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正義の味方と弱くて悪い連中 その三

割引あり

長話の言い訳

ひつこい奴だなと思われるかもしれませんが、セイギの味方とヨワワル連シリーズ第三講です。長話になるのは、これなどは政治と宗教という自分の人間学的関心とわりかし近いところにあるからです。話がさらに長くなりますからここでは触れませんが、硬直化したリベラリズムを柔らかく揉み解して、死んだドグマから生きた思想に再生させる一助となる人間学的教養の可能性みたいなものを示せるかもと思います。学者や専門家になって素人を論破するための教養じゃありません。この世に産み落とされた誰もが、自分にやさしくない世界で強く生きていくための教養であります。

悲しいことに、読者の反応を見るかぎり、あまり歓迎される類の話ではないようです。しかし、まったくお話にならないというよりは、むしろお話になりすぎそうで危険であるという警戒心が働いているのではと、誠に勝手ながら想像しなくもない。刺さらないから好まれないんじゃなくて、ある意味で刺さりすぎる話だから避けられる。これも今にはじまったことではなくて、寝た子を起こす世間師的な知に対する自然な警戒心であります。自分もかつては育児をするイクメンでありましたから、これがどれほど嫌がられるか容易に想像がつく。こんな迷惑行為が許されるのも、自分が黙っていようが寝た子はどのみち起きる、あるいはすでに起きて泣いてることが気づかれてないという疑いがあるかぎりであります。

この警戒を解くためには、自分の意図は正義の再生であって、この世から正義(の味方)を一掃しようということではないということの弁明が要されるかと思います。ネットのあちこちで聞かれる(であろう)「正義の味方」攻撃をここでまた繰り返そうなどとは、自分はこれっぽっちも思ってません(「正義の味方」たちの敵からもぜんぜんスカれないのが、何よりの証拠です)。「弁明なんて誰も頼んでない、ただ黙れ」という命令に「はいはい」と従いたくなければ、言葉を尽くして説明するしかない。思わせぶりなつぶやきで逃げるという選択肢は、自分にはないわけです。

要するに、これなども自分にとっては「書かないわけにいかないから書く≒書かされる」の一つであります。悪いのは長くなる話の方であって、自分はちっとも悪くない。受苦であって、むしろ被害者の一人であります。

悪人を救う聖人⑵:アッシジのフランチェスコ

つまらん軽口はさておき、前回は一遍の紹介をしたところで終りました。引き続き、何人かの悪人を救う聖人たちを追ってみたいと思います。今回の先頭打者は海の向こうの聖人で、アッシジのフランチェスコと呼ばれる人です。フランシスコ会の名で知られる修道会の創始者とされています(正式名称は「小さき兄弟団」)。一遍が生まれる前に亡くなっているんですが、ほぼ同時代人で、中世のイタリアに生きた人です。

一遍が豪族の統領息子であったように、フランチェスコは裕福な商家の御曹司でありました。若いころは甘やかされたお坊ちゃま風で、気前のいい派手好き、遊び好きの青年であったらしいのですが、あるときやっぱり家族も財産も捨てて、乞食同然の姿になって一生を送りました。幼いころから寺に送られて教育を受けた一遍とはちと異なるんですが、容易に得られたであろう世俗的な幸福を信仰のために捨てたという意味では、同じような道を選んだことになります。

もともとはフランスの武勲詩などを好んで読んでいて、騎士道に憧れていたそうで、実際に十字軍に参加しようとしたようです。しかし、武勇では名を為すことができないと思ったのか、途中で引き返して、煩悶した上で宗教の方に舵を切った。しかし、聖職者にはならずに、あくまでも平信徒の立場でキリストの生き方を真似た。その禁欲的なやり方に騎士道への憧れみたいのが残っていると言えば言えそうですが、見た目は乞食同然でありますから、英雄というよりは清貧の人です。誤解がないように付け加えると、修道士といえば、顔色の悪い、苦虫を嚙み潰したような顔の人が思い出されますが、フランチェスコはよく笑う、快活な人であったようです。

