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【読書】複雑なものを複雑なままにしておきたい──『弱さの思想』『「雑」の思想』『「あいだ」の思想』(高橋源一郎・辻信一) [中編]

高橋源一郎と辻信一が10年に及ぶ共同研究を通じて培ってきた思想をまとめた三部作。三冊全てが対談形式となっており、一冊あたり200ページ強のボリュームのため読みやすい。私個人としても、これまで社会に対して抱いてきた違和感や問いが言語化されており、とても多くの学びと含蓄に満ちた本だった。私にとって、恐らくこの本からの学びは今後の人生を送る「あいだ」のよすがのようなものになるように感じた。
具体的な中身はぜひ実際に読んでいただきたいが、このエントリでは各本からの気づきや感想、抱いた思いや問いを書いていきたい。
(長くなりそうなので、前編・中編・後編に分けて書いていきます。今回は【中編】)

【前編】はこちら

『「雑」の思想』

前著『弱さの思想』では、一見快適で効率的に感じる現代社会の「弱さ」が語られた。弱者を社会的に隔離することで、強者にとっては社会は快適になったかのように錯覚する。しかし、強者に向けて設計・最適化された社会には、同時に弱さがある。「強さ・弱さの二項対立」を超えることにこそ、新しい社会への希望がある。

こうした問いを受けながら、『「雑」の思想』でも具体的なケースを通じて議論が進む。

相模原事件と社会の洗脳

障害者施設で起こった凄惨な殺人事件。容疑者が陥っていた「障害者は役に立たない」という非常に「シンプル」な思考。一人ひとりの個別の違いは無視され、「障害者」と「健常者」というラベルがつけられる。「役に立つ」こと=生きる意味だと洗脳する社会──。私たちの価値観はどうだろうか。

代議制民主主義と思考停止

日々の暮らしの中で、私たちが抱いている考えは様々だ。しかし、選挙では政党の政策に沿って議員を選ぶ。元々無数にあった考えは、党の考えとして収斂される。分かりやすくなり、採択しやすくなるが、本来の複雑さは失われる。そして、投票し終わると私たちは自分の考えを彼らへと委任し、それ以上は考えなくなってしまう。

ファシリテーションと余白

円滑な議論やアイデア出しのために、論点をまとめて入念に準備する。想定していたタイムスケジュールの通りに議論が進む。一見すると実に生産的な時間に感じる。しかし、元々用意していた「答え」を辿っていただけで、一人ひとりの多様な意見は本当に生まれていただろうか。そうした余白は持てていただろうか

系譜的なアートとマージナルなアート

芸術や文学には系譜性がある。専門的・権威的なものとそうでないもの、純粋なものと大衆的なものに対比される。しかし、それらの間にはマージナルな「のりしろ」としての存在もあると鶴見俊輔は言う。寧ろ、マージナルなものにこそ可能性があるのかもしれない。

これらは一例だが、こうした「○○と□□」という「対比」も便宜的な観点にすぎず、そもそも二項対立で括れる議論では無いのだろう。

物事を単純化することの恐ろしさ

私たちは、物事を安易に何かに分類したり、A対Bのような対立構造へと「還元」しがちだ。効率化や均質化はグローバリゼーションによる「強さ」の産物であり、一種の「還元主義」とも言える。分かりやすくしたり、効率化することで都合が良い場面は何かと多い。いや、日常生活のほぼ全てががそうかもしれない。もごもごしていて何が言いたいのか分からない人よりも、快刀乱麻、単純明快に物事を断言してくれる人の方が安心できる。(ように感じる。)

しかしながら、だから厄介なのだ。

本来、私たちが暮らすこの世界はものすごく複雑だ。そして、それが自然状態であることをつい忘れてしまいがちだ。もちろん、物事を認識したり、理解しやすくするためにはラベル付けや分類は必要なことだ。そうしないと、認知コストがかかりすぎるし、コミュニケーションもままならないだろう。

しかし、本書を読んでいて考えさせられるのは、安易に・過度に物事を単純化することの恐ろしさだ。社会を強者と弱者に分け隔てたり、分けることで分かった気になって思考停止したり、目的に沿わないものは切り捨てられたりしてしまい得る。(こうした断言的な言い方にも危うさを感じるが...)
このなんだかよくわからない世界と現実を、「雑」を、ありのままに受け止めるネガティヴ・ケイパビリティが重要なのではないだろうか。

LLM(大規模言語モデル)とニュースピーク

最近ぼんやりと「語彙の減少」について考えることが多くなった。いや、減少ではなく「平均への回帰」なのかもしれない。

言語データによる確率論的な言語

ChatGPT や Google の Bard  に何かプロンプトを入力すると、それらしき回答が即座に返ってくる。Web3 の話題はどこに行ったとばかりに、LLM(大規模言語モデル)や Midjourney など生成系 AI の発展が目覚ましい。レイ・カーツワイルが『シンギュラリティは近い』で述べていたように、技術的発展の速度自体が指数関数的に加速しているように感じる。

LLM の仕組み上、学習データは何らかの言語情報だ。それらは、当然ながらデータ化されていないといけない。そもそもデータ化されていない情報は、学習データには含まれない。(この段階で既に問題はありそうだ。)
そして、生成される回答は、入力したプロンプトに対して確率的に尤もらしいものが推論されて返される。外れ値的な回答は的外れなものとされる。プロンプトにはそれを入力した「目的」があるのだから、合目的的にベストな回答を返すのは当然のように思える。

しかし、確率論的に得られる結果には、多様性が失われている。それは、ChatGPT や Bard という人格(神格?)としての語彙へと、私たちが次第に還元されていくことにならないだろうか。

語彙と身体性の減衰

このテーマをより悲観的に考えると、ジョージ・オーウェルの『1984年』における「ニュースピーク」が思い浮かぶ。

ニュースピーク(Newspeak、新語法)はジョージ・オーウェルの小説『1984年』(1949年出版)に描かれた架空の言語。作中の全体主義体制国家が実在の英語をもとにつくった新しい英語である。その目的は、国民の語彙や思考を制限し、党のイデオロギーに反する思想を考えられないようにして、支配を盤石なものにすることである。

Wikipedia(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ニュースピーク)

小説内では、オセアニア国を統べる「党」が国民の思考を支配するためにニュースピークを用いる様子が描かれている。それは、語彙を減らし、限られた単語へと還元し、言葉の多様性を低下させることで、「党」のイデオロギーである「イングソック」(イングランド社会主義)の思想支配をより強固にするものだ。作中では、毎年語彙が削減されていき、数十年をかけてニュースピークを社会実装する計画が述べられている。

サピア=ウォーフ仮説に立てば、LLM によって効率化されていく世界は多様性と身体性・感受性の減衰とも予期され、さながらジョージ・オーウェルが描いたディストピアに重なってしまう。

『弱さの思想』では、「強さ・弱さの二項対立を超えること」が提起され、『「雑」の思想』では、そのオルタナティブとしての「雑」が検討された。では、この複雑な世界を安易に切り分けたり還元したりするのではなく、ありのままに受け止めるにはどうすればよいのだろうか?(後編へ続く)

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