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結論 何も間違ってない

最終的にわかること、ジタバタした挙句に行き着く感想は必ずこれになる。

なんだ、何も間違ってなかったわ。

言い換えると何も解決してない。それでよかったんじゃん、というところに落ち着く。そこには安堵感や全肯定がある。拍子抜け勘もあって、ちょっと笑えたりする。菩薩像や宗教的絵画にある上位存在が微笑しがちなのはそのせいだ。

子供の悪戯や失敗にくすっとなるとき、嫌な上司だと思ってた人の背景や思いを知った後のその人の行動にくすっとなるとき、長く連れ添った伴侶が亡くなって昔を思い出してくすっとするとき、ちょっとあったかい気持ちになって、寛容な気持ちになって「ああ、もう、しょうがないなぁ」と笑うとき、そのときの感情を愛情という。

個人的におもしろいなと思うのは、その深い愛情の中に一抹の寂しさがあることだ。この寂しさは儚さからくる。儚さは切ないという感情を伴う。過ぎゆく時間の中の愛おしい一瞬にそれを感じる。移りゆく季節に、儚く消えてゆく一瞬一瞬を感じるとき、愛情と寂しさを同時に感じる。エモいってやつだね。

このときの寂しさの配合が増えると哀しみになったりする。切ないと哀しいの違いは時間的な持続力の違いだ。切なさは短く哀しみは永い。例えば愛する子供を亡くした親は哀しみを持ち続けるものだ。

感情は絵の具と同じで、基本原色「怒・哀・喜」があり、それぞれに明暗がある。その配合によってさまざまな色彩を放つ。どちらかというと光の色であるRGBよりインクの色であるCMYKに近いように思う。それは感情がより物質世界に近いからなのだろう。

とにかく結論は「何も間違ってない」だ。そしてそれと同時に「正しくもない」。二極同時発生なので消滅も同時だ。間違いがなくなると正しさもなくなる。

正しくあることは生命としての肉体がコミュニティの中で生き残るのに重要で、正しくないこと=なにかしらの危害を加えることはコミュニティの中で断罪や迫害といったことにつながり、結果自分の命を脅かす。ルールを守り円滑なコミュニケーションを図ることは安心と安全につながる。生命として危険を排除したいという欲求は自然であり、ゆえに正しくある必要性が生まれ、正義と悪の戦いがある。ここにある正義は悪に危害を加えるという同じ行動に発展する。正義と悪は常に敵対し立場を入れ替えながらくるくると回るのだ。
「正しくある必要性がスピンする」という表現がある。必要性がこうあるべきといった信念までに成長すると、排除したいという気持ちに拍車がかかって必要以上に相手を叩くことをいう。ネットで見かける誹謗中傷はその代表だろう。正しくあることを強く主張すると逆に正しくある必要性によって叩かれる。そしてまた叩かれた方は表現の自由を訴え相手を叩く、もしくは罪悪感によって自分を迫害する。これらがある程度大きく発展すると法律という大きなルールに従うことになる。これは国としての大きな枠組みの中での安全対策だ。
法律は実のところ正しくあることは主張しておらず、間違うこと前提で作られている。殺人をしてはいけないと書いてあるのではなく、殺人をした場合はこのルールに従って罰するとある。

スピリチュアルで正しくある必要性を手放すことが推奨されるのは、このぐるぐるから抜けて、より大きな視座で意識を観察するためだ。感情の層を抜けて、そのぐるぐるを見渡すと、そこには共鳴と同意があるだけで、正しいことと間違っていることの境界はなくなる。それはまるでくるくる回るエネルギーであり、その物語からどれだけ多くの感情や思考が生まれたかを知る。まるでブラックホールのように全てを引き寄せながらぐるぐるとまわり、感情というジェットを噴き出す。その視点から見たら、どうしたっていいも悪いもなく、そういうものという認識にしかならない。

そのとき、伴りょを亡くした寡婦のように「いろいろあったけど、楽しかったわ」という寛容と愛情の域に達する。すべては包み込まれキラキラとした儚くも大事な思い出となる。これが、いわゆる統合という意識にもっとも近い状態だ。


自分探しの旅に出て、何かを変えたくてジタバタして、何かを見つけたくてジタバタして、本当の愛や真実を知りたくて、何が正解で何が不正解なのかを探し求めて行き着くところはどこなのかと言えば、すごくよく知ってる自分の部屋なのだ。
なんだ、知ってるわここ。めちゃくちゃ知ってるわ。ずっといたわ。なんだ、全部それでよかったんじゃん。・・・というところなのだが、それでもそれは探し回った先にしかないものなのかもしれない。

何も間違ってない。
かといって正しくもない。

必ずそこへ行き着いて、くすっと笑うのだ。

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