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【小説】試したがる女

――2023年10月10日

 私が今から皆さんにお話しするのは、決して他言はしないと誓約したある事実についてです。何故、守秘義務に反して話すかというと、シンプルに言って〝墓場まで持っていくのがしんどくなったから〟。
 念の為言い添えると、私はそこまで口の軽いほうではありません。その証拠として、これから話す内容はこの15年間今まで誰にも話したことはありません。
 ただ、元来人間は秘密を隠しておくことが出来ない性質たちで、その秘密が重要であればあるほど、外部に漏らしていけないと言われれば言われるほど、誰かと共有したい欲望に駆られるものだと思っています。

 私はもう、この秘密を保持していることが耐え難くなってきました。そのため、私の精神的な安寧のため、今ここに限定された読者の皆さんに秘密を共有いたします。

 なお、文章内での名前は皆、仮名かめいとさせていただいております。

 20代の頃勤めていた会社に守山もりやま華子はなこさんという女性の先輩社員がいました。

 高校を卒業後、就職氷河期もあり正規雇用での就職が叶わなかった私は、アルバイトで教育関係の商材を扱う会社に雑務として入社しました。その後1年間、どんな仕事でもニコニコと引き受け内心は多少の毒を吐きながらも死ぬ気で働いた結果、次第に社員からは親しみをこめて〝祥子しょうこちゃん〟と下の名前で呼ばれるようになり、めでたく社員として登用されることになったのです。

 守山華子さんは、社員になった私が初めてついた指導役でした。34歳で独身。勘が鋭く仕事も早いためクライアントからの評判は高く会社から重宝されていました。

 私が配属になった部署は、今でいうところのカスタマーサクセスで、会社の商品を購入したクライアントにフォローアップやプランのアップデートの提案、クレーム対応など比較的多岐にわたる業務を行っていました。
 当時、政府のICT活用の方針などもあり、インターネットが一般家庭に急速に普及し始め、教育分野においても時代はeラーニングへと変化しつつありました。外勤の営業社員がひたすら〝新商品〟を売りさばき、私たちが契約後のあれやこれやを一挙に引き受ける形でした。
 クレーム対応などのカスタマーサポート業務から、外勤の営業社員のため提案資料を作成したり、クライアントに電話でプラン変更をお薦めしたり、時には契約解除を慰留したりなども。
 内勤とはいえ仕事は激務でやることはいくらでもあり、世間も会社も今ほど残業や休日出勤に対しうるさくもなかったこともあり、毎日帰宅は終電が基本、時には〝泊り〟なんてこともありました。人の入れ替わりも激しく、一般事務のつもりで軽く入ってきた人はとてもついていけず、数週間で退職なんてこともザラにありました。

 そんな中私は、根性だけはあり愛想も悪くなかったため、社員としては新人でもアルバイト時代からの人間関係も手伝って初期研修での滑り出しは良かったと思います。自らの名前、山田祥子が記された社員証を下げて、毎日先輩社員より早めに出社するなどのアピールも欠かさなかったですし。

 でも守山華子さんは、そんな私の伸びすぎた鼻をポッキポキと折り、私の自尊心という自尊心を駆逐したのでした。
 あの頃のことはあまり思い出したくもないのですが、ご多分に洩れず当時流行っていたブログに日記をあげていましたので、一部を紹介したいと思います。守山華子さんは日記内でMとしております。


――2008年6月5日

 こんばんは。私は今日も鬱々とした気分で帰るところです(当たり前のように終電)
そうです。今日もMさんに怒られました。もはやこれ、ルーティンですね。

「その資料、誰が印刷していいって指示したの?」
「私、まだ内容の確認もしていないよね? 客先に出せるレベルなの? それ」

 複合機の前で営業から頼まれた提案資料をホチキス止めしていたら、いかにも不機嫌そうな顔をしたMさんが……。
 何が失敗って、怖すぎて思わずこう返してしまったんです。

「あ……あの。課長にご確認いただきました」

 もぉ、Mさんの表情はまるで突如として発生した熱帯低気圧があれよあれよと台風になるような、凄まじいものに変化しました。皆さんに見せてあげたかったです。

Mさん「あなたね、課長は私が確認していると思って、さらっとしかご覧になっていないのよ。忙しい方だから。
 なんで私に見せる前に、課長に直接見せにいくなんてことをしたわけ?」
私「ス、スミマセン! 急ぎの資料だと伺ったので。Mさんが会議でいらっしゃらなかったので、課長にお願いしてしまいました」
Mさん「私のせい?」
私「いや、そういうことではなくて。すみません。いまからでも資料ご確認いただけますでしょうか」

