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【小説】迷い猫 10〔最終話〕

9話 / マガジン

(10)

 友梨佳から聞いた住所は大学のキャンパスから目と鼻の先だった。一分さえも惜しかった茉莉は自転車で向かい、数分でその建物に辿り着いた。

 淡い色合いの外観をしたアパートだった。部屋番号までもちろん聞いていたが、建物の前で茉莉は躊躇した。堂々とインターフォンを押したところで、門前払いにされる気がした。
 友梨佳が来るまで待つ方がいい。そう思った茉莉は建物の前で待つことにした。

 五分ほど経過しただろうか。
 しばらくして視界に人影が入り、友梨佳だと思った茉莉は顔を上げて息を呑んだ。

「ヤマリじゃん。どうしたのー?」

 翔太と共に写っていた、まさにその人。
 彩愛が、目の前に立っていた。


「……聞きたい、ことがあって」
「なあに? 聞きたいことって」

 彩愛はあっさりと茉莉を自らの部屋に招き入れた。1Kのこじんまりした部屋の中は彩愛と同じく甘い香りがした。淡い色合いのソファに差し色のように臙脂色のクッションが置かれている。

 茉莉はかろうじて言葉を絞り出した。

「大学であのメッセージを送ってきたのは彩愛?」

 一方の彩愛はいつもと変わらない調子で間延びした話し方をする。

「メッセージってなぁに?」

 首をかしげる仕草もいつもと変わらない。そうだ、彼女は最初からこうだった。どこか言葉が嘘っぽくて感情は全く別のところにあるような……。

 茉莉が言葉を失っているとドアをノックする音が聞こえる。

「えー誰だろぉ」

 玄関まで行った彩愛は続いて「なんだ、友梨佳までー」と笑う。
 その笑いを遮るように、友梨佳の明瞭で通る声が届いた。

「彩愛、とろろと翔太はどこ?」

 その瞬間、時が止まったような間があった。
 その後、「ふー……」と深いそれでいて底から響くようなため息をひとつ、彩愛は吐いた。

「翔太くんは、そこに寝てるよ」

 指さされた先はクローゼットだった。
 茉莉は彩愛を見る。開ければ? と言わんばかりの仕草を彩愛はする。茉莉は恐る恐る扉に手を掛けた。

「翔太!!」

 思わず茉莉が駆け寄る。狭いクローゼットの中で翔太は身を小さくさせられ横たわっていた。
 息はあり気を失っているだけに見えるが、状況が状況だけに茉莉は動揺し声を上げる。

「翔太! 翔太!」
「ウケる。ヤマリって弟くん大好きなんだね。
 ねぇねぇ、いつうちとの関係に気づいたの? 昨日まで全然、知らなかったでしょ?」

 面白そうに言う彩愛に茉莉は掠れ掠れの声を出した。

「さっき、翔太の部屋で二人で写ってるのを見つけて……」
「ああ、サッカー観戦帰りのアレかぁ。うちら同じクラブチームが好きで知り合ったの。翔太くん、それ大事にしまってたんだね。カワイイ」
「どうして、翔太にこんなことするの?」
「えー。翔太くんが勝手にうちに来たんだよ? 別に眠くて寝てるだけじゃん?」
「猫は? とろろはどうしたの?」
「猫? あの猫ちゃん? そっちこそどうしたの? まさか逃がしたの?」

 おかしそうに彩愛が笑う。あまりにも彩愛がいつもの調子と変わらないので、茉莉と友梨佳は喉元を掴まれたように言葉を続けることが出来ない。

「じゃあさ、どうしてさ、うちのとこにいると思ったのか教えてよ」

 雑談を続けるようなテンションで彩愛はソファに足を組んで座わり、手を茉莉に向けた。
 茉莉は立ったまま彩愛を見据えるとひとつ息を吐いた。落ち着かなければ、と心に念じる。

「メッセージ内容が……。昨日あのSMSの内容を見て、送り主はソーシロたちとは関係ない人だと思った。猫を返せと書いていないから私を知る身近な人から来たのかなと思って……。
 そのあと、キーホルダーの苗字のことを問われた時、突然過ぎて少し違和感があったのが残ってて」
「違和感! すごい! 違和感だけで怪しいと」

