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【小説】迷い猫 1

【あらすじ】

 大学生の山本やまもと茉莉まりは、ある日、大通り沿いの側溝で衰弱する猫を見つける。通りかかったゼミの同期である小田友梨佳おだゆりかとともにその猫を助けた茉莉は、猫を保護し元の飼い主を探し始める。
 難航するかに見えた飼い主探しはすぐに解決したが、飼い主として現れた人物から醸し出される不気味な雰囲気に戦慄した茉莉は一時的に猫を自宅へ匿うこととする。
 猫を匿ったことにより茉莉と友梨佳は脅迫めいたメッセージを受けるようになる。次第に明らかになっていく、猫にまつわる様々な違和感の正体とその背後に存在する〝悪意〟とは……。


【本編】

 東京都八王子市✕✕三丁目の民家で、5月10日夜、住人の遠藤いとさん(82)が血を流して倒れているのを甥(53)が発見し119番通報した。駆けつけた警察と救急隊員がその場で死亡を確認した。遠藤さんの頭部には何らかの鈍器で殴られたとみられる多数の傷があり、室内を荒らされた形跡もあったことから、警察は強盗殺人事件とみて捜査している。
 発表によると遠藤さんは3年前に夫と死別し一人暮らし。電話が繋がらないことを不審に思った妹から連絡を受けた甥が、10日午後6時頃に訪れ居間で倒れているのを発見した。

(1)

 新宿駅から1時間圏内。都心からのアクセスが良くスーパーや病院、子育て施設などの生活環境が整っていて、それでいて自然も身近に親しめるここ八王子市は、大学のキャンパスが多いことでも知られる街である。五つの学部からなる東京清英大学もそのひとつだ。
 少子高齢化で学生確保に苦慮する大学が多い中、他大学から著名な教授を招き入れ、キャンパスの外観、内装デザイン、研究設備に多額の投資を行うなどして、常に大学ランキング上位に名を連ねている。最寄駅に隣接するショッピングモールからのペデストリアンデッキを渡るとものの5分でキャンパスに着くことも魅力のひとつだ。

 その東京清英大学文学部に通う山本やまもと茉莉まりは、学内へ向かってくる学生の波を避け、駅のほうへまさに逆走している。その表情は焦りと羞恥心が綯い交ぜになった何とも言えぬ顔だ。

——なんであそこに小田おださんが!

 茉莉は心の中で叫んだ。最悪だ。その場に蹲って頭を抱えたい衝動に駆られるのをなんとか抑えて、茉莉はショッピングモールの中に入った。

 10分ほど前、茉莉は昼食をとっていた。おにぎり2個とお茶。コンビニのから揚げ。それらを〝あるブース内〟で無表情で口に入れていた。食事は終盤にかかり、茉莉はお茶を口に含んだ。5月に入り、少々汗ばむ季節となってきたため喉が渇いていた。ゴクッゴクッ。

 次の瞬間、出てしまった嚥下音に、茉莉は慌てて周囲を窺った。茉莉の周囲は、ほどよい照明に照らし出された天井と白い床、そして四方を木目調のシートが施されたパネルに囲まれている。

 ここは一般的には用を足す場所……つまりトイレである。ただトイレといっても昔のような3Kのイメージはなく、清潔感がありかつ無臭に近い非常に居心地のよい空間である。それもそのはず、このトイレは数年前に大学が多額の寄付金を募り行ったキャンパス改修工事で、学内アンケートの結果『リニューアル希望1位』にランクインし、学生の意見を大々的に取り入れられた最新かつスタイリッシュなトイレだからである。

 茉莉は入学当初から昼食は決まってこのトイレのブースでとっている。理由は単純だ。ランチをする友人がいない。あえて作ろうとも思わない。そうは言ってもランチを共にする友人が居ないとも思われたくない。だが、腹は減る。腹が減っては学業に身が入らない。
 背に腹は変えられないとばかりに一度トイレのブース内に食事を持ち込んでみたらことのほか快適だった。それ以来、食事はトイレでとることにした。

 もちろんいくら綺麗で無臭に近くて居心地がいい空間といってもトイレはトイレである。茉莉とて自らの行動が〝普通ではない〟ことくらいは自覚している。そのため、トイレの混み合うランチ時を避けることとし、周囲のブースに人が居ないことを確認してから〝入室〟する。その後は咀嚼音が極力出づらい食事——主におにぎりなどを、手早く食べることを心がけた。