 その後、30分近く私はMさんのデスクの横で立たされたまま、作成した資料のダメ出しを受けることになりました(涙)

 資料の中に私が誤解して覚えてた言葉があって、もちろん間違えている私が悪いのですが、

「この言葉、意味言ってみて」

 とか、わざわざ言わせるんです。もちろんMさんは私が誤解して覚えていることも理解した上であえて言わせるんです。ほんと性格悪い(笑)

 その後クドクドといかに私が浅はかであるかという演説が続いて、私はただでさえ縮こまった背中をさらに縮めてそれを聞き続けました。まさに苦痛。

 もっとも内心は、こんなに説教が続いて資料が間に合うのか、そのことばかりが気がかりで、Mさんのありがたい説教は後半ほとんど頭に入ってきていなかったですけど。

 途中で、もしかしてMさん、この資料が急ぎだって知らない? って心配になった私は、それ言ったほうがいいのかと真剣に悩んじゃいました。

 ……しかしどう伝えよう。言い方を誤ればそれはそれで悲惨。
 でも私、これはやっぱり伝えたほうがいい。そろそろそんなに時間かかるって思ってない営業から、催促の内線入るかもって、意を決したんですよ。
 そしたら……

「ヤマダさん、今回の直しは私がやるわ。あなた複合機の前で立ってて」

 Mさん唐突にそう指示するんで私は思わず「えっ」とか間抜けな返事したら、

「え? じゃないでしょ。これもう営業に渡さなきゃいけないんじゃないの? 私がデータ直すから、印刷上がったのからホチキス止めしてって言ってんのよ。あなた、期限のことも意識出来てないの?」

 Mさんに心底疲れた顔をされた……。
 期限のこと今言おうと思ってたのに……。

 それから私は泣きそうな気持ちになりながら複合機の前に立ちました。
 カタカタカタカタ……Mさんの放つタイピングの音だけがオフィス内に響き渡るように思えて、マジでキツかったです。

 今日はそこから先のことはあまり覚えてない。とにかく、これ以上Mさんの叱責を受けたくない一心で私は書類を整えてました。

 担当営業に資料一式渡したとき、私は今日の業務をやりきったくらいの疲労を感じたのに、まだ3時前。
 そうです。これ、まだ第一部も終わってない。

※今日初めてブログを読んでくださってる方へ。
 当社、定時は午後5時ですが、皆あまりに残業が多いので、午後5時からを第二部と読んでいます。もちろん別に会社にそんな決まりはないです。私たち社員が勝手に言ってるだけ(笑)

 そんなこんなで、今日も終電で這いつくばるように帰ってます。
 おやすみなさい(電車で寝そう)


――2008年7月15日

 こんばんは。今日もやる気が起きないヤマダです。皆さん前回のブログにいろいろ優しい励ましの言葉ありがとうございました。

 今日も相変わらずヤマダはローテンションで、第一部の途中でコンビニに行って軽食とエナジードリンクを入手したいって思ったけど、Mさんの機嫌を見ると、コンビニなど抜けている場合ではなさそう。だから私は定時までおとなしくデスクで仕事をしてました。こう見えて真面目なんです。

 第二部が始まり、やっと私はコンビニへ。
 フゥ……身体の空気がそのまま抜けるような間抜けなため息が出て自分でビックリ。

(なにもあそこまで言わなくてもいいのに)

 そう思ったら急に力が抜けちゃったんですよね。陳列されたおにぎりの前で私は身体が動かなくなってました。

 こう見えて私はちょっとやそっとのことじゃヘコたれない人間だと思っています。高校までは陸上をやっていたから、体力もそこそこ自信があった。体育会系でキツイ先輩というのは居たし、多少のことは受け流せると思っていた。
 けど、Mさんからの指摘や叱責はいつも自分の中で消化出来なくて淀んだものが残り続けるようで……。
 可能であればあの人と関わりたくない。あ、言っちゃった。

