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[chapter11]『名前のない痛み』とは

1.「名前のない痛み」を「クオリア」で捉える

「私は今の時代に一番大事な言葉として「記号接地」というのがあると思っています。もともとはAIの問題として考えられたもので、記号を記号で表現するだけでは、言葉の意味を理解することはできないのではないか。理解するためには身体的な経験が必要なのではないか、ということです。
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私の定義では(記号接地とは)、身体の一部として感じられるという感じです。必ずしも全部について身体的な経験がなくてもいいんですけど、身体的な経験から始まって、そこから自分で推論して輪を広げていく。
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とはいえ、私たちは全てを経験できるわけではないので、全てを接地できるわけではないんです。でも、どこかは接地していないといけない。ほかの人が発見したものや、書かれたものを読んで覚えただけだと、決して接地しないですね」

前篇 AIは「ジェスチャーゲーム」を知らない | 言葉は「間違い」の中から生まれる | 今井むつみ , 高野秀行 | 対談・インタビュー | 考える人 | 新潮社

「名詞って、たくさんの言葉が必要なんです。いろいろなモノを区別して、差異化したいから。そうするとオノマトペだと不都合なんです。」

後篇 オノマトペから言語が発達した? | 言葉は「間違い」の中から生まれる | 今井むつみ , 高野秀行 | 対談・インタビュー | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)

私たちは団体設立当初から「名前のない痛みを聴く」というミッションを掲げて活動している。それは、痛みを「記号」や「言葉」を通して理解するのではなく、今井むつみ先生が言っているような「身体的な経験」—それは茂木健一郎さんの言う「クオリア(感覚質)」(宮台真司さんは習得的な要素に注目し「クオリア」を「体験質」と言い換えている)で捉えよう、ということだ。

「名前のない痛み」は「消費社会のデータベース化によって見過ごされる、個人の固有性や切実な痛み」を指すと言える。現代社会における人々の関係や欲望のあり方が、物語(ナラティブ)によって意味付けられたものではなく、断片化された属性や要素の集合、つまりデータベース的な「情報の寄せ集め」に基づいている

痛みの具体的な「内容」(テクストtext)だけではなく、それを感じた時の「心の反応」(コンテクストcontext)に焦点を当てるべきだ。

「化学」という学問では「物質」を「構造」(静的なもの)と「反応」(動的なもの)に焦点を当てて捉えていく。「英語」では、モノや人を「名詞」(静的なもの)と「動名詞」(動的なもの)を使って表す。

「寂しさ」や「絶望」「喪失感」など、痛みに伴う感情は多くの人が感じたことがある。この「反応レベル」での共通性や相違性を認識できると、具体的な痛みが異なっていても、互いにつながることが可能だ。これを私たちの団体では「名前のない痛みでつながる」と呼ぶ。

心の中の全ての表象は,「クオリア」という単位から出来ている。例えば,薔薇が心の中に見えている時,それは,色や,テクスチャ,形,香りといったクオリアの集合体である。赤のクオリアは,それが薔薇のイメージに組み込まれようが,トマトのイメージに組み込まれようが,要素としては同一の属性を持っている。ミルク味のクオリアは,それが,ミルクという認識,「ミルク」という言葉のラベルと結びつけられるかどうかにかかわらず,同じ属性を持っている。

クオリア入門/茂木健一郎

要するに私が青と感じて、皆さんが赤と感じているものを、逆に入れ替えても、はじめからそういう約束事でしゃべっているから、言葉のうえではほとんど矛盾が生じない。実は言葉というのは、クオリア自体を表現することはできますが、クオリアの中で起こっているさまざまな量的な関係は表現することはできない。それを我々は主観と言います。そういう、頭の中で主観的にどういう感覚が生じているかということは言語にはならない。それはなぜかというと、言語は外部に表出された記号だからです。

手入れという思想/養老孟司

クオリアとは言葉を聴いて「あー、あの体験のことだ」と思い出せる五感のイメージです。
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体験を思い出せる人には伝わります。体験を思い出せない人には伝わりません。言葉で体験を思い出せる時、「共通感覚がある」と言います。

性愛に踏み出せない女の子のために 第11回 後編 宮台真司 | 季刊エス・SS公式サイト (s-ss-s.com)

