[chapter11]『名前のない痛み』とは
1.「名前のない痛み」を「クオリア」で捉える
私たちは団体設立当初から「名前のない痛みを聴く」というミッションを掲げて活動している。それは、痛みを「記号」や「言葉」を通して理解するのではなく、今井むつみ先生が言っているような「身体的な経験」—それは茂木健一郎さんの言う「クオリア(感覚質)」(宮台真司さんは習得的な要素に注目し「クオリア」を「体験質」と言い換えている)で捉えよう、ということだ。
痛みの具体的な「内容」(テクストtext)だけではなく、それを感じた時の「心の反応」(コンテクストcontext)に焦点を当てるべきだ。
「化学」という学問では「物質」を「構造」(静的なもの)と「反応」(動的なもの)に焦点を当てて捉えていく。「英語」では、モノや人を「名詞」(静的なもの)と「動名詞」(動的なもの)を使って表す。
「寂しさ」や「絶望」「喪失感」など、痛みに伴う感情は多くの人が感じたことがある。この「反応レベル」での共通性や相違性を認識できると、具体的な痛みが異なっていても、互いにつながることが可能だ。これを私たちの団体では「名前のない痛みでつながる」と呼ぶ。
痛みを「身体的な経験」で捉える。
「そんなの簡単」「というか当たり前では?」
はたして、そうだろうか。
「名前のない痛みを聴く」には、かなり訓練が必要だ。
下の白黒の斑点が描かれたイラストを見てもらいたい。右側に「犬」らしきものがあると認識できると思う。だがこの犬を一度犬だと認識してしまうと、犬じゃない「ただの白黒の斑点」だと認識することはかなり難しい。
これと同じように、心理学や哲学,言語学や歴史学をほとんど学んでいない人に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を一冊でも読み通すことができれば「痛みの細胞図」を誰でも描けるようになる.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる.
2.痛みのデータベース消費
誰もが「自分の痛みにどんな名前が付くのか分からない」と不安になる。「自分が何者か」わからないと不安になるから「何か埋め合わせをしなくちゃいけない」と思う。
その何かを埋め合わせするために「不登校」「LGBTQ+」「HSP」「繊細さん」「MBTI」「精神障害」「発達障害」(以後これらを「名前のある痛み」と呼ぶ)といったようなラベルの付いたコミュニティに興味を持ち、参加してみたり、本を手に取ってみたりする。(=商品や情報の消費と同様に、「興味」「趣味」「性格」などのようなデータ的な「属性」の寄せ集めをする)
だが、そういったコミュニティに参加して「同じ痛みや悩みを持っている」と感じても、そのコミュニティに適応することに疲れ、しばらくすると「この人たちとは違う」と思う瞬間が訪れる。
この「同じ→違う」のループは、多くの人が無意識に繰り返すパターンで、自己理解やアイデンティティ形成において、よくある葛藤だ。
一見似たような悩みを持つ人たちと一緒にいると一体感が得られ「やっと自分の居場所が見つかった」と(錯覚し)安心する。しかし、時間が経つにつれて個々の違いや価値観の相違が目に付きはじめ、再び孤独や疎外感が戻ってくる。
このループが繰り返されるのは、「ラベル」や「共通項」に基づく一時的なつながりを「本質的な自己の受容」と誤解してしまうからだ。
子どもの頃は、他者を偏見やステレオタイプで見たり、また自分が「ラベル化」されることに無自覚であることが多いため、「見る営み」—つまり、純粋に相手や世界を観察し、理解するプロセスが自然な形で行われやすかった。しかし、大人になると社会が求める役割や他者からの視線にさらされ、「差別」と「見世物化」によって自分の姿が「見えなくなる」感覚が強まる(「見られることから疎外される」=「見て貰えない」)。
このような状況において、自己を表現するために何かしらの「目印」が必要となり、「名前のある痛み」を使うことが一つの手段として浮かび上がる。特に現代社会では、特定のラベルに基づいて支援やサービスが提供されるケースが多く、ラベルを持つことが支援を得るための条件になることが多い。たとえば、「不登校」や「発達障害」、「HSP」といった分かりやすいラベルを持つと、特定の支援やリソースにアクセスできる場合があり、それが自己ラベリングを促進する要因になっている。
この「見て貰えない」という状況の中には『差別(カテゴリー×ステレオタイプ)ゆえに「見て貰えない」場合』と、『見世物化(金儲けのための粉飾決算)ゆえに「見て貰えない」場合』が存在する。
差別(カテゴリー×ステレオタイプ)ゆえに「見て貰えない」場合
差別は、特定の属性やカテゴリーに基づいて、人が一面的に判断され、他者から「見られない」状況を生み出す。人はカテゴリーや偏見で括られることで、その人自身の経験や痛み、背景が見えなくなり、固定化されたラベルだけで捉えられてしまう。ここでの痛みは「名前のない痛み」として、周囲に伝わらないまま蓄積される。自分が自分であることが認められないこの状況は、セルフスティグマを生み、自己を否定する思考に繋がる。
見世物化(金儲けのための粉飾決算)ゆえに「見て貰えない」場合
見世物化は人やその痛みを「他人に見せるための道具」に変えてしまう現象。例えば、特定の属性や痛みが、感動を引き出すための「素材」として取り上げられ、商品化されることで、その痛みの真実や複雑さが失われる。こうした場合、社会はその人を「見る」ことなく、表面的な物語や感情で消費し、当事者の個別の経験が「見られない」まま、また別の形での「名前のない痛み」を生む。
外部への啓発活動では、他者への偏見や差別をなくそうという方向に力が注がれることが多い。だが一方で、セルフスティグマ—つまり、自分自身に対する偏見や否定的な思い込み(≒アンコンシャスバイアス)の克服は、「自分が自分をどう見るか」という内面化のプロセスにあるため、かなり根深い問題である。
セルフスティグマの危険性があまり叫ばれないのは、外的な差別と比べて、内面的で個別の現象に見えるからかもしれない。だが、セルフスティグマがもたらす影響は非常に大きく、精神的な健康や社会的な行動にも深く関わっている。自己に対する否定的なラベルは、自分の可能性や自尊心を制限し、他者とのつながりさえも避けてしまう原因にもなる。実際、セルフスティグマを抱えている人は他者からの支援も受けにくくなりがちで、「助けてほしい」と言うことさえ難しい傾向にある。
《続く》そのうち更新します