 転職……そんな言葉がこのところ頭の中を支配しています。
 いまひとつ踏み出せないのは、バイトから入りようやく手に入れた社員というポジションを簡単に手放したくないからだけど、私の心はすでに折れかかっているかも……。

 でも、今日はちょっといつもと違うことがあったんです。コンビニのおにぎりの前で棒立ちになっていたら、急に

「ヤマダさん」

 と声がかけられました。
 私は急に引き戻された現実世界に驚き「ヒュエッ」みたいな声をあげちゃったんですけど、振り返ったらそこには同じ部署のKさんがいました。

「あ、ごめんごめん。驚かせた?」

 Kさんは、アルバイト時代に仕事の指示をもらっていた方で、いつも穏やかで優しい人です。
 社員になってもKさんが指導役につくものだと思っていた私は、どこか仕事を楽観視していたかもしれません。
 バイトでも嫌な事はありましたが、それは他部署の誰それの言い方がウザいとか、送付用の資料の封入が大量で腰が疲れたとかの類で、今思えばかわいいものだったなって思います。

「すみません。ボーっとしちゃってました」

 そう言いながら私は笑ったつもりですが、顔がちゃんと笑えているか自信はなかったです。でもそんな私にKさんは

「ヤマダさん、大丈夫?」

 って優しく聞いてくれました。
 その気遣いがMさんとのことを指しているとすぐ伝わってきたけど、私はオフィス中に見られていたような気恥ずかしさもあり

「すみません、ご心配をおかけして。せっかく社員になったのに毎日こんな感じで情けないです。ご迷惑をおかけしないようもう少し頑張りたいと思います」

 そう返したら、Kさんは少し声のボリュームを落としながらこう言ってくれたんです。

「そんな風に思わなくていいと思うよ。
 Mさんはその……少しキツ過ぎると思う。誰だって最初は分からないこととか判断難しい場面あるのに、あそこまで言わなくたって。
 私、ヤマダさんは十分頑張っていると思うよ」

 日々Mさんの叱責を受けて自己肯定感が地に落ちていた私は、このKさんの優しい言葉に、喉の奥がギュッと締め付けられるような感覚が湧いてきてしまって……。
 〝頑張っている〟それは私が最も言われたかった言葉で、不意にこのような場面でKさんから言われることを想定していなかったために、平常心を保っていた自分の感情は揺さぶられてしまいました。

 返事をすることも出来ないでいる私を見てKさんは微笑むと、なんとこう言ってくれました。

「今度、ご飯でも食べにいかない? 私の同期も、ヤマダさんのこと心配しているの。毎日残業ばかりじゃストレス発散も出来ないからさ」

 なんかこうして、気にかけてくれる方がいるうちは頑張って仕事するべきなのかな? なんて、ガラにもなく思ったりしたそんな日。

 今晩はそんなところで。
 皆さんおやすみなさい。

――2008年7月25日

 こんばんは。
 実は今日は珍しく呑んだ帰りです。すみません、少々酔っています。

 先週の火曜日に、Kさんに誘われた食事会。なんと、たまたま今日Mさんがお休みで残業せず早く上がれるという大チャンスに恵まれて、早速開催されました。
 Kさんと同期のTさんも一緒に。二人は同期という事もあり、ちょくちょくこのように飲んでるようです。

「だってさ。飲まなきゃやってらないでしょ? あんな毎日毎日残業でさ」

 ジョッキの生ビールを一気に半分くらい飲み干し、Tさんは言いました。サバサバしていてTさんもいい人そうだなと私は感じました。
 Tさんはうちの会社の残業の多さに不満があるようでした。確かに残業は多いと思うけど、社会人はそんなものだろうと私はどこかで思っていたので驚きはしなかった、そう言うと

「洗脳されてるね」

とTさん。そうなんだろうか。私はぼんやりと考えました。

「でさ、大丈夫なの? ヤマダさんは」

 残業のことを考えていたら、Tさんに唐突に話題を振られて私は言葉に詰まってしまいました。

「ちょっと、いきなりそんな言い方したらヤマダさん困るから」
「え、そっか! ごめんごめん。そんなつもりはないの」

 そう言いながらTさんが少しオーバーなリアクションでお詫びのポーズをしたので大丈夫ですと返すとTさんは身を乗り出してこう言いました。

「私さ。あれ、……っていうかあの人の言動ね。あの人はあの人ね」
「はい」
「ハラスメントだと思うんだけどさ」

 ハラスメント……。この発言には私は少し驚いてしまいました。最近いろんな場所でその言葉を聞くことが増えたし、つい先日も社内で研修があったばかりだけど、ハラスメントというととても大事おおごとな気がします。