 いや、心がけていたはずなのだが……。今日はおにぎりのフィルムを剥がすペリッという音もいつもより激しく鳴らしてしまったし、極めつけは最後のお茶を飲む嚥下音である。喉が渇いていたといえあまりにも迂闊な飲み方をしてしまった。

 茉莉は慎重に周囲の様子を窺った。両隣のブースに耳を澄ませてみたが、人の気配は感じられない。セーフかな? 茉莉は数秒間様子を確認していたが、次第に誰にも聞かれなかっただろうと結論づけた。
 リュックのなかにペットボトルのお茶をしまうと、スライド錠をあけて外へ出た。食事のあとと考えるとおかしな話だが、いつもトイレの後そうするように洗面で手を洗うと、ふと隣のパウダールームに目をやった。

 そこには人影があった。

 相手は茉莉をじっと見ている。茉莉の見込みは甘かったのだ。相手は茉莉のよく知る人物で、高校からの同級生小田友梨佳おだゆりかだった。茉莉は文字通り固まった。数秒フリーズして友梨佳を見つめた。一方の友梨佳も少々困惑したような表情で茉莉を見ている。

 次の瞬間、茉莉は一言も挨拶をせずトイレを後にした。その動きは歩きから次第に小走りに変わっていった。予想外の場所で最も見られたくない姿を、よりによって顔見知りに見られてしまった。茉莉はこめかみに汗が浮いてくるのを感じた。

 どうしようどうしよう。

 ドンッ。学生と思われる男性にぶつかる。茉莉は小さく謝ったが、相手は怪訝な顔で舌打ちしてこちらを見た。それにも構わず茉莉はその場を走り去った。次のコマは所属しているゼミだったが、茉莉はとても行けないと考えた。ゼミには、あの小田友梨佳もいる。友梨佳はひょっとしたら今頃友人たちに先ほどのことを話しているかもしれない。

——ちょっと聞いて。さっき山本さんに会ったけど、あの子トイレでご飯食べてるっぽい。
——え、マジ。やばい。
——やばいよね。都市伝説かと思ったけどホントにいるんだ……

 脳内には次々と友梨佳たちの会話が浮かび上がってきて茉莉を苦しめた。茉莉は幼い頃から人より感受性が豊かで、人の表情やしぐさから相手の感情を受け取り易い性質タチがあった。
 長年この性質とつきあってきた茉莉は、次第に感じ取ったものから想像が膨らみ悪いほうへ考えがシフトしてしまうようになっていた。

 茉莉はこれまでゼミを無欠席で通してきた。単純に大学を卒業するために出席が必要というのもあったが、ゼミで扱っている研究テーマを茉莉は気に入っており、自分の知的好奇心を満たす意味でも休みたくなかったのだが、今日はこの状況を耐えられそうになかった。

 自動ドアを通り抜け、ショッピングモールの中へ入る。誰にも目撃されたくない、その心理は茉莉を先へ先へと走らせた。ショッピングモール内のベンチに腰を掛けた茉莉は、スマートフォンを取り出した。

 茉莉の良くない妄想は次第に進化し、友梨佳が先ほどのことをSNSにあげていたらどうしよう……というものに変化した。いくつかある友梨佳のSNSアカウントを高校時代に聞いたような気がしたがフォローはしていない。アプリを開いて検索してみると、アイコンとユーザーネームでそれらしきものを発見したが、鍵アカになっていて開くことができない。茉莉はますます不安に駆られた。

 友梨佳はいつも同級生たちの輪の中にいるようなクラスメイトだった。友人も多く、明るく話題が豊富なので皆から好かれる。
 あるきっかけでクラスに溶け込めなくなった茉莉にとっては殿上人のような人だ。

