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大和岩雄遺稿『日神信仰論』(4)終

 2021年にお亡くなりになった古代史研究家の大和おおわ岩雄さんの遺稿『日神信仰論』についてご紹介しています。


 古代日本では始原の神は男女二神のペアであり、太陽神の日神も日女神とペアであるのが本当の姿でした。また、天原あまのはらとは「横イメージの天」で、高天原たかまがはらの「縦イメージの天」は、持統天皇以降に『古事記』の中で作文されたというのが大和さんの説でした。

 人々は日の出、あるいは日の入りの時に日神を拝していました。日の出日没を見渡せる場所はよい場所とされていたようです。
 例えば『古事記』では、天孫降臨の地を「朝日のただ刺す国なり、夕日の日照る国なり、故、此の地はいと吉きところ」と書かれています。

 そのほかにも「朝日~」「夕日~」という