そんな大決断にはやっぱりそれなりの理由がありそうなんですが、映画みたいに劇的な回心のエピソードを期待してもダメです。史料だけ読んでも、現代人を納得させるような物語が見えてきません。だけども、やっぱり生を苦しんだり死を恐れたりするひとびとを救いたいという思いが、そんな極端な行動をとらしめたようです。しかし、伝記的情報が限られていて、自分のような人間にはその回心の内面的過程を理解するのはなかなか難しいのは、一遍と同様です。まあ、凡人が同じ立場にいたら絶対にやらんだろうなということをやってのけて、それによって不朽の名声を得たから、偉人なわけですが。

さて、一遍の場合のように、救済対象に「悪人」が含まれたかどうか、です。直接的な証拠は少ないんですが、そもそもキリスト教の教義自体が罪びとを赦すことであります。ひとつ言及されていたのは、今日ではハンセン氏病と呼ばれるらい病患者の存在です(今日では差別に結びついた語として使用が避けられるんですが、ここでは差別の歴史の一部としてこれを用います)。回心前の彼は、らい病患者という存在と向き合うことができなかった。道で彼らに出会うと、目を背けてしまう。怖くて逃げ出してしまう。ところが、あるとき一大決心をしまして、患者たちが収容されている施設に赴むいて、彼らを抱きしめる。すなわち、どういう理由かははっきりしないんですが、らい病患者の存在自体が、回心のきっかけの一つとなったようです。

当時は、まだらい病が細菌によるものであるという知識がありません。一遍の時代の日本と同様に、それは過去の罪に対する罰であると考えられましたから、彼らは神に罰せられた罪びとであります。自分が想像するに、たぶんらい病患者を避けることがキリストの教えに反していると心の底では感じているのに、彼らへの生理的嫌悪あるいは神学的恐怖を抑えられない自分に罪の意識を抱いていた。だから、その罪びとをキリストの愛で救うことによって、この罪を贖おうと思ったのではないかと思います。

そして、回心後は、らい病患者にかぎらず、運命に虐げられた多くの人たちを救うことに残りの人生を捧げました。晩年は正体不明の病に苦しむんですが、そうやってらい病患者と積極的に接触していたから感染した可能性もあるようです。まさに身を賭してキリスト教的愛を実践したわけです。たとえそうであったとしても、一般にはらい病と認めることは罪びとと認めること(あるいは罪びとと交わったことに対する罰)と思われかねない。それで、彼の死後に作られた聖人伝説ではこの点が抜け落ちてしまったんじゃないかと思います。

さらには、交戦中のイスラム教徒のような異教徒とも、対話を通じて和解が可能だと信じていたようでありますから(イスラムの王を説得しに出かけて歓迎されたという説話が伝えられています)、「悪人」もまた救済の対象となったのではないかと想像されます。聖地を不当に占拠している異教徒を退治する十字軍に参加しようとした若者は、回心を経て、異教徒までも救済の対象にしてしまったんです。

こうした情熱は、今であったらドン・キホーテ的なものとして狂人扱いされそうですし、当時も最初はそういう反応が大半だったらしいです。教皇や僧侶たちも、フランチェスコの汚らしい身なりを見て不快に思った。だけども、次第に彼の情熱に多くの人が感化されていく。身分の高い人たちもそうなんですが、民衆や女たちのなかにも彼の支持者が多かった。教会には忠実でしたから、異端とはされずに、フランシスコ会は信徒を引き入れる入り口として重宝されたようです。

彼のような人物が人望を得た背景としては、十字軍が始まる頃の話ですから、一般に広く宗教熱の高まりがあったようです。これはまだ自分の想像にすぎないんですが、やはり平安末期から鎌倉時代にかけてのように、大きな社会変動や世の乱れに、異教的な民間信仰の衰退が重なって、多くの人がキリスト教に新たな救いを求めるようになった時代なのではないかなと思っています。この時代には有力な修道会が創設されるだけではなく、多くの異端も発生しています。一般に、教会に対する期待と不満が高まっていて、新しい思想と実践が求められていたのではないかと思います。

しかし、彼の愛の思想や実践ではなくて名声に魅かれる人が集まってくるようになると、修道会が巨大な教団と化していきます。今までは同行の士(「小さき兄弟」)であった者たちのあいだに役割分担が生じてきます。指導する者とされる者、リーダーとフォロワーですね。時宗とはちがって、フランシスコ会は有力な修道会に成長していきます。だけども、フランチェスコ自身は、この教団化に複雑な思いを抱いていたようであります。

