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正義の味方と弱くて悪い連中 その二

割引あり

「弱いけど善人じゃないかも」の人々

さて、前回からの続きであります。

復習しますと、現代の正義の味方にとっては、「悪」が「弱」でもある、あるいは「弱」が「悪」でもあると考えることが、非常に厄介なものとなっている。しかし、世のなかには、「自分は弱いけど善人ではないかも」という不安を拭えないひとたちがけっこうおります。そういう存在をあたかも存在しないもののように扱う正義の味方は、政治の世界、とくにデモクラシーにおいては、民衆の英雄ではなく敵とみなされかねない。今日「リベラル」とか「サヨク」などと称される政治勢力が陥っている苦境は、ひとつにはそういう問題に起因してるんではないか。そういう話でした。

何を隠そう、私なんかもその一人であります。幼いころにテレビのヒーローたちを愛した自分の同情は、今でも悪の首領よりは正義の味方にあるんですが、その反面、いろいろな意味でマジョリティに属してもいます。たとえば、現状の男女間の格差は正当化しえないものが多いと考えていますから、男女平等の理想にもっと近づけるべきだと思ってる。しかしまた、男としての弱みもあります。許可なく女を性的対象として見るような男は危険であるとか、性犯罪を犯してしまった者はすべて去勢せよ、みたいな意見を公言するようなひとびとに国家権力を任せたいとは思えない。

これは量的な意味でのマジョリティとしての弱みに限りません。自分はタバコ呑みですが、喫煙者に対してなら何をやってもよろしいと考えるようなモラル・マジョリティに対しても同じであります。かつては喫煙者が強い立場にあったがために、喫煙というのが悪、加害行為たりうるということに鈍感であったこと、そして、それがわかった今でもその悪に抗しきれない自分は弱いということは自分でも認めています。だけども、こうなった以上は、喫煙者なんか何人抹殺したって何も悪いことないじゃないかと考えているような人には、障がい者なんて殺した方が世の中のためだなどと考える人と同じくらい権力をもって欲しくない。

むろん、そんなものは、院外団の場外乱闘における売り言葉に買い言葉、無責任な放言でなかったら単なるレトリックに過ぎません。議会に議席を有するような責任ある政党や政治勢力を代弁する立場のひとは、ふつうはそんなことを公認していません。だけども、そういうひとびとに後押しされてる、少なくとも票集めのために黙認しているというだけで、やっぱり不安がかき立てられるのは、過去にも権力闘争に勝つために政治家がそのような有権者の感情を煽ったり、逆にそれに押し流された例がいくらでもあるからです。

人種やら性別やら職業やらの差別でさえそうであります。原則として私は差別に反対ですが、じゃあ、自分にはまったく偏見がないかというと、そう言い切る自信がない。知らずに差別に加担してることもあるはずだし、気をつけてはいてもいつ失言を咎められるかも知れない。納得できる理由を伴って指摘されれば改めるつもりではありますが、普段から失言を待ちわびて、捕まえた奴は有無を言わさず片っ端から公開処刑にしようと機会を窺ってるような連中は、やっぱり政治権力から遠ざけておきたいと思う。

だからといって、差別的言動を繰り返して憚らない極右勢力を応援する気はさらさらありません。でも、正義の味方があまりに傲り高ぶってると感じられるときに、悪の首領みたいなものに声援を送ってみて、ちょっと懲らしめてやろうという心理は理解できなくもない。はじめはそういうちょっとした反抗であったものでも、いったん資源や感情を投資してしまうと、ひとは容易には引き返せなくなる。浮動層のかなりのひとが、そうやって右に寄っていったんではないかと思います。

実際のところ、ポリコレ違反の差別的言動の多くはマイノリティに向けられたものというよりは、「リベラル」とか「サヨク」に向けられているようなところがある。「正義の味方」に裏切られたと感じる者たちが、彼らに守られているようなひとびとを貶める言説を拾ってきているのであって、現実のマイノリティとの接点をほとんどもってないことが多い。

でありますから、私が格別悪い人間でないとすれば(そうではないと自分では思うんですが)、「弱いけど善人ではないかも」という不安は、なにも悪の軍団の戦闘員たちだけのものではないようです。自分たちが認める以上に多くの有権者が、そのような不安を抱えているはずであります。そのようなひとびとを片っ端から端的な「悪人」に分類していくのは、はじめから権力闘争に勝つことを諦めてる、民主的な政治勢力として無責任な行為であるかもしれません。

さらに言わせてもらえば、多くの者がなぜそんな自殺行為をあえて犯すのかというと、おそらく正義の味方や彼らの支持者のなかにも、おのれの悪と弱さに不安を抱いていて、浄めの儀式みたいなものを必要としている者がいるからではないかと思います。人前で正義の味方やその支援者を演じることが、この儀式の役割を果たす。しかし、「自分を浄めるために他人をスケープゴート(比喩ではなく文字通りの意味で)にしてしまっているかも」という自覚に欠ける。それがまた、現代の正義の味方を民衆から遠ざける一因にもなっている。そういう状況診断であります。

進歩的知識人と宗教

だがそうなりますと、どうも世のなかの大半は、どこかしら弱くて悪いひとびとであります。この「現実」から目を逸らそうとするから、自らを人間から疎外してしまう。人間不信に陥って、人類を無暗に善人と悪人の二種族に分けたくなる。そこで、自分が提案いたしましたのは、「弱いけど悪」とか「悪いけど弱い」(あるいは「悪いから弱い」、「弱いから悪い」)という、現代の道徳からは零れ落ちてしまった存在に正面から向き合った、そういう思想を歴史のなかから掘り出してきて、そこからなにか学べないか調べてみよう、とそういうことであります。