 Tさんは残業のこともMさんの言動に対しても真剣に考えてくれているようですが、私にはそこまで話を大きくしたり、ましてや訴えたりは考えられません。

「自分が悪いので仕方がないので、ハラスメントで訴えるようなことまでは考えていないのですが……」

 真剣に考えてくれているTさんに、何か返さないと思い私はこう返しました。
 でもその言葉に二人は顔を見合わせました。私は私の言葉が二人にとって盛り上がりに欠けるのだろうと感じたので、ここは何かしらMさんの話をしたほうがいいんだろうと思い話を変えることを思いつきました。
 私はこういうとき、ついついウケを気にしてしまうのです。

「ご指摘はごもっともなので、反論のしようがないんですよね。ただ……
 私の中ではMさんは『試したがる女』なんですよね」

 私のこの喩えにすぐにTさんとKさんは爆笑してくれました。

「試したがる女にとって、ちょうどいいとこに私というカモがいたのかなってそんな風に考えてます」

 私がそう言ったら、よっぽどハマったのか2人はしばらく笑いが収まらず、そこからは〝試したがるMさんネタ〟で盛り上がりました。

「敬語とか言い回しにやたら細かくない? 私この前『拝見させていただきますは間違いですよ』とかMさんから唐突に言われてさ」
「え、間違いなの? それ」
「間違いらしいよ。〝拝見〟がそもそも謙譲語で、〝させていただく〟も謙譲語だから二重敬語にあたるらしい」
「へぇ~知らなかった」
「そう、それをさ、普通にそう教えてくれればよくない?」
「教えてくれたんじゃないの?」
「違うの。『何が違うか分かりますか?』とかいうわけ。その言い方がすげー嫌な感じでさ」
「わぁ……なんか目に浮かぶわ」
「悔しいから私調べたの」

 2人が盛り上がってくれたので私はもう一つネタを仕込むことにしました。それは、いつか誰かに話したいと思っていたMさんが大事にしているものの話です。

「Mさんが大事にしている電子辞書知ってますか?」

 二人は興味津々と身を乗り出してきました。

「Mさんは常々私のボキャブラの貧弱さを突いてくるのですが、そのたびに電子辞書を片手に持つんです」

 私はMさんの仕草を真似して続けました。

「『あなたも少しはこういったツールを使いなさいよ。調べることくらい出来るでしょ?』って。
 確かに仰る通りなんですが、実はそれ私の読みでは指導というていで〝最新の電子辞書持ってるわよ自慢〟だと思うんです。あれ発売されたばかりの最新機種で、きっとそこそこお値段もすると思うのですよ」

 こう言うと二人は再び爆笑しました。私は2人がウケてくれたので大満足でした。
 少しだけ日々の憂さが晴れるようなそんな気がしました。

 たまにはこうしてお酒を呑むのもいいことですね。KさんもTさんもまた誘ってくれるそうです。

 今晩はこんなところで。
 寝過ごさないよう気をつけます。

――2008年7月28日

 こんばんは……。
 皆さんに今日は聞いてもらいたいことがあります。
 唐突ですが、皆さんは自分の知っている人が不正行為を行っていると知ったらどうしますか?
 見過ごしますか? それとも指摘しますか?
 とてもお世話になっている人だとしたら?

 私はいまどうしていいか分からずにこのブログを書いています。

 今日、あることをきっかけにMさんのデスクにあの電子辞書がないことに気がつきました。金曜日の飲み会で話題にした、最新の電子辞書です。

 勘違いかもと思いMさんに確認しました。

「あの……」
「なに?」
「Mさん、電子辞書どうしたんですか?」

 あまりにも自然にその言葉が自分から出たそのあと、私はしまったと思いました。Mさんからいろいろ指摘を受けている最中だったのです。話を聞かず余計なことを考えていたことがバレる! と私は身構えました。

