酒、タバコ、砂糖との向き合い方
こんにちは@tateshina_lifeです。
今日は自分の限界まで突っ走ってみることについて、お酒やタバコは一定の効能(と、もちろんリスク)がある、ということについて書いてみようと思います。
僕は今でこそお酒を一滴も飲まず、タバコもやりませんが、若い頃は(とは言っても40歳代前半までの話ですが)どちらも猛烈にやっていました。
タバコでこそタール8mgを1日1箱程度でしたが、お酒に関しては毎日浴びるように飲んでいました。日本酒なら最低でも五合(一升瓶の半分)、焼酎でもロックで6, 7杯は普通に飲んでいました。
お酒に対する耐力は個人差があると思いますが、僕の場合で言うと、飲み屋からの帰りの1km弱の道を裸足で大声で歌いながら帰ったり、全然知らないお店で締めていたり(もちろん記憶にありません)、家に戻ってそのまま玄関で朝まで寝てしまったり、といった状態です。重度のアル中です。
中国に駐在していた当時、お客さんであった地方系国有企業の幹部たちに接待されて女性のいるカラオケバーで飲んだ際にもしこたま酔っ払い、他のお客さんもいる中でステージに勝手に上りマイクを取って、中国語で「お前らみんな幸せにしてやる!」的なことを朗々と演説したこともあります。
振り返ればその後最悪の事態に陥った可能性も想定されますが、幸いにして聞いていたお客さんたちはこれ以上ないくらいに盛り上がってくれました…。
さて、自分にとてお酒やタバコには良い点がありました。
理性の歯止めが緩むため、自分の感情が求める限界値に近いところまで行動することができます。シラフであればここでやめておこうとなるところを、徹底的にやれるわけです。スポーツでドーピングをすることと同じです。
感情を理性から解放した先にある自分の限界値を知ることで、社会と折り合いをつけることができます。エンジンの性能限界を測定し、スピードメーターや回転計をつけて、道路交通法を守りながら走ることができるように。
また、限界値にある世界は、自分の感情が本質的に求めていた世界の究極の姿として現れます。
僕が中国でカラオケバーのステージ上で見た光景は、僕が本質的に求めて渇望している光景そのものなのです。シラフに戻った今でも原体験として生き生きと思い出すことができますし、仕事やプライベートでもその世界を再現し続けています(もちろん制限速度を守りながら)。
問題は”戻ってこられるか”、体力がある内に、社会と折り合いが付けられている内に”ドーピング”をやめられるか、です。
脳に快楽物質を促す外部の刺激物質に対して身体は耐性をつけていきます。ですからお酒にせよタバコにせよだんだんと”効き目”が弱くなります。ドラッグと同じです。結果として簡単には感情の限界値に行けなくなります。
量を増やすことによって対応すれば、いずれ身体が破綻します。
喉がそれほど強くない僕は毎日のタバコの影響で酷い咳が出ました。昼間よりも夜、寝ている時により酷い咳が出ます。横でそれを聞かされる奥さんは全く寝られず、自律神経に悪影響が出るほどになったのを見て、明くる日、きっぱりとやめました。
お酒に関しては、当時始めたロードバイク(自転車)トレーニングに悪影響しかないという理由からやめました。
奥さんという僕にとって最も身近で大切な”社会”からの深刻な圧力があり、ロードバイクという身体にとって害悪が少ない自分の限界を知るための別の手段を見つけることができた、ということです。
幸運でした。
お酒やタバコをコミュニケーションのお供として嗜みにできる人はそれで良いと思います。一方で、僕のように”ドーピング”に用いる人にとっては享受できるメリットとリスクは紙一重なのです。
ですから勧めることもたしなめることもしません。
ドアの向こう側へ行って戻ってこられる人は幸運です。
日々、感謝です。
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