たまたまかもしれませんが、自分の目にとまったそのような思想は、非近代的あるいは反近代的なものが多い。だいたいは宗教的なものであります。そう言われただけで、進歩的なひとびとは警戒するかもしれません。ですから、まずはなぜ自分がそんなことに興味をもって調べてきたのかについて、ひとこと述べておきます。

いまでこそ宗教現象に深い関心を抱いてるんですが、政治経済を専門にしていた自分が宗教の重要性に気づかされたのは、ようやく人生も後半でありまして、2001年の9・11(アメリカ同時多発テロ事件)後のことです。科学が発達した時代においては、宗教は衰えつつあり、自然消滅しないまでも、社会を動かす力としてマージナルなものになるだろう。進歩派の知識人たちはだいたいそう考えていたんですが、彼らを手本とした自分もまたその例にもれませんでした。

ところが、9・11をきっかけにして、知識人はこの暗黙の前提の見直しを迫られました。主要な知識人のほとんど全員がそうです。政治理論のみならず、実証的政治学でも国際関係論でもです。イスラムという特定の宗教の特性にテロの原因を還元しようとする者もいたんですが、9・11以前にも米国や日本で大規模な宗教テロが起きていますし、インドなどのようなデモクラシーでもヒンズー原理主義と呼ばれるようなものが擡頭していたことも気づかれました。右派と左派のよほど偏狭な人でないかぎり、特定の宗教宗派ではなく宗教というカテゴリー、○○教とか××教ではなく「宗教的なもの」の意味を見直さずにはいられなかったのであります。

人間自体にどこか宗教的なところがある。先進国のように近代化、世俗化が進んだように見える社会においてさえも、それは底流として存在していて、ひょんなきっかけで地表に表出したりする。だから好き嫌いは別にして、宗教を理解しないかぎり、これまでにこの世界で起きてきたことを理解できないし、これから起きるであろうことも理解することができない。まあ、そういうパラダイム転換のようなものがあったんですね。言ってみれば、9・11以後、宗教に関する知識というものが必須の教養として見直され、教養のアップデートを迫られたんです。たとえ政治経済を専門とする者であっても、宗教を無視できなくなった。

自分もまたその一人であります。それまでは、宗教というのは迷信や欺瞞であって、まだ蒙を啓かれてないひとびとのものである、自分たちの役割はこのひとたちを啓蒙していくことである、という近代知識人の暗黙の自己理解を無反省に受け継いでいました。この無反省に気づかされて、意識が自己のその部分に向けられたんですね。

しかし、私自身は平均以上に信心のない人間であります。ですから、信心深い人が生きる世界を内側から理解することが、やろうとしてもなかなかできません。なんでそんなことが信じられるのか、どうしてそんな根拠の怪しい信仰に基づいて思いきった行動ができるのか、それがいちいち驚きのタネなわけです。

でも、そういう人びとを絶対的な他者として見ているかぎりは、宗教現象を内側から理解することができません。ということは、この世界で起こる多くのこともまた理解の外になってしまう。そうなれば、世界に裏切られ続けることになる。なんとかして、この人たちを理解しないとならない。それで、宗教や宗教者に関する書物を繙くようになった。

自分は西洋政治思想を読んでいましたから、キリスト教神学についても多少は学ばされました。しかし、神学者たちは良くも悪くも学者です。だから理屈っぽい人が多い。理屈であれば、理性で理解しうる。また、独学ではありますが、ミンゾクガクを介して、民衆世界における信仰の役割についても、少し考えるところがあります。

まだ自分の理解を越えるのは、そうした理屈やら日常の必要を越えて、尋常な精神状態であったらなしえないようなことをなさしめる宗教的情熱であり、そういう情熱をもった宗教者たちです。宗教の革命的な側面を象徴する人々ですね。それはテロみたいなかたちにもなりますが、弱者への徹底的な献身と自己犠牲という偉大な行為にも結びつきます。いずれにしても、とても自分にはなしえないようなことであります。

そういう宗教的偉人はまた、今日の「正義の味方」に通じます。きっと民衆の英雄としての「正義の味方」のイメージの源泉のひとつは、悪を裁く司法的リベラルではなく、そうした聖人たちではないか。そういうふうにさえ思えます。ただ、無視しえないちがいがありまして、それは「聖人」たちは悪人と弱者のあいだに、「正義の味方」やテロリストほど厳格な線を引かないという一点ではないかと思います。

悪人を救う聖人:一遍

聖人にもまたいろいろなタイプがあるんですが、自分がとくに興味を抱いているのは、現世ではどうにも救われない者を救おうという情熱に駆られているような聖人です。別に聖人でなくとも、善意の人であれば人助けをするものでしょうが、これらの聖人たちの際立つ点は、とにかく誰でも救おうとする。一般には救いようがないと思われてる者までです。

たとえば一遍上人という人がいます。鎌倉時代の僧であります。承久の乱で没落した伊予の武家の跡取り息子でありましたが、イエも家族も資産もすべて捨てて遊行の聖となり、南は薩摩大隅から北は岩手江刺まで行脚しました。そうやって、一生を旅の空の下で費やしたような人です。没落したとは言え、地方の豪族の跡継ぎであります。望みさえすれば、一生苦労せずに食っていくくらいはできる。それを、何を好んでか、乞食同然の姿になって歩き回ったんです。

なんでそんなことになったかというと、ワンダーラストというよりは、できるかぎり多くの人を救いたいという気持ちが嵩じたゆえの行動のようであります。救うというのは、極楽浄土に行けるようにしてあげるということであります。死後の救済というのは今でこそあんまりありがたいと思えないんですが、まだ現世で救われることがそうそう期待できない時代です。これが、生きることに困難を感ずるひとびとにやってあげられる、最上のことだったのだと思われます。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。