 ところが、意外にもMさんはすんなりと話題を変えて

「ああ、ないのよ、今朝から」

 と言いました。そのあと続けてこう言いました。

「正確には出勤時まではあったわ」

 Mさん曰く出社してすぐ調べたい英単語があり調べた時はあったと言うのです。Mさんは事もなげに言ってましたが、少し戸惑っているようでした。こんな様子のMさんを見るのは初めてで、私も電子辞書の行方が気になりました。
 ところがこのあと、想像もしないところからこの電子辞書の行方を知ることになりました。

 お昼休憩のとき化粧室にいるとTさんから声をかけられました。

「おつかれ!」
「お疲れ様です」

 ミラーごしにTさんが意味ありげな顔をしてきました。

「ねえ」
「はい」
「今日さ、Mさんどうだった?」

 Tさんの質問の意図が分からず私は様子を伺いました。

「大事なもの無くなって困ってなかった?」

 その答えに私は心当たりがありました。
 でも、何故Tさんが?
 私は恐る恐る聞きました。

「電子辞書のことですか?」
「ふふ」

 Tさんはハッキリとそうだとは答えませんでした。でも代わりにこう言いました。

「ずいぶん、あの人に追い詰められているみたいだったからさ。大事にしているものが無くなって困ってるところをみたら、ヤマダさんの気分も晴れるだろうなと思ったの」

 私は唖然として言葉を失いました。いくらMさんに厳しくされていても、大事にしてるものが無くなって喜ぶような考えには至りません。

「Tさん、電子辞書どこにあるか知ってるんですか?」

 リップを塗りなおしたTさんが、にこやかに微笑んでこう言いました。

「さぁ……? 今どこにあるかなぁ」

 私はそれ以上Tさんを追及することは出来ませんでした。

 デスクに戻ると、Mさんは相変わらず険しい顔をして着々と仕事をこなしています。

 私は、Tさんからの話を聞かなかったヽヽヽヽヽヽことにしました。

 でも、家に帰ってからずっと悶々としています。おそらくTさんはMさんの電子辞書に何かしたんだと思います。でも証拠もありません。こうして、見て見ぬふりをした私は同罪でしょうか。その事ばかりが頭を支配して今日は眠れそうにありません。

――2008年10月10日

 皆さん、こんばんは。
 前回のブログにコメントをくださった皆さん、ありがとうございます。お返事出来ず申し訳ありませんでした。

 そして、急なこととなり大変申し訳ないのですが、今日をもってこのブログを終了するということをお知らせさせていただきます。
 長い間、私の駄文に付き合ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

 私はもう二度と、こういった発信をすることが出来ないと思います。
 皆さん、どうかお元気で。


――2023年10月10日

 15年前の今日、私はそれまで書き続けていたブログを急遽非公開としました。それにはある〝非公開にせざるを得ない理由〟が関係していたのです。
 お恥ずかしいことですが、2008年当時私のブログにはほとんどフォロワーはいませんでした。私は、うだつが上がらない日々の虚しさを癒すためにブログを書き、時には自分で別アカウントになりすましコメントをしていました。
 そうすることで自分を励ます見えない誰かがいるような錯覚を覚えたのです。なんとも滑稽なことです。

 では、何故大して見られてもいないブログを非公開とせざるを得なかったのか。

 7月28日のブログにある行方不明となった守山華子さんの電子辞書ですが、ブログを書いている時点ですでに行方は判明しておりました。そう、ご想像の通りTさんこと遠野由香とおの ゆかさんがわざと隠したのです。遠野さんはあっさりと白状しました。電子辞書はお手洗いの棚にポンと置かれていました。

 遠野さんは私にそれを手渡しするとこう言いました。

「後で返しておいてよ。『守山さん、トイレにこれ落ちてましたよ』って言ったら面白くない?」

 遠野さんの冗談が私には全然笑えませんでした。私は守山さんにどうやって電子辞書を返すべきか悩んだ後、自分が関係していると疑われることを恐れて、封印ヽヽすることとしました。
 ブログで電子辞書の行方が分からないままのような、遠野さん自身も関係しているような発言をしながらも明確に白状しなかったように記述したのは我が身可愛さのためです。
 大事にしているといっても、しょせんは電子辞書。時間が経てば守山さんはまた新しい電子辞書を入手してくるような気さえしていました。

 ところが翌日から守山さんは出社しなくなりました。会社はちょっとした騒ぎになりました。何故なら、当時守山さん一人で私たちの三人分くらいの仕事をこなしていたからです。部署が回らなくなる危機に陥ったのは明白なことです。