さて、言葉とは、ものに貼り付けられたラベルだと言えます。子供の頃に、言葉を学習していく過程では、実際に何かものをみる場面で、それにシールを貼るように、たとえば「これはトマト」というふうに言葉を教えていきます。ある言葉が「何かのそばで言われている」ことで、その言葉の意味がわかる。言葉にとっては「近さ」が本質的です。赤くて丸い野菜があるそばで「トマト」と言われることで、「トマト」という言葉―それは音声のリズムですね―が、その赤くて丸い野菜と結びつけられる。近さ、隣にあること、隣接です。さらに言語学習が進むと、たとえばトマトについての「赤い」という言葉は、いろんな「近いもの」と集合をつくる。出発点がトマトだとして、その赤が、何かの花の色と同じだとわかり、さらにコンロの火につながり、あるいは怪我をしたときに出た血につながる。

「センスの哲学」/千葉雅也

痛みを「身体的な経験」で捉える。
「そんなの簡単」「というか当たり前では?」

はたして、そうだろうか。
「名前のない痛みを聴く」には、かなり訓練が必要だ。

東日本大震災後のこの10年、ゼミで映画を素材にしてきた。目的はクオリア(体験質)の提供だ。
なぜクオリアか。理由は、感情の働きをゼミの主題に据えるからだ。この10年間、多くの映画作品と同様「感情の劣化」を主題にゼミをしてきた。損得を超えて思わず行動する感情的働きが、人ならぬシステムへの依存の自明化で失われるのが「感情の劣化」である
だが「こういう因果連関や機能連関で人々が感情的に劣化した」という言葉を理解するだけでは「感情の回復」に向けて動機づけられない。「劣化以前の豊かな感情の働き」なるものが体感できなければならない。それが難しくなった。実際「仰言ることは理解できるが実感はない」という学生が目立つようになった。だから体感ツールとして映画を使うのだ。
実践を通じて二つの傾向に気づいた。若くなるほど「物語的思考への傾斜」と「言語的理解への傾斜」が著しくなるのだ。

「崩壊を加速させよ」/宮台真司

下の白黒の斑点が描かれたイラストを見てもらいたい。右側に「犬」らしきものがあると認識できると思う。だがこの犬を一度犬だと認識してしまうと、犬じゃない「ただの白黒の斑点」だと認識することはかなり難しい。

The Intelligent Eye, written by Gregory R

この図は、最初はまったくバラバラに見える。そしてふいに、全てがはまって犬が見える。大雑把に言えば犬のクオリアを感じてしまう。すると次に見る時は、どうしても犬が見えてしまう。

「脳の中の幽霊」/V・S・ラマチャンドラン

これと同じように、心理学や哲学,言語学や歴史学をほとんど学んでいない人に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を一冊でも読み通すことができれば「痛みの細胞図」を誰でも描けるようになる.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる.

「病気経験にたいして、人はまず分類や命名という言葉の秩序を、まるで魚取りの網のようにして投げかけ、その経験特有の遊走性や過剰をとりしずめ、それを知の秩序のなかにおさめこもうとします。あらゆる形態の医学は、なによりもまずこの命名と分類を体系として整えようとします。言葉の秩序に属する知の体系として、病気の経験世界にたちむかおうとするのです。」

「チベットのモーツァルト」/中沢新一

2.痛みのデータベース消費

誰もが「自分の痛みにどんな名前が付くのか分からない」と不安になる。「自分が何者か」わからないと不安になるから「何か埋め合わせをしなくちゃいけない」と思う。

その何かを埋め合わせするために「不登校」「LGBTQ+」「HSP」「繊細さん」「MBTI」「精神障害」「発達障害」(以後これらを「名前のある痛み」と呼ぶ)といったようなラベルの付いたコミュニティに興味を持ち、参加してみたり、本を手に取ってみたりする。(=商品や情報の消費と同様に、「興味」「趣味」「性格」などのようなデータ的な「属性」の寄せ集めをする)

だが、そういったコミュニティに参加して「同じ痛みや悩みを持っている」と感じても、そのコミュニティに適応することに疲れ、しばらくすると「この人たちとは違う」と思う瞬間が訪れる。

この「同じ→違う」のループは、多くの人が無意識に繰り返すパターンで、自己理解やアイデンティティ形成において、よくある葛藤だ。

一見似たような悩みを持つ人たちと一緒にいると一体感が得られ「やっと自分の居場所が見つかった」と(錯覚し)安心する。しかし、時間が経つにつれて個々の違いや価値観の相違が目に付きはじめ、再び孤独や疎外感が戻ってくる