 彩愛が大袈裟におうむ返しする。その様子を見て友梨佳が続けた。

「彩愛、私も違和感はあったよ。
 一昨日、最初に茉莉がテラスにとろろを連れてきた時、『次、休んだら単位を落とす、やばい』って先週大騒ぎしてたのに、健吾さんと残ろうとしたでしょ?
 あの時、ちょっとヘンだなって思った。
 あと、昨日、茉莉が大学に着いた瞬間を知ることが出来たのは、彩愛しかいない。私も久美も健吾さんも講義を受けてた」
「ふーん、それだけ? なんかよく分かんないけど、変な因縁つけるには根拠薄くない?」

 彩愛が拗ねたように口を尖らせた。根拠も何も今そこに翔太が拘束されてることが何よりも証拠じゃないか。そう思うが茉莉は反論の言葉がまとまらない。
 友梨佳が低い声のまま続ける。

「彩愛。SMSの番号。それでもう、彩愛だって分かってるんだよ。
 さっきここに来る前、茉莉に大学に着いた時に届いたSMSの番号を教えてもらった。彩愛の番号だった。
 彩愛、誰かに言われてこんなことしてるの?
 自分の電話番号で脅迫するなんて、そんなのすぐにバレるって分かるでしょ?」

 あまり伝播してこなかった友梨佳の悲痛な想いが茉莉に伝わり、茉莉自身も苦しくなる。
 友梨佳は訴えるように続けた。

「彩愛、誰かに言われてやってるなら、うちら一緒に行くから警察に届けよう。とろろはどこにいるの?」

 友梨佳の強い問いかけに、彩愛は拗ねたような表情のまま俯いた。そのままソファで膝を抱え黙り込む。

「でも……」

 彩愛が呟く。そして、次の瞬間、顔を上げた。
 その表情を見て茉莉の背中にはあの冷たいものが走った。
 彩愛はそれまでのふわふわとした雰囲気から急に表情のない能面のようになった。

「猫、猫、うるさいねぇ。もう指示役に渡しちゃったからここには居ないよ?」

 抑揚のない彩愛の言葉に、部屋が静まり返る。茉莉と友梨佳は脳の伝達機能が滞っているような感覚で、その言葉をすぐに理解できない。

「どういうこと?」
「そのままよ。もうここにはいないの。今頃どっかに売り飛ばされてるんじゃないの?
 オークションにかけるらしいよ。なんかタグみたいの付いてたの気づいた? あれ、オークションのナンバーだって」
「いつ? いつ渡したの?!」

 ほとんど悲鳴に近い声を茉莉はあげた。その問いかけを彩愛は心底面倒くさそうに返した。

「だーかーらー、さっき!
 指示役に言われた場所に居た人に猫を渡して報酬もらって、お散歩しながら帰ってきたのに、うちの前でヤマリの辛気臭い顔見て白けた」

 茉莉の手は気づくと彩愛の胸を突いていた。意識なく動いたために、テーブルの何かが飛び、ぱりんと割れる音がした。
 コンマ数秒遅れて、友梨佳が茉莉を抑える。

「友梨佳、離して!」
「茉莉、茉莉、落ち着いて……!」
「とろろをどこにやったの? 指示役って誰?」
「……知らないよ、指示役なんて顔も見たことないし。それこそ毎回人も違うし!」
「でも連絡はとれるんでしょ?!」

 ほとんど絶叫に近い茉莉の叫び。茉莉を押さえながら、友梨佳が続ける。

「彩愛、あの猫は強盗殺人事件と関わってる可能性が高いんだよ。それ、わかってんの?」

 対する彩愛は鬱陶しそうに天井を仰ぎ見た。

「あー……。ウザすぎ。
 わかってんの? ってなに?
 友梨佳あんたいつも偉そうだよね。
 知ったこっちゃないよ。
 私はただ猫を運んで来いとしか言われてない。
 生きたまま連れて来いとはしつこく言われけど、それ以上のこともそれ以下のことも知らないよ!」

