人生の意味 | 皆、不完全だからこそ味わえる
こんにちは@tateshina_lifeです。
今日は人間とはどういう存在で生きていることがどういう意味を持つのかについて、僕の現時点での考えを書いてみます。
このテーマはとても大きく、かつ僕の現時点での経験の集大成に基づく主観なので根拠のない支離滅裂なものあることは間違いありませんし、時とともに変わるかもしれません。そこはご容赦下さい。
僕は人生というものは人間にとって超越的な存在、もしくは仕組みによる”遊び”、”ゲーム”のようなものだと思っています。
超越的な存在、仕組みは”神”と呼ばれているかもしれませんので、今後はこの言葉で代用します。
神は万能で全てを経験しているため、感動することがありません。完全なものは不完全なものを経験できませんから、味わうこともできません。
一方で神は経験が味わい深いという知識と経験を持っていますから、それが味わい深いものであることを知っています。もう一度色々な経験をして味わってみたいと思うでしょう。
そこで神は人(や様々な動物や事象)をつくり、それぞれに味わうべき経験を定めて、別のフィールドとしての現世界に派遣します。定めた経験は使命と呼ばれているかもしれません。
使命を経験し味わうためには、万能であることはできませんし、それを経験したり既に知っていることはできません。ですから、現世界に派遣される際に神としての記憶や経験が全くない、ゼロの状態からスタートします。
人がその使命に気づくかどうかもその人次第です。神は現世界に使命に気づかせるような様々な仕掛けをあらかじめつくり、きっかけを与えます。
全てを受け入れる身体や心を持っていればそれらに気づくことができ、徐々に自分の使命、すなわち経験すべき体験やそれによって味わう感覚を得ることができていきます。
その時、ようやく人は自分の使命に気づき、自分が生きることの意味を知るのです。
人は神の分身ですから、もともと全てを持ち合わせています。一方で全てを忘れてしまったからこそ、体験を味わうことができるのです。不完全になることで感情を手に入れることができたのです。
人生でどれだけ不条理なことがあろうと、それは体験を感覚と身体で味わうというゲームの仕掛けに過ぎません。”ガチャ”という言葉がありますが、まさにその通りなのです。
親は選べないと言いますが、実際にはゲームの設定として選ばれたものなのです。その主体が全知全能の神であるのか、その分身としての自分なのかという議論をしても仕方がありません。
また、人はいつでも万能で全てを知る存在に戻ることができます。それは死と呼ばれているかもしれません。死を必要以上に畏れる必要はありません。
大切なのは、人に与えられた人生という名のゲームの中で、身体の感覚や心を開き、思いっきり味わうことなのです。そうやって自分の使命を存分に楽しむことなのです。
毎日、毎分、毎秒、あらゆる場所に使命を生きるヒントがあります。そのヒントに体当たりしていきましょう。それを味わうのです。
常に自分がゲームの主人公であることを忘れずにいてください。
全てが終わったら、皆で語り合いましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?