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自分史エッセイ「いのちをいただく」

気がつけばすでに9月が終わろうとしていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
このnoteでこれまで6回にわたり、自分史の定義や書き方のテクニックや基礎知識についてお伝えしてきましたが、テクニックや知識だけでは「自分史という視点」を、今ひとつイメージしずらい方もいるのではないかとか、頭ではなんとなく理解はしたものの、その視点を忘れがちになってしまうという方も多いのではないかという懸念もあります。

そこで前回もお伝えしたとおり「自分史という視点」をもとに、私ヤナギサワが、自分史エッセイを書いてみることにしました。
それを見ていただき「あーこれで自分史と言っていいんだ」とか「これも自分史なんだな」と感じていただけたら嬉しいです。

そこで一作目にお送りしたいのは「いのちをいただく」
新潟の佐渡ヶ島に住む米農家の義両親について書いてみました。
今回このエッセイについては無料で公開したいと思いますので、よかったらお読みになってください。

「小学校の夏休み」はいつしか「家業手伝いの帰省」に

知り合ってから13年が経つ私と妻は、もうかれこれ10年近く、新潟の佐渡ヶ島で米農家を営む彼女の両親のところへ毎年帰省している。
とはいえ厳密にいえば、妻の実母が佐渡の米農家の方と再婚したので、私にとってはほとんど無縁の場所といっていい。

しかし私は、最初に訪れたときからその美しい自然と、両親のつくる米や野菜、新鮮な魚の旨さに完全に魅了され、初めて訪れてから何年ものあいだ釣り三昧の毎日。まさに「小学生の夏休み」を満喫していた。

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その傍ら、義両親は米作りをしながら「手伝え」などとは一言も言わず、私と妻の夏休みに最高の食事と寝る場所を用意してくれた。
妻にとってみれば実母に会う貴重な機会だからまだ分かるにしても、来て食べるだけ食べて釣りばかり行ってる婿の私に、よく二人とも親切に接してくれたと思う。

しかし5年ほど前から私と妻は「あんなに働いているのに遊んでだけいるのは申し訳ないんじゃないか」とどちらからともなく感じ始めた。

今から思えば遅すぎる気づきだが、なにもせず3食出されるごはんを食べ、好きなことだけをやり、母娘の買い物に付き合うくらいで、甘えることも親孝行だと勝手な解釈をしていただけだったのだ。
ともあれ、その夏から佐渡ヶ島は「小学生の夏休み」ではなく「家業を手伝う帰省」になった。

田んぼは甲子園球場と同じ大きさ

田んぼは3町歩。甲子園球場とほぼ同じ大きさである。
手伝いはじめてすぐに「これ、毎年二人でやってきたのかよ…」と驚くほどの重労働だと気づいた。

田植えまでに稲を発芽させる育苗から、田植え前に田んぼに水を入れて柔らかくする代掻き、膨大な苗の田植えから日々の水の管理。
刈り取り後には脱穀した稲を乾燥、選別して30キロの米袋に入れて出荷しなくてはならないし、脱穀して出た籾殻を90リットルのビニール袋300袋に詰め替えたりもしなくてはならない。
その他にも私がまだ知らない仕事が山ほどあり、本当に24時間365日休むことができない仕事なのである。

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そんな重労働なのに、自然が相手だから、台風や長雨で不作のときもある。
また穫れすぎたら穫れすぎたで、買取価格が変動するし、そのうえ米の等級によっても価格が厳しく定められている。
日本の食は、こうした不安定な自然環境のなか、多くの農家さんたちのたゆまぬ努力によって支えられているのだ。
 
義父の家はコンバインや乾燥機などの設備をすべて整えているが、その支払いを米の売価で支払っていくだけでも何年計画なのか想像もつかない。
この家業手伝いをやることになってから、日本の農業がこのように高齢化した多くの農家によって支えられていること、その問題点を痛感するようになった。

いのちをいただくこと

ともあれ、こうして今年も私と妻は田んぼに立った。
甲子園球場と同じという広大な大きさの田んぼは、ほぼ機械に頼っての作業とはいえ、コンバインが入る田んぼの四隅は手で刈り取るしかない。
また縁には機械が刈り取りきれずに残る稲があり、それを歩き回りながら刈り取り、取り残しを拾うのが私と妻の主な作業である。

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この数年、稲刈りに至るまでの苦労が少しだけ分かるようになっただけに、それこそ1本の稲をも無駄にしたくないと、目を皿のようにして刈り残しや拾い残しを「この一粒一粒がお金なんだから」と思いながら探す。
しかしその思いになんだか違和感を感じた次の瞬間「いや、これはお金なんかじゃ買えない。稲はもちろん、両親の『いのち』そのものなんだ」とハッとした。
この米は、両親がその人生のほとんどを捧げた「いのちの結晶」なんだと。

こんなシンプルかつ大事なことに気づくまで、これまた何年もかかってしまうなんて、返す返すも私は理解力と感受性に乏しいと凹んだ。
しかし、もう後何年も続けることは困難であるに違いない、二人の米づくりへの思いを心から実感した、私の自分史にとって大きな気づきの秋だった。
こうして無事今年も新米が収穫できた。
いのちをいただくことの感謝を胸に、炊きたてを頬張るのが楽しみでならない。

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いかがでしたでしょうか。「え、これが自分史なの?」と思った方もいらっしゃるかと思います。
しかし自分史というのは、本来その自由度の高さが魅力。
みなさんの目の前にいま起きていること、またそれについて感じることすべてがみなさんそれぞれの自分史の1シーンなのです。

このような視点をもって、日々何気なく過ごしていることすべてが自分史なのだと感じることができるようになると、日々の彩りがより鮮やかになり、生きていることの素晴らしさにより感謝できるようになると思っています。
ぜひみなさんも、その視点をもって今日から過ごしてみてください。

実にたくさんの出来事がみなさんの自分史を形成していることを感じながら、ワクワクした生き方をしてもらえたら、私にとってこんなに嬉しいことはありません。
そしていつか、そんなふうにして書かれたみなさんの自分史エッセイを読ませていただくことを、心から楽しみにしています。

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