 彩愛のその豹変したさまは、茉莉と友梨佳に感情の動きを止めさせた。彩愛は二人の様子を見て満足気に語り出した。

「何日前か忘れたけど、何人かいる指示役の一人から突然『近辺で逃げた貴重な猫を探してる。見つけたら生きたまま捕獲。報酬は10』ってメッセージが来た。多分この辺のバイト、数名に送られてると思う。
 写真も送られてきたけど、どう見ても普通の三毛猫なのに、これで10とか破格すぎてビックリした。
 しばらく気にしてその辺歩いてたけど、まあそんな簡単に猫なんて見つからないよね。
 死んじゃったんじゃないの? って思ってた。
 そしたらさ!」

 急に乗り出した彩愛は嬉々として話を続ける。

「ヤマリあんたが木曜日にそれとそっくりの猫を連れて大学に来たからさ! ビックリなんてもんじゃなかったよ?
 でも、すぐに指示役に連絡したら『もう手は打たれてる』って言われて、なぁんだって思ってた」

 その時の感情を思い出すかのように、彩愛はつまらなそうに話す。

「それがその夜になって、やっぱり捕獲しろってメッセージがきてさ!
 首尾良くやれば、報酬は15にするとか言うから、コレはやばいって思って。
 あのSMSは、別に脅そうとしたと言うより、ヤマリが猫を横取りした奴で間違いがないかの確認みたいなもんだったんだよね。指示役から聞いた番号に送ってみて、ヤマリが反応したらビンゴってことでしょ?」

 茉莉は段々と頭痛がしてきた。目の前にいる人物が全く違う言語で話しているようで脳が痙攣している。

「てっきり昨日も猫を連れて大学に来ると思ったのに、置いてくるとか意味が分かんないよー。
 でも、まさかヤマリがそこに転がってる翔太の姉なんてさ!
 うち、運良すぎじゃない? って思った。
 ヤマリを最初に見た時、なんか見たことあるような気がしたんだよね。でもあのキーホルダー見るまでは、さすがに気づかなかった。
 いや世間って狭いよねー」

 茉莉は忸怩じくちたる思いでその話を聞いた。あのキーホルダーさえつけていなければ、翔太を危険に曝すこともなかったし、とろろを奪われてしまうこともなかった。
 彩愛からキーホルダーのことを聞かれたとき、違和感を覚えたのは、あまりに唐突だったこともあるが、彩愛に感情の揺れが見られたからだ。私利私欲のための焦りだったと今なら分かる……。

「で、翔太くんに『今から会えない?』って聞いたんだけどさ、いつもは喜んで会ってくれたくせに昨日に限って『ごめん。今日は無理』とか言うからさ。なんかムカつくじゃん。
 それで今朝『今から会えないなら、もう会わない』って言ったらさ!
 翔太くん『生き物がいるから家を出れない』って馬鹿正直に教えてくれたから、まさかのお宅訪問をしたというわけ。
 お母さんにご挨拶出来なかったけど、大丈夫だったかな?」

 瞳を大きく開いて嬉しそうに話す彩愛。茉莉はさきほどから続く頭痛が強まるのを感じた。吐き気を覚える。

「え? ねぇ、何? 黙ってないでなんか言ったら? 友梨佳まで静かになっちゃって!」

 彩愛が友梨佳をも煽る。その言葉を遮るように奥から声が聞こえた。

「……とろろは、まだそこまで遠くに行っていないと、思う」

 倒れていた翔太の声だった。

「翔太!」

 茉莉が駆け寄ると、翔太はゆっくりとした動きながら身を起こした。その姿を見て、彩愛が不快そうに呟いた。

「起きるの早くない? 10時間くらいは眠ってるって聞いた薬なのに」

 〝薬〟という単語に茉莉はびくりと身体を震わせたが、翔太は茉莉の肩をぽんぽんと叩くといつもの調子で返した。

「……大してスポーツしてないのに、オンラインゲームで鍛えた体力があるのが自慢なんで」

 翔太はふらりと立ち上がると、彩愛のソファの前に胡坐をかいて座り込んだ。

あねが今朝、友梨佳さんとの待ち合わせで出かけた後、突然この人が家の前まで来たんだ」

 翔太が冷たい眼差しで彩愛を見る。彩愛は心外とばかり反発する。

「この人ってなに? 随分な言い方じゃん。この前までは私が誘ったらあんなに喜んでたくせに」
「勘違いです」
「は?」
「今は関わったことすら気の迷いだったと後悔してる。
 悪いけど、ちょっと黙っててもらえますか?」