 私は守山さんの突然の休みが「電子辞書紛失と関係していたらどうしようか」「いやまさか、出社しなくなるほどの衝撃を受けるだろうか」と、日々心の中から湧き上がる不安とそれを打ち消す気持ちとの葛藤にさらされました。

 そして1ヶ月後、守山さんが正式に退職した旨が社内の掲示板に通達されました。
 私はこれで守山さんの叱責から解放される安堵を感じましたが、それとともにあの電子辞書をどうするべきなのか、いっそ本当に棄ててしまおうか、と考えました。
 結局私はどうすることも出来ず、そのままデスクの奥にしまい込んだままその事すら次第に意識から抜けていきました。

 ところが予想もつかない場所で私は守山さんと再会することになったのです。

 守山さんの退職が通達された翌月のある日、私は用があり霞が関を歩いていました。すると目の前の省庁に、守山さんが入っていくのが見えました。その省庁は私が勤めていた会社と非常につながりのある省庁です。
 その省庁からの業務委託契約を扱う部門の社員は訪問することがありますが、退職した守山さんが何故そこに入館するのか不思議に思いました。

 私はその場に留まりました。あれだけ仕事の出来る守山さんです。退職したことになっているが、秘密裏にまだうちの会社で働いているのではと考えました。そこまではいかないにしても、何か訳がありそうなそんな直感めいた感覚があったのです。
 ちょうど向かいのビルの一階にカフェがあったので、喉が渇いていた私はそこに入り窓際の席に座りました。

 しばらくして、守山さんが出てきました。書類が入ったような袋を手に提げて歩いています。私はカフェを出ると守山さんを追いかけました。
 追いかけながら私はどうしたものか、と思いました。守山さんが今までと何ら変わらず元気そうなのを見て、思わず追いかけてしまいましたが、目的は特になかったのです。

 守山さんは地下鉄の入り口で階段を下りていきました。私もその後に続きました。ところが階段を下りたところで、私は守山さんの姿を見失ったのです。思わずキョロキョロと辺りを見回しました。速度からして見失うことはない距離にいたので、まだ近くにいるはずと考えました。

 後ろを振り返った瞬間に私は人にぶつかりました。すぐにスミマセンと声を発して、そのぶつかった相手が守山さんであることに気づき私は驚きのあまり目を見開きました。

「なんて、間抜けな顔しているの。あなた、私のこと尾行していたでしょう」
「も、守山さん……。あの姿をお見かけしたので、つい……」

 そう言うと守山さんは意味ありげな微笑みを浮かべました。

「……電子辞書を返しに来たの?」

 守山さんはニヒルな表情のままこう問いました。一方の私は、電子辞書のことを守山さんからコメントされ焦りました。愚かなことですが、すっかり意識から外れていたのです。私は怒られた子供のような心境になり唇が震えて言葉を返すことが出来ませんでした。

 何を思ったか、守山さんは「ここじゃなんだから移動しましょう」と言うと地下鉄に乗りある場所まで私を誘導しました。当然私に拒否する権利はありません。取り調べをうける容疑者のような気持ちのままそれに従いました。

 地下鉄を降りた後、5分ほど歩いたところにある雑居ビルの中に守山さんは入っていこうとします。私は逃げ出そうかと何度も思いましたが、残念ながら守山さんに自宅の所在地まで知られていたため、そのような事は何の意味もないと悟りました。

 ビルの3階まで上がると扉を開いて、守山さんは中へ案内してくれました。デスクとPC、応接用のソファとローテーブルがあるだけの簡素なオフィスのようでした。

「まぁ座って」

 恐る恐るソファに腰かけた私に守山さんはコーヒーを出してくれました。大人気のゆるゆる系キャラのマグカップで、とても守山さんの雰囲気に似つかわしくありません。コーヒーを出してくれたことといい意外すぎる状況に私は面食らいました。
 ですが、ここでコーヒーを飲んで談笑するだけのことを守山さんがする訳もありません。
 次の瞬間から電子辞書の話が始まりました。