このループが繰り返されるのは、「ラベル」や「共通項」に基づく一時的なつながりを「本質的な自己の受容」と誤解してしまうからだ。


子どもの頃は、他者を偏見やステレオタイプで見たり、また自分が「ラベル化」されることに無自覚であることが多いため、「見る営み」—つまり、純粋に相手や世界を観察し、理解するプロセスが自然な形で行われやすかった。しかし、大人になると社会が求める役割や他者からの視線にさらされ、「差別」「見世物化」によって自分の姿が「見えなくなる」感覚が強まる(「見られることから疎外される」=「見て貰えない」)。

このような状況において、自己を表現するために何かしらの「目印」が必要となり、「名前のある痛み」を使うことが一つの手段として浮かび上がる。特に現代社会では、特定のラベルに基づいて支援やサービスが提供されるケースが多く、ラベルを持つことが支援を得るための条件になることが多い。たとえば、「不登校」や「発達障害」、「HSP」といった分かりやすいラベルを持つと、特定の支援やリソースにアクセスできる場合があり、それが自己ラベリングを促進する要因になっている。

あるいは「エニグム」(énigme)と名づけた。
何かが言葉に命を与え、その代償として言葉の中で死ぬ。私たちはその「何か」に、生きたままのかたちでは決して触れることができない。それは消え失せることによって、はじめて「何かがあった」ことを事後的に回想させる「痕跡」だからだ。
おそらくそれこそが言葉の、あるいは「物語」の本来の機能なのだ。言葉は(通俗的に理解されているように)「そこになかったもの」を実定的に名指すことでそこに現出させる魔法ではない。そうではなくて、「それは消え去った」ということによって、「そこになかった」何かを欠性的に指示する魔法なのだ。
フェルマンによれば、「思い出すことのできない記憶」、一度も話し手によって「現前として」生きられたことのない経験、すなわち「トラウマ」は、言語化されることによって「死ぬ」。しかし、そのような死を通じて獲得された「証言」を集団的に語り継ぐことで、言葉に命を与えて息絶えた「トラウマ」について語り続けることは可能なのである。
「トラウマ/エニグム」は明るみのうちには「現象しない」。それは明るみから何かが「退去し」、姿を消したことについて証言するだけである。だから「トラウマ/エニグム」は「厳密な意味では一度も経験されたことのない経験」、「一度として現在であったことのない過去」、「場所であり非場所であるような主体性」、「いかなる起源よりもさらに太古的な過去」といった逆説的な表現によってしか語られないのである。

この「見て貰えない」という状況の中には『差別(カテゴリー×ステレオタイプ)ゆえに「見て貰えない」場合』と、『見世物化(金儲けのための粉飾決算)ゆえに「見て貰えない」場合』が存在する。

  • 差別(カテゴリー×ステレオタイプ)ゆえに「見て貰えない」場合
     差別は、特定の属性やカテゴリーに基づいて、人が一面的に判断され、他者から「見られない」状況を生み出す。人はカテゴリーや偏見で括られることで、その人自身の経験や痛み、背景が見えなくなり、固定化されたラベルだけで捉えられてしまう。ここでの痛みは「名前のない痛み」として、周囲に伝わらないまま蓄積される。自分が自分であることが認められないこの状況は、セルフスティグマを生み、自己を否定する思考に繋がる。

  • 見世物化(金儲けのための粉飾決算)ゆえに「見て貰えない」場合
     見世物化は人やその痛みを「他人に見せるための道具」に変えてしまう現象。例えば、特定の属性や痛みが、感動を引き出すための「素材」として取り上げられ、商品化されることで、その痛みの真実や複雑さが失われる。こうした場合、社会はその人を「見る」ことなく、表面的な物語や感情で消費し、当事者の個別の経験が「見られない」まま、また別の形での「名前のない痛み」を生む。

外部への啓発活動では、他者への偏見や差別をなくそうという方向に力が注がれることが多い。だが一方で、セルフスティグマ—つまり、自分自身に対する偏見や否定的な思い込み(≒アンコンシャスバイアス)の克服は、「自分が自分をどう見るか」という内面化のプロセスにあるため、かなり根深い問題である。

セルフスティグマの危険性があまり叫ばれないのは、外的な差別と比べて、内面的で個別の現象に見えるからかもしれない。だが、セルフスティグマがもたらす影響は非常に大きく、精神的な健康や社会的な行動にも深く関わっている。自己に対する否定的なラベルは、自分の可能性や自尊心を制限し、他者とのつながりさえも避けてしまう原因にもなる。実際、セルフスティグマを抱えている人は他者からの支援も受けにくくなりがちで、「助けてほしい」と言うことさえ難しい傾向にある。

《続く》そのうち更新します