 翔太の返しに彩愛は眉を寄せ、口を二、三回動かしたがそのまま黙った。

「家の前から電話してきて、ピンポン押して良いかとか言うから、さすがに母と話されるのも面倒なんで家に入れた。そしたら……」

 そこまで話すと忌々しいことを思い出したかのように、翔太はため息をついた。

「この人が、闇バイトの勧誘をし始めて。変な名刺みたいな紙を渡してきて『簡単に稼げる』とか、『一日で何十万も手に入る』とかあれこれ言いだしたんでうんざりして『そんな話をするんなら帰ってくれ!』って、少し大声を出した」

 茉莉はハッとした。翔太の部屋で見つけたあの名刺サイズの紙……。

「翔太、それ、二次元コードついてるやつ?」
「え? そうだけど。何で知ってるのあね
「あ……えっと、翔太が連絡もつかず、とろろも居なくなってたから、悪いけど翔太の部屋をいろいろ探した」
「え? 俺の部屋入ったの? しかもいろいろ探したの? あの紙、母に見つかっても面倒だから教科書かなんかに挟んだはずだけど……」
「ごめん……」
「まぁ……でも、突然俺と連絡とれなくなって、とろろが居なくなったらそうなるか……。仕方ない……。
 まぁそれで、大声を出したから、母が気づいちゃって……。リビングから呼ばれたから、ちょっとこの人を一人にして下に降りた。
 で、母と話してから戻ると、この人が居なくなってて、嫌な予感がしたから姉の部屋を開けたら、とろろも居なくなってた」

 翔太は茉莉と友梨佳のほうに向き直ると、深々と頭を下げた。

「とろろをちゃんと見てる約束を守れずすみませんでした」

 頭を下げる翔太を見て、茉莉は少しでも疑った自分を心苦しく思い、友梨佳は妙に納得した表情をした。
 それを見た彩愛が「ハン」と笑った。

「バカバカしい。なんなの? たかだか猫に」

 翔太は彩愛を一瞥しただけで会話を取り合わず、茉莉と友梨佳も翔太の話の先を促した。

「ご丁寧に姉の部屋の窓を少し開けるとかの工作してたけど、状況からしてこの人が連れて行ったのは間違いなかったから、そのままアパートに向かった。
 着いて問い詰めたら『可愛くて、つい』とか訳わかんない言い訳するから、奥に居たとろろを返してもらおうとちょっと近寄ったら、変な薬を嗅がされて……」
「すごいでしょ? 護身用に持ってたの。前に付き合ってた男がそういうのいっぱい持ってる人でさ。でもそんなすぐに起きちゃうなんてまがいもん掴まされたのかな」

 彩愛は能面から普段の調子に戻りこんな状況にも拘らず翔太に媚を売るように話しかける。
 茉莉は頭痛が少し落ち着いてきた。馴染みのある翔太の話のテンポと、彩愛のズレたやりとりの奇妙さが、却って自分を冷静にさせた。

「俺がここに着いて、眠らされている間は5時間くらいだと思うから、この人が指示役とやらに猫を渡してからもまだそこまで時間は経っていないと思う。生きたまま捕らえるよう指示をしてたくらいだから、とろろはまだどこかに居るはずだ」

 翔太の話を聞いた友梨佳がひとつ頷き彩愛に訊ねた。

「犯人たちは、オークション業者にいつ渡すの?」
「だから、知らないって! 私は猫を捕らえて渡しに行くだけの役割なの。さっき言ったの忘れた?
 てか、あれ、ただの三毛猫じゃん。指示役もしつこく危害を加えるなとか言ってたけど、あの猫なんなの?」

