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【読書】強さと弱さの二項対立を超える──『弱さの思想』『「雑」の思想』『「あいだ」の思想』(高橋源一郎・辻信一)[前編]

高橋源一郎と辻信一が10年に及ぶ共同研究を通じて培ってきた思想をまとめた三部作。三冊全てが対談形式となっており、一冊あたり200ページ強のボリュームのため読みやすい。私個人としても、これまで社会に対して抱いてきた違和感や問いが言語化されており、とても多くの学びと含蓄に満ちた本だった。私にとって、恐らくこの本からの学びは今後の人生を送る「あいだ」のよすがのようなものになると感じた。
具体的な中身はぜひ実際に読んでいただきたいが、このエントリでは各本からの気づきや感想、抱いた思いや問いを書いていきたい。

(長くなりそうなので、前編・中編・後編に分けて書いていきます。今回は【前編】)

『弱さの思想』

はじめにこの本を手に取ったきっかけは、スキルアップや自己責任論などの「強さ」が蔓延っていく状況に覚えた違和感からだった。「強い自己」が良しとされる世の中には、必ず弱者が存在している。「弱さ」にも目を向けなければ、包摂的な社会は築けないのではないか──。そんなモチベーションで本書を読みはじめた。

本書中では具体的なケースがいくつか紹介されていたが、特に印象的だったものを簡単に書き留めておく。

過疎地域と迷惑産業

都市での生活は快適だ。だが、その快適さの裏では誰かが苦痛を被っているかもしれない。かつて公害を生みだした工場、日本中に点在する原発、軍事基地──。過疎地域に迷惑産業を押し付けてお金を投下する。私たちは直接関わってきた訳ではないのかもしれない。けれど、目を背けてきたのではないだろうか。『チッソは私であった』──その言葉の意味を考えなければならない。

精神病院が真ん中にある街

オランダのエルメローの駅を降りると、そこにはフェルトワイクと呼ばれる大きな精神病院が広がる。そこには病院の敷地と一般住居との境界は無い。病院を隅へと追いやって見えなくするのではなく、病院を中心に街全体に共同体が形成されている。日本はどうか。世界の15%の人は何らかの障害を持つと言われているが、私たちの生活は不自然に「ふつう」ではないだろうか。

小児ホスピス

イギリスの子どもホスピス、マーティン・ハウス。死を待つ子どもたちと、その家族。そこでは、死を悟った子どもたちの方が、その親たちを励ましている。そして、生と向き合う、ゆっくりとした、安らかな時間が流れている。微笑みを絶やさない子どもたち。一番弱い存在のはずの子供たちが、周りの大人たちに影響を与えていく。

ダウンズタウン・プロジェクト

志摩半島の子供向け絵画教室「アトリエ・エレマン・プレザン」を営む佐藤夫妻。そこに通うダウン症の子たちは生き生きと絵を描き、それらは独特に美しい。しかし、彼らが成人後は同じように過ごせる環境はない。三十年の時を経て、佐藤夫妻は彼らのための街を作るしかないという結論に至る。ダウン症の子たちが働ける場所、彼らの絵を飾る美術館、彼らが通える施設が真ん中にある街。

宅老所「井戸端げんき」

利用者、スタッフ、ボランティアが共同に活動し、楽しさを分かち合える介護施設。介護者と非介護者という関係を超えた人間関係が、「その人らしさ」を取り戻していく。社会には居場所のない人たちにとっての居場所がそこにはある。

──これらの事例を通じて気付かされるのは、「弱さの強さ」と「強さの弱さ」、そして、強者と弱者に分けること自体の不自由さだ。「ふつう」だと思いこんでいる私たちは、マジョリティとしての「強さ」に、とかく無自覚だ。そして、「ふつう」ではない人とのあいだに線を引き、それらを分けてしまいがちだ。そうして、強いものと弱いものが分けられた社会が形成されていく。これをデフォルトとして育った世代には、そもそも弱き者の存在すら認識できなくなっていく。

アンパンマンと勧善懲悪

私の子どもがまだ小さかった頃、テレビで『それいけ!アンパンマン』を一緒によく観ていたが、毎回必ずモヤモヤを感じていた*。

バイキンマンが何か「悪さ」をしでかす。そこに正義のヒーロー、アンパンマンが駆けつける。その時の第一声は毎回これだ。

「やめるんだ、バイキンマン」

最後には必ず「アンパンチ」で鉄拳制裁、そして一件落着。でも、本当にそれで良かったのだろうか。バイキンマンにも何か事情があったのではないか。そんなことを考えてしまっていた。

ヤフー知恵袋でも同じ疑問を抱いた人を見つけた。(それにしても、「それいけ!」と、社会の期待を一身に背負うアンパンマンもなかなかに大変な職業だ。彼は彼で、求められている結果を残さなければならない。)


鬼滅の刃も構造的には同じだ。鬼殺隊の面々は、鬼を殲滅する。そうしなければ、人間が喰われてしまう。でも、鬼の主食は人間だ。鬼は人間を喰わなければ生きていけない──。

アンパンマンにせよ、鬼滅の刃にせよ、戦隊モノにせよ、仮面ライダーにせよ、私たちは何かと勧善懲悪モノが好きなようだ。誰かを正義と悪に二分する。正義は必ず勝つ。物心つく前からこうしたストーリーに触れて育つが、冷静に考えると物凄い英才教育だ。だけど、少しでもお互いが、相手の立場に立って歩み寄っていたとしたら、違う道も見つけられたんじゃないかとも思ってしまう。

*追記: コテンラジオの「やなせたかし」編を聴き、アンパンマンの印象が 180 度変わりました。

「強さと弱さの二項対立」を超える

現代は「管理」を強める社会であるとも言える。己を律し、厳格なタイムマネジメントを通じて、高い意識でスキルアップを図ることで生産性を高める。勝ち組と負け組の分岐点は、自分自身の強さ・努力・能力にある。自己管理ができなかったとすれば、それは自分自身の責任に他ならない、と──。

しかし、本来そこには、勝ち・負け、強さ・弱さなどというものは存在しないのではないか。いや、存在はしたとしても、本質的な価値はそこにはないのではないか。
効率性を過度に追求することは、余白を消すことだ。「無駄」なものを取り除くことで、目的に対する効用は最大化する。目的を達成するために純度が高められた手段がこうして完成を遂げる。しかし、そこには以前には存在していた多様性は失われている。もし仮に、当初の目的から逸脱した事象が発生したとすると、これに対応するための柔軟性やレジリエンスは相当に低いだろう。そこには、効率化の強さと弱さ、多様性の弱さと強さが同時に存在しているのだ。

私自身は、以前は弱者とその「弱さ」に目を向けることが寛容かつ包摂的な社会をつくるのではないかと思い込んでいた。けれど、本書を読んで「強さと弱さの二項対立」を超えることにこそ、これからの希望があるのだと思い改めた。
ただし、それは強さ・弱さを「無くす」ことではない。一様・平等にすることが良い社会であるとは限らない。歴史を振り返れば、そこには必ず不平等が生じていたし、現在もそうだ。そもそも、一人ひとりの身体性・精神性は異なるのだから、平等になどできやしないのだ。であるならば、平等 (equality) ではなく公平 (equity) を、強さ・弱さに線を引く (exclusive) のではなく、強さと弱さが混じり合う状態 (inclusive) を志向できないか。

そんな妄想や問いを抱きながら、『弱さの思想』を読み終わった。(中編へ続く)

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