「で? 電子辞書はどうしたの?」

 ストレートな追及。そりゃそうです。私はもごもごと説明をしようと口を開きました。

「まだあなたのデスクにあるのよね?」
「え?」

 私は驚きました。守山さんは電子辞書紛失に私が関係しているだけでなく、すべての状況をお見通しのようでした。

「私じゃないんです」

 思わず私の口からは自己弁護の言葉が漏れ出ました。まるでライオンに睨まれたウサギのようです。大げさではなく自分を護らなければ死ぬと思いました。

「知ってるわ。遠野さんがやったんでしょう?」

 さらっと守山さんは言いました。私は驚きのあまり守山さんをまじまじと見つめました。

「なんで、私がここまで知っているか、あなた分かる?」

 守山さんは笑みを湛えながらこう言いました。私は少し泣きそうになりました。こんな時までこの人は〝試したがる〟のか、と……。
 答えることも出来ないでいる私を見て、守山さんは笑いながら全ての真実を私に打ち明けました。

 その内容は、私の想像をはるかに超えたある事実でした。

「あれは市場に出回っているただの電子辞書じゃないのよ。外側だけ市販品のフリをした別の機械。まずあれにはGPSが組み込まれているの。また、周囲の音声や電子辞書の近くにいる人間を撮影することも可能。スリープ状態になっていても電源が落ちない限りそれは行われる。
 つまり、あの機器の場所や状況は私には常に把握出来ていたということ。お手洗いに置かれていたから、遠野さんの少々ネジがとんだ供述内容も、あなたがどうすることも出来ずしまい込んだことも全て私は知っているのよ。ここまではOK?」

 ここまではOK? と言われてもさっぱり状況が理解出来ません。そんなとんでもない機器で私たちの状況が全て筒抜けだったらしい事は分かりましたが、なんのためにそんな機器を守山さんが持っていたか理解出来ません。

「それで、ここから先の真実を知りたかったら条件があるわ。
 ひとつは、これから知る内容を決して他に話さないこと。口約束じゃ信用出来ないから誓約書を書いてもらうわ。
 もうひとつは、いまの会社を辞めて今後この事務所であなたも働くこと。ちょうどアシスタントが欲しかったの」

 見たこともないニコニコとした表情で守山さんは言いました。続けてこう追加しました。

「もっとも、ヤマダさんに断ることは出来ないと思うわ。あなたの行為は刑法第252条『横領罪』になる可能性が高いから。
 あなたは遠野さんの行為に巻き込まれたとしか思っていないだろうけど、それを返さずに持ち続けたあなたも罪なのよ。
 もちろん遠野さんは窃盗罪になるけど、その遠野さんから託されたあなたは私の電子辞書だと知っていながらデスクにしまい込んだわね? それ横領罪の成立要件を満たすわよ、きっと」

 勝ち誇ったような守山さんの表情を見て私は慌てました。罪に問われるなど、地元の母が泣くに違いありません。ウサギはまさにライオンに喰われかかっておりました。

 「待ってください! ごめんなさい!
 そんなつもり本当になかったんです! 必ずどこかでこっそり返すつもりでした。まさか翌日から守山さんが来なくなるなんて思ってなかったんです」

 私は必死に謝りました。

「ええ、だから、さっきの二つの条件をのむなら、不問としてあげるわ。遠野さん共々よ。
 あ、電子辞書は返してもらうわよ。あれ、あなたが想像しているような値段ではとても弁済出来ない代物よ。
 いい? 分かりやすく復習するわね?」

 守山さんは自らの前に指を2本出しました。

「あなたの選べる道は2つ。
 1つは誓約書を出し私の下で働くこと。
 もう1つは、遠野さんと仲良く逮捕されること。もちろん、民事の損害賠償もセットよ」

 ニコニコと話す守山さんもといライオンに私は屈しました。私は前者を選択しました。いや、選択せざるを得ませんでした。
 私はすぐさま誓約書を書かされました。ブログを閉鎖あるいは非公開にすることと言った事項もそこにしっかりと含まれていました。

 私が誓約書を守山さんに渡すと彼女はとても満足げにその書類を見つめました。

「OK。では説明するわね。私が行っていたこと。そしてこれからあなたも担当すること。
 それは、ある貴人の子息たちのために優良な教材を作ること」

 そこからの話は少々私には理解できませんでしたが、搔い摘んで説明するとこういう事です。

 政治家や高級官僚の子息たちへの教育でもっとも難しいのが、倫理観やリーダシップの構築です。彼らはもともと優秀な場合が多いので知識の習得には苦労しません。一方で人間としての資質や器を培うのは簡単なことではありません。一番良いのは多くの人との対話や実務での経験です。
 しかし残念ながら一刻も早くキャリアを積みたい彼らに、OJTに長い時間を費やす余裕はありません。そのため考案されたのが、ある一定年齢に達した頃から行われる情操教育『リアル型ケーススタディ』。