「あのは……」

 茉莉は躊躇した。彩愛に教えてやる義理はない。でも友梨佳と翔太には知らせておきたいと思った。

三毛猫のオスヽヽヽヽヽヽなんだよ。三毛猫は昔から日本で馴染みの猫だけど、オスはほとんど居ないらしい」
「え? そうなの?」
「私も今回のことがあって初めて知ったけど、茶と黒の毛色が出る遺伝子を同時に持てるのはメスの染色体で、通常オスは三毛にならない。
 だけど、すごい低い確率でたまにオスが産まれることがあるらしい。
 だから日本では昔からオスの三毛猫のことを『福の神』といって重宝されていたんだって。
 特に商売をする人とかの間では縁起がいいってことで、場合によってはとても高値で取引されるらしい」

 翔太は昨日、資産家宅に行くまでとろろがオスと気づいていなかった。翔太が仮に犯人と関わりがあれば、その猫の価値を必ず調べるはずだ。そのことを気にしている気配がないということは翔太は無実だと茉莉は確信した。

「あの資産家のおばあさんがどうやって手に入れたのかは知らないけど、三毛猫は雑種でペットショップでは扱わないから、誰かから譲り受けたとかだと思う」

 その話を聞いていた彩愛が唐突に笑い始めた。

「なにそれ、ウケる。あんたたち、じゃあその高価な猫を誰かに売りつけようとしてたから飼い主にも返さず横取りしたんじゃない。猫が可愛い、大切、護るみたいに言ったって、結局金じゃん」

 この言葉を聞いた友梨佳が茉莉と翔太から視線を遮るように彩愛の前に立った。そして低い声色で彩愛に向かって話しかけた。

「自分の低俗な価値観を他人もそうだと思わないで。
 猫を誰に渡したのか言って。私たち、いまから警察に行くから」

 すでに先ほどの悲痛さは消えており、それは軽蔑にも近い感情に茉莉には思えた。

「は? 警察? 自分たちが横取りした猫のことで警察いってどうするの? バカなの?」
「そっちこそバカなの? あの猫は強盗事件の現場から奪われた猫。つまり窃盗されたもの。その時点で罪。
 私たちは犯罪行為を目撃したから警察に届けるだけ。
 彩愛はその犯罪行為に手を貸して報酬まで受け取ったんだから、なんとかほう助とかの罪になるんじゃない?」

 そこまで友梨佳が言うと、彩愛は友梨佳を睨みすえて叫んだ。

「やめてよ! 猫と私どっちが大事なの?! 私だってこんなヤバいことになると思ってなかった」
「ここまでやっといて、そんな身勝手な理屈が通用すると思ってるの? ヤバいと思ってたんなら辞めれば良かったじゃん」
「私だって辞めたかった! 辞めたかったけど辞めさえてもらえなかった。最初はただ連絡したりするだけの簡単なバイトのつもりだったのに……。
 指示役に『辞める』って言ったら、地元の親に電話するって……。身分証出しちゃってたから、辞めるならこの先ずっと就職先とかにも言うって脅されて……。
 でも、今回、あの猫を無事に連れてきたら、足を洗わせてやるって言われたんだもん!」

 彩愛はぽろぽろと涙をこぼし始めたが、ここまでの彼女を見ていた一同には一切の同情の気持ちすら湧いてこなかった。状況を察した彩愛はついに友梨佳に掴みかかった。

「友梨佳、あんたには私の気持ちなんて分からないよ。当たり前のように学費を出してもらって、当たり前のように一人暮らしさせてもらって。あんた別に実家から通えるじゃん。
 久美だってそう。いつも二人でつるんで、内心うちのこと見下していたんでしょ?
 健吾さんは最初、奨学金を借りて学校通ってるって聞いてこちら側の人間だと思ってたのに……。なんかインターンシップ先の人に可愛がられてその会社で割のいいバイト始めて、それなのに私には『彩愛は変なバイトとか気をつけろよ』って!
 あいつも私のこと見下してるんだよ。みんな最低だよ」

 彩愛は友梨佳の肩を掴んだ手を放し、その場にしゃがみこんだ。友梨佳は眉を寄せ唇を震わせ何かを言いかけた。
 その後、彩愛から一歩離れた。

「警察に電話する」

 友梨佳のその表情はもう目の前の友人を救うことは出来ない絶望を感じさせた。

 茉莉と友梨佳の通報により、彩愛は逮捕された。警察の捜査は、組織の指示役に繋がり、とろろは無事に保護された。
 彩愛は頻繁に闇バイトで報酬を受けており、別件でもすぐに逮捕された。

