見出し画像

差別をなくそうとすればするほど全体主義に陥る矛盾

こんにちは@tateshina_lifeです。

今日は差別は課題ではなく現象であり、なくそうとすればするほど差別的になるということについて書いてみます。解決する対象は認知とコミュニケーションであるということも含めて、です。

TwitterやFacebook等のSNSで小学校で身長順に並ばせることが差別であるということについて書かれている記事を引用、シェアされる方が複数いらっしゃいました。

記事を書いた方は、背が低い人には少なからずコンプレックスがあるだろうと書いていましたが、僕にしてみればその視点そのものが無意識の差別です

背が低い人の中にはコンプレックスを感じる人もいることは確かでしょう。一方でそうではない人もいますし、前に並べることに優越感を抱く人もいるでしょう。反対に背が高いが故にコンプレックスを感じる人もいるでしょうし、もちろんそうではない人もいるはずです。

人間の個体に差があることは当たり前で、その差をなくすことはできません。個体差があることが個性に繋がり、それが生き物も含めた万物の面白さであることを否定する人はいないでしょう(反対は全てが規格に狂いなく動くロボットの世界です)。

この記事を書いた人は、その個体差についてある順序で並べた結果について彼・彼女自信の個としての解釈「背が低いということは劣っているということであり、それが整列することによって社会的に晒され否定的な感情を持つことになる」を、”全体に適用した”のです。

背が低いということを劣ったことと感じる人はもちろんいるでしょう。しかしそうではない人もいるのです。更に解釈する側にも個人差があります。

全ての個の差をそのまま放置すれば社会としての一定の秩序を維持することはできません(記事を書いた人も整列という秩序とは別の秩序を求める矛盾に陥っています)。

差別は解決すべき課題なのではありません。差があることを認めつつ、個と個の間で認知(解釈)と、それに基づいた適応的なコミュニケーションを行うしかないのです。多様性を認めるということです。

差別をなくそうとすれば全体主義に陥り、
差別主義者の方が多様性を認める

本質はこういうことです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?