 実際の職場内での人間関係を極秘に撮影・記録したものを教材とします。

——あなたがこの組織の上司として、チームの生産性を最大に引き出すならどのような声がけ・コミュニケーションを部下たちととるか。

 教材のVTRや音声を見せた後にこのような題目でディスカッションさせます。賢いうえに少し冷めたところもある子息たちなので、いわゆる役者が演じた〝作られた〟VTRは白けてやる気を起こさないが、私たちが「実録」系のテレビを面白く見るように、実際の人間のやりとりは何より興味深いので、集中して取り組むといいます。

 職場内に様々な録音機器やカメラを仕掛けその様子を撮影します。実際に教材化する際には、個人の顔はモザイクがかけられますが、音声はそのまま。プライバシーや様々な人権問題に抵触するため、この教材のことは対象となる職場でもたった1人の取締役までしか明かされません。またターゲットなる職場にはある省庁の官僚から極秘に通達が行われますが、省庁側もごく限られた人物までしか知りません。

 守山さんはなんと元はその官僚だったのです。ただ、当初このアイデアが実行された頃はなかなか教材として使い物になるVTRは撮れなかったといいます。

「だから私、辞職して会社を興したの。実際に職場に潜入して〝いかにもトラブルを起こしそうな〟人物を演じて、結果的に周囲の人間も巻き込んで教材に仕立てあげていくの」

 誇らしげに守山さんは言いました。

「今回の〝現場〟は最高だったわね。私のハラスメントに抵触しそうな物言いは台本通りだけど、それに対して起きたことが窃盗と横領って。最高の教材だとお褒めの言葉をいただいたわ」

 私は俯きながら話を聞いていましたが、この言葉には顔をあげました。

「最高なんですか? そんな……未来を支える子どもたちに大人の醜いところを見せることになるじゃないですか」

 私は全て撮影されていたことにもショックを受けましたが、それ以上に自分たちの行動が子どもたちに悪影響を与えてしまったのではと不安に駆られたのです。

「大丈夫よ。この教材を使う子たちは、これからもっともっとネガティブな事象にも対処していかなければならないんだもの。
 ヤマダさん、真面目に生きていればいつか報われるなんて嘘よ。
 生まれた環境・置かれた状況によって、残酷な人間の悪意に曝されながらどん底の人生を歩む人もいるのよ。
 私が提供する教材を学ぶ子たちは、いずれそういった人々の声にも傾聴しながら、それでいて社会全体を最適化しなきゃいけない。
 だからこの程度のことを収められなくて、リーダーシップは獲得できないわ」

「守山さん。なんで私なんですか? 別に私に秘密を明かさないでもっと適任をアシスタントに選べばいいじゃないですか……」

 話があらかた終わったタイミングで、私は力なくそれだけを言いました。すでに陽が沈みかけており、その西日を背に守山さんはこう言いました。

「そうねぇ……。あなた、けっこうルーズなところもあるし、自分に甘いし、確かに他にいくらでも優秀な人はいるわね。
 でも、だからこそ教材としては最適じゃない。
 ついでに言うと、私あなたとは仕事していてやりやすかったのよ。だってあなた、なんだかんだ言ってへこたれず私の言うこと聞いてくれてたじゃない」

 そう言うと守山さんは大笑いしました。私はまた守山さんと仕事をする人生に逆戻りした事実に心底落ち込みました。

 私はそれ以来、ずっと守山さんの下で働いてきました。潜入するよう指示され派遣された職場はもはや両手の指では収まりません。役柄は様々ですが、基本的には〝良い教材〟となるよう人を誘導します。

 この仕事は秘密であることが鉄則です。だから私も今までずっと守秘義務を守ってきました。
 親にはまだ前の職場で働いていることになっています。他人に話すことのできない仕事に日々虚しくなることもあります。
 考えたら守山さんは仲間が欲しかったのかもしれないと思う日もあります。

 私は守山さんを裏切ることになります。この記事を投稿し、私は失踪するからです。宝くじが当たったのです。

 さようなら、守山さん。あなたはとても刺激的な上司でした。


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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