 とろろは茉莉の想像通り資産家の猫で、強盗に押し入った現場で鳴いていたようだ。犯人の一人が猫に詳しく、高額で裏取引出来るとふんで捕獲し組織と繋がりのあるオークション業者に引き渡す予定だったが、運搬途中で逃げられたらしい。
 子猫と思えぬ身体能力で高く跳びあがり、あっという間に逃げて行ったと運搬担当の被疑者が供述したことを後から聞き茉莉は納得した。
 家の棚を簡単に登っていたとろろなら可能だろうと。とろろは自分が置かれている状況を解っていたのかもしれない。

 組織は猫が誰かに保護された場合にマイクロチップで資産家の猫と知られ、強盗殺人事件の逃走ルートなどが割れることを危惧したようだ。あわよくば高値で売りたいとも考えていただろうが、どちらかというと〝証拠隠滅〟のため、バイトに高い報酬を払ってでも確保しようとしたようだ。

 茉莉たちは警察でいろいろと事情聴取をされた。立川駅へ空のキャリーケースを持っていき、犯人を誘き寄せようとしたくだりでは、その前に通報しなかったことを咎められたが、結果的に犯人逮捕に貢献したとのことで感謝状を受けた。


「茉莉、おつかれ」

 テラス席で昼食をとる茉莉に友梨佳が話しかけた。茉莉はこのところ天気のいい日はテラス席で食事をとっていた。学食のメニューが思いのほかリーズナブルで美味しかった、というのが表向きの理由だが、想像よりも一人で食べるランチは嫌なものではなかったのが本心だ。

「みた? ソーシロ逮捕」

 今朝、ネットニュースやSNSはその話題で持ちきりだった。表向きは「世間の様々な困りごとをインフルエンサーが解決」を謳って活動していたソーシロは、実は半グレ系や裏社会との繋がりがあり、詐欺に加担したとの罪で逮捕された。

「あの時の動画だって、絶対犯人から報酬得てたよね」
「まぁそうだね。でもとろろが無事だったからもうなんだっていいよ」

 とろろは、被害者である資産家のおばあさんの遺族へ返された。遺族から茉莉と友梨佳はとても感謝され、いつでもとろろに会いに来ていいと言われている。

「来週、翔太ととろろに会いに行こうかと思ってるんだけど、友梨佳も行く?」
「うん、行く行く」

 友梨佳は微笑んだ。彩愛のことがあってから、以前ほど元気がない気がして茉莉は気がかりだ。

 学内の学生が闇バイトで犯罪に手を染めていたことは、すぐに広まった。彩愛が所属していたため、友梨佳達のサークルは活動を休止しているらしい。

 彩愛とすぐ近くでいつも接していた友梨佳たちは、彩愛が抱えていた鬱屈した悪意が、ダメージとして残り続けているだろうと茉莉は思った。

 むき出しになったそれは、茉莉にも自覚はあった。
 茉莉も友梨佳のことは、光の中にいる人のように見えていた。とろろのことが無ければ、今もそう思い続けていただろう。 

「翔太くんに会ったら文句言わないと。
 君が変な嘘つくから、一瞬犯人かと思ったよって」

 思い出したように友梨佳が言った。

「あーあれね、猫を母にバレたって言ったら私に怒られると思って隠してたのに、母がとろろのフードのこととか心配して電話してくるから動揺してつい誤魔化したとか言ってた。まぁその前に友梨佳のスマホに脅迫電話もあったから、動揺したのは分からないでもない」
「まぁね」
「私が勝手に部屋を捜索したことと相殺して、この話はもう終わりにしようって言ってあげたら『気をつけよう。急に近づいてくる女性とその場しのぎの誤魔化し』ってスローガン掲げてた」
「翔太くんらしいね~」
「これがね、その時の翔太」

 茉莉は翔太が真顔で正座している写真を見せた。
 それを見て二人は同時に噴き出した。

 一通り笑った後、二人はゼミを受講するため教室へ向かった。

(了)

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

9話 / マガジン

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