フランチェスコにとって重要なのは、信仰の内面性でありキリスト的な愛の実践です。だから、余計な規則やら習慣を嫌った。この点も一遍上人と似ています。しかし、教団化した修道会はフランチェスコの自由を嫌って、事細かに「こうすべし」という明確な基準を求めるようになっていったんですね。教団組織の維持のためにリーダーが押しつけたということもありますが、何をしていいのかを自分で考えられないフォロワーもこれを求めた。精神をマヒさせる規則や儀式ではなく、それを働かす生きた宗教を目指すという意味では、フランチェスコの当初の意図からは後退したようなところもある。

そう考えますと、一遍のお札配りや踊念仏のような救済も、「信者を増やすために適当なこと言ってんじゃねえの」という疑いとは別の目で見ることができるかもしれません。一遍にとっても大事なのは形式ではない。仏の慈悲は広大であり、善人を救ってもまだ余りある。これが動かせない教義上の大事実でありまして、あとはこの慈悲に気づいて感謝する心の問題であります。どうしたら救われるかという形式よりも、内面の問題なんですね。神仏の慈悲を感得してそれに感謝する心さえあれば、それがどのように表現されようがたいして気にしないわけです。

ですから、神学者や異端審問官みたいには、儀式的な細部、小さな言い間違いや失言みたいなものにまで、いちいち目くじらを立てたりしない。絶対に譲れない信念があり、それを守り通すためにある面では極めて禁欲的で厳格なんですが、そこさえ守れれば鷹揚さや寛容の余地がある。一遍の見た目の厳しさと能天気な教えとのギャップの謎を解く鍵も、どうやらそこいらにありそうです。

悪人を救う聖人⑶:親鸞

この鷹揚さや寛容というのは、悪くて弱い者を救うという使命にも関係してます。一遍にもアッシジのフランチェスコにも共通なものの一つは、どうやら弱者の救済への情熱であります。そして、その「弱者」のなかに、当時一般には「悪人」と呼ばれうるような人たちも含まれた。そこで思い出されるのが、悪人正機説と呼ばれるものです。同じく同時代人であった親鸞聖人の思想の根本にあるものでありまして、悪人こそが救われるという教えであります。勘違いしちゃいけません。悪人デサエ救われるんじゃありません。悪人ダカラ救われるのであります。

「デサエ」と「ダカラ」のわずか三文字のちがいでありますが、バカにしちゃいけません。ここに思想上の大きな飛躍があるようです。親鸞の師であった法然は「デサエ」を説きましたが、親鸞はこれを「ダカラ」にまでもっていった。「なんだ、たった三字を書き換えただけで、言ってることはほぼ同じじゃないか」と思われるかもしれませんが、この三字を書き換えるために、多くの苦しい思索と体験を経なければならなかったようなんです。おそらく口数がいまよりずっと少なかった時代であり、舌先三寸だけで曲芸的な朝令暮改を苦もなくやってのける現代のおしゃべり階級とは、言葉の重みが違ったようなんです。

「悪人デサエ救われる」であれば、善人も当然救われます。いや、当然、まず善人から救われるんですが、仏の慈悲は無限に広い。善人をすべて救っても尽きない。悪人にまで及ぶ。ですから、悪人が救われるのは、言ってはなんですが、まあついでです。いくら慈悲が余っても善人だけが救われるべきだと考えるケチな人でないかぎりは、まあ理解可能です。ところが、「悪人ダカラ救われる」になりますと、悪人しか救われない。善人は悪人ではないですから、救われないんです。救われるためには、まず悪人にならないといけない。

そんなバカげた話があるもんか、そんなこと言ったら悪人はなり得で、世のなかみんな悪人になっちまうじゃないか。親鸞なんて奴は、世のなかの常識に逆張りしてるだけのつまらん論争屋じゃないのか。当然、そう文句を言いたくなるはずです。ちなみに、そう思えるのは、われわれが善人たろうとして頑張ってるからでありまして、「そうでない奴が救われて、自分が救われないなんてズルい」と思うからであります。もし罰せられずに救われるんだったら、自分だって悪人でよろしい。そう思うところがあるからです。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。