——トイレで知り合いが食事してたw
——まさかって耳を疑ったけど、出てきたのが知り合いで二度びっくりw

 脳内では次々と自分を嗤うポストが浮かび上がってきて、まるで現実のもののように思えてくる。

 茉莉はぶんぶんと首を振った。SNSを閉じるとメッセージアプリを開いた。もうこの耐え難い状況は、他の何かで満たさなければやり過ごすことさえ困難だった。

〔リリコさん。ゼミさぼっちゃいました〕

 茉莉はリリコという友人にメッセージを送った。リリコは茉莉の推し活友達である。

 茉莉は俳優の藤代ふじしろたくみにハマって以来、ずっと彼の活動を追っかけている。藤代は新進気鋭の若手俳優で、17歳のときにオーディションで勝ち抜いた役で初舞台を踏んで以来、舞台を中心に活躍している。
 茉莉とって藤代は、生きづらい世の中に灯されたあかりのようなもので、リリコはその灯りを共有する友だった。

〔どうしたの? 真面目なまりちゃんらしくないね。なんかあった?〕

 リリコからはすぐにレスポンスがあった。

 リリコは茉莉の五歳年上で、普段は介護の仕事に従事している。シフトなので推し活の調整が比較的つきやすいらしい。本業とは別に副業としてバイトもしている。

 茉莉とリリコはそのバイトで知り合った。茉莉は定期的な固定のバイトをしていない。時々、藤代の推し活に必要となる資金を稼ぐためいわゆるスキマバイトのアプリで仕事を見つけては小金を稼いでいた。
 数あるバイトの中でも黙々と単純作業を行う倉庫内作業が特に茉莉の性格に向いていて、これまで倉庫の社員から顔を覚えられるほど数をこなしていた。たまたまあるラインに入った時、茉莉の身に着けていた藤代のグッズである缶バッチを見て声をかけて来てくれたのがリリコだった。

 茉莉はリリコに、あたり障りない範囲……つまりはトイレで食事をとっている事実は曖昧にぼやかして……、自分がミスをして恥ずかしさのあまり逃げ出してきたことをリリコに伝えた。

〔そっか~。まぁそういうことあるよね。また相手の感情が〝入って〟きちゃった?〕

 茉莉が具体的な内容に触れないのにも拘らず、リリコからは優しいメッセージがくる。リリコの優しさを期待して乗っかったような気まずさを覚えて、茉莉は話題を藤代が出演するドラマに変えた。舞台を中心に活躍している藤代だが、最近は少しずつテレビドラマでの露出も増えてきていた。

 一通り、リリコと藤代の話題でやりとりを終えると、時刻はゼミで出席扱いとされる時刻を過ぎていた。無断欠席が確定した茉莉は重い腰を上げるとキャンパスへ戻ることにした。
 大学のある駅から一駅のところに実家がある茉莉は自転車で通学している。そのため、一度キャンパスに戻らないと自転車を回収できない。

 遠回りとなるが、あえてペデストリアンデッキを渡らず大通り沿いに歩き人目につかないルートでキャンパスへ戻ろうと考えた茉莉は、ショッピングモールの1階から屋外へ出た。かなりの交通量があるため砂なのか排気ガスなのか分からないもわっとしたものが茉莉の周りを漂う。少しだけ気分が悪くなり茉莉はふと歩道の側溝に目をやった。

「……みゃあ」

 行き交う自動車の音に紛れ弱々しい鳴き声とともに生き物がもぞもぞうごめいているのが見えた。側溝の泥にまみれしっとりと黒ずんでいたが、所々白っぽい毛並みが見える。丸い瞳と三角形の耳ですぐにその生き物が何か分かった。猫のようだ。

 茉莉が思わず近づいたら、猫はびくりと身体を震わせた。猫はそのままじっと茉莉を見据え、一方の茉莉も歩みを止めたまま猫から目が離せず見つめ合ったような状態のまま数秒が過ぎた。通常のノラ猫ならこちらの様子を見てパっと逃げていってしまいそうなシチュエーションだが、茉莉の眼前の猫は少々衰弱しているようで、それ以上動こうともしない。

 茉莉の意識が猫から周囲の騒々しい大通りへと移った。排気ガスと轟音、それに加え側溝を進めば命さえ危ぶまれ、危機的状況であることだけは瞬時に分かった。

——助けたほうがいいよね。

 そう思った茉莉だが、具体的にどうすればいいのか分からない。抱き上げようとしても怖がって逃げるだろう。
 仮に抱き上げたところでどうする? このまま道に戻せば、また再び同じ状況に陥るだろう。

 猫は再び弱々しく鳴いた。引きつけられるように茉莉はその場に立ち尽くした。

(つづく)

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