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【小説】迷い猫 8

7話 / マガジン / 9話

(8)

 ビルの裏手には事前の確認通りにロッカーがあった。薄暗くあまり人目につかない。犯罪者が好みそうな場所だと茉莉は感じた。
 茉莉と友梨佳は周囲を何度も振り返りながら、その一つのロッカーにキャリーをしまう。

 実際にはキャリーの中に猫はいないのだが、このような薄暗い中に生き物を入れろと指定してくる相手に自ずと嫌悪感が湧き起こる。
 茉莉は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと施錠をして、その鍵を持参した封筒に入れた。
 二人はそのまま多摩モノレールの駅へ駆け足で戻る。

 人気ひとけの多い改札まで入ると、指定の番号にSMSを入れた。

「連絡、すぐくるよね?」
「うん、多分」

 そこからの時間の進みは、茉莉の中でこれまで感じたことがないほどの鈍さだった。スマートフォンを見ては、まだ数秒しか過ぎていない、再びスマートフォンを見ては、ということを何度も繰り返した。

 電波の状態は良好で、連絡が入らない理由が無かった。
 友梨佳も同じことを考えているようで、腕時計を幾度となく確認した。

 焦燥感に駆られ、茉莉は翔太に連絡をする。

〔とろろ、大丈夫?〕

 翔太からはレスポンスがなく、既読すらつかない。

 どうして……?
 今日は、今日に限っては、スマホを小まめに見るように頼んでおいたのに。

 茉莉の背中に氷のごとき冷たいものが流れる気がした。

 茉莉は翔太に電話をかけた。が、コール音ばかりが鳴り響き、一向に翔太は出ない。

 隣で様子を見ていた友梨佳が、痺れを切らしてこう言った。

「おかしい。一度、茉莉の家に戻ろう」

 すぐに二人は次の電車に飛び乗った。そこからの30分弱、お互いに何も話すことなく無言のまま過ごした。

 犯人は、やはり家の場所を知っていたのか?
 茉莉が空のキャリーを持ち出すことを見越して、その間に家までとろろを奪いに来たのだろうか。
 立川駅に誘き出されたのは私たちのほうだったのだろうか?
 だとしたら、翔太は?
 母は?
 とろろは……?

——だって、それしか考えられないよね。茉莉のことを知ってて、猫を保護していることも知ってる人なんて

 〝顔見知りの誰か〟についてコーヒーショップではお互いにそれ以上掘り下げることなく終わった。それはイコール二人にとって身近な人物を疑うことに繋がるからだ。

 茉莉はそのことが自分たちの甘さだったのでは、と感じ始めていた。間違いなく茉莉が大学に着いた途端にメールを送るなどという芸当が出来た相手が存在している。

 その事実を認識していたなら、もう少し慎重に行動すればよかったのだ。自分の近くに入り込んでいる何者かが、このチャンスを狙っていたのだ。

 なんで昨夜のうちに110番通報しなかったのだろう。
 後悔で押し潰されかける茉莉の背中を友梨佳がそっと手を置く。

 最寄り駅についた茉莉と友梨佳はほぼ全速力に近い走りで自宅へ向かった。

 玄関の扉をバンと開け、中に入る。
 リビングには母がいた。

「あら、茉莉。もう帰ってきたの?」
「お母さん……無事?」
「無事ってなによ。変なこという子ね」
「……翔太は?」
「翔太? ああ、そういえば、1時間前くらいかしら。急に出かけて行ったわよ」
「え?」
「それが、どうかしたの?」

 母の問いに答えず、茉莉は二階へ駆け上がる。その後ろから「お邪魔します」といって友梨佳が続く。

 茉莉の部屋を開けると、カーテンがふわりと揺れるのがまず目に入った。
 とろろが来てからはずっと締め切っていた引き違い窓が20センチほど開いている。

 とろろの姿はそこになかった。

 続いて、翔太の部屋をゆっくりと開ける。当然のことながら、そこに翔太は居ない。

 なんで……?
 状況への理解が追いつかず、呆然とする茉莉に友梨佳が声をかけた。

「茉莉の部屋の窓、開いてたから、逃がしちゃって探しに行ったとかかも。
 とりあえず、ちょっと近所探してみよう」

 茉莉は無言のまま頷いた。

「私、こっちの道路沿いを見てみる」

 外に出て、二人は周辺を探し始めた。何分前までとろろが部屋にいたのか分からないが、ただ逃げただけならそこまで遠くへ行っていないはずだ。

「とろろーー」

 空地の雑草の中に声をかけてみるが、虚しい自らの声だけが響く。

 キャリ―ケースを入れたロッカーの鍵は今も茉莉のリュックの中にある。
 茉莉は徐々にではあるが、現実を受け止め始めていた。鍵の受け渡しについて連絡が来ないことを考えれば答えは一つだ。

 茉莉たちは騙されて、とろろはすでに犯人たちの手中にあるのだ。

 逆回りで家の周りを探してくれていた友梨佳が戻る。友梨佳も茉莉と同じことを考えていることが分かった。

「弟くん、連絡とれた?」

 友梨佳が口にしたのは単なる確認ではない。茉莉も同じことを考えていた。

「茉莉のお母さんがいうには、自分で出ていったんでしょ?」

 その先のことは口にされなくても茉莉だって分かる。
 こちらに何の連絡もせず、とろろを連れて出て行ったとあれば、それはもう十分に疑われる対象だ。

「友梨佳、ごめん、私もう一度家に帰ってみる。なんか分かったら連絡する」

 それだけ言い残すと茉莉は走った。
 友梨佳は茉莉の言葉に返事もせず、その場で立ち尽くしている。何かを考えこんでいるように見えるが、茉莉は友梨佳の顔を直視出来なかった。


