味であると知ったとき、果たして人は生きていくことに価値を見出せるのか。ぼくらは、こういう帰結を恐れてる。

愛されるものもまた時間に流されていく存在だとしても、ぼくらはその記憶を止めたがる。日々忘れ去られていくものを、無理にでも思い出そうとする。自分自身が死ぬまでは。そうやっていても、いつかは忘れ去られる。始祖や英雄たちでさえそうだ。ましてや、時代の敗者や有罪となり処刑された者などは、そんな人たちを愛した者たちといっしょに速攻でその存在が忘却に付される。

しかし、それでもぼくらは誰かを、何かを愛そうとする(「愛してしまう」ではない)。そして、愛の対象が消えたとしても、愛だけは永遠なものであることを欲する。忘却を促す自然の声に逆らおうとする。まるで、運命は避けられないものだと知りつつ抗い続ける、カミュの反抗的人間みたいに。

シーシュポスはコリントの伝説の王で、死すべきものの分際で不死の神々に逆らい罰を受け、永劫に続く呪いを受けた。彼は大きな岩を山頂まで運んでいくのだが、山頂に着くや否や、その岩はまた谷底に転げ落ちる。その岩をまた山頂に運んでいく。これを永遠に繰り返させられてる。絶望して当然なのだが、カミュはこのシーシュポスに運命に抗う人間の尊厳みたいなものを読み込む。転げ落ちるとわかっている岩を、シーシュポスは倦むことなく運び続ける。結果は不毛であるとわかっていてもだ。なんとなれば、少なくとも彼が運んでいる間は、岩は谷底にはないのである。

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