 再び自宅へ着いた茉莉は二階へ駆け上がった。

 翔太の部屋を開ける。弟の部屋を勝手に捜索するのは気が引けたが、もはやそんなことも言ってられなかった。

 久しぶりに入った弟の部屋は、デスクにモニターがあり、以前は無かったはずのゲーミングチェアが置かれていた。
 「オンラインゲームを長時間するときにいいんだ」とかなんとか言っていたような気がする。ゲームに興味のない茉莉はその話を軽く聞き流していたので今の今まで忘れていた。
 翔太は部活動にも所属していないので、その他は特段これといって目につくものもなかった。ウォールフックに高校の制服が引っかけてあり、ベッドには無造作に私服が置かれている。

 藤代巧のアクリルスタンドがベッドサイドに置かれていた。とろろが遊ぶから一時的に動かしてもらったものだ。そういえばお礼を言うのも忘れていた。

 何か手掛かりがないかと全体を見回してみたが、あまりに部屋が小ざっぱりしすぎているため、棚に整列した本や教科書すら使用感がなく思えた。
 その中で一冊だけ教科書が無造作に棚に対して水平に置かれていた。整列した中でそれだけが妙に目立ち、思わず茉莉は手に取った。

 すると、はらり……と栞のように挟んでいたものが床に落ちた。
 慌てて拾い上げると、それは名刺サイズの紙だった。

 #未経験OK #高収入 #即日 #日払い
 ニュースでよく見たような単語が並ぶ横に、二次元コードが印刷されている。

「そんな……。まさか」

 無人の部屋で茉莉は思わず呟いた。声に出して否定しなければ、事実になる気がして怖い。

 それでもどうにか茉莉は左手に持った教科書を元の位置に戻すと、二次元コードが印刷された紙だけを持って自分の部屋に戻ってきた。

 とろろが居なくなったダンボールの横に座り込むと、再びその紙を眺める。
 脳内は答えを導きだそうとしているのに、必死で何かが食い止めているようなそんなざわざわとした感情の揺れ。

 震える手で自分のスマートフォンを取り出すと、その二次元コードを拾ってみた。
 コードから拾ったURLをタップすると〝高額アルイバイト〟と記載されたサイトが表示された。



 何分経過しただろう。

 明らかに闇バイトを指し示すようなサイトの画面を開いたまま、茉莉はずっと天井を眺め座り込んでいた。

 姉弟とはいえ、常日頃会話するわけでもないし、分かっていないことも多々あるとは思うが、少なくともこんなことに誘惑されるほどバカじゃないと思っていた。

——俺、金欠だから、そんな金ないよ

 確かにお金がない、とは言っていた。でもバイトもしていたはずで、借金を抱えているような様子もなかった。

 そんなはずはない、翔太が、闇バイトなんてするはずが……。

 頭を抱え、目を瞑る。
 信じない、見ない、こんなものは。

 コンコン。部屋をノックする音が茫然自失としていた茉莉の意識を現実へ戻した。ドアを開けると母だった。

「茉莉、猫ちゃんってもう飼い主さんに返したの?」

 何故、突然そのようなことを聞いてくるのだろう。茉莉が答えないでいると、続けて母はこういった。

「エサとかいるなら買い物のときに買ってくるつもりだったのよ。昨日、翔太に聞いたら、貴女に聞かないと分からないとか言われたから」

 茉莉は眉を寄せた。そんな具体的な話を母と翔太がしている様子は茉莉の知る限りではなかった。

何時いつ、そんな話したの?」
何時いつって。貴女の携帯にかけたら、翔太が出た時よ」

 茉莉はその言葉を反芻した。

 私の携帯に母が電話をかけてきた時?
 昨日、私の携帯に母から着信があったのは、あの資産家宅の付近まで行って、友梨佳に脅迫の電話が入った直後しか無かったのではないか。

「ごめん、ちょっと良く分からないんだけど、お母さんその時に初めてこの家に猫がいることを知ったんじゃないの?」
「ううん、知ったのはお昼くらいよ」
「え?」
「貴女が大学に行ってる間。なんか翔太の様子がおかしいから二階に上がったら、貴女の部屋で猫と遊んでるから、お母さんびっくりしちゃって。
 で、聞いたら『姉が友達に頼まれて一時的に預かってるだけだから、許してあげて』っていうから。お母さん『面倒みるのは無理よ』って言ったら『わかってるわかってる』って」

 茉莉の中で何かの音がした。不快なその音は、相手への不信感という名前だ。

 動悸と吐き気をなんとか堪えながら「エサは大丈夫だよ」と話し、母が一階へ降りていくのを見届けた後、茉莉は友梨佳に電話をした。

「茉莉、どうだった? とろろ、見つかった?」
「……みつからない」
「そっか。弟くんは……?」
「……」
「茉莉……泣いてるの?」
「翔太が……、怪しいかもしれない」
「え? なんで?」

 何と説明すればいいのか……。
 けれども、友梨佳には説明するべきだった。

 茉莉は途切れ途切れの声で、なんとか伝えた。

 翔太の部屋から、闇バイト募集のサイトに繋がる二次元コードの紙を見つけたこと。
 理由が分からないが、母との電話に関して、翔太の説明には嘘が交じっていると思われること。

 電話の向こうから、友梨佳の慌てる様子が伝わってくる。

「待って、待って。茉莉、落ち着いて。
 ……まだそれだけじゃ、弟くんが怪しいとは限らないよ。とりあえず連絡し続けてみようよ? 私もかけるから」

 友梨佳の優しい言葉が、今の茉莉には残酷に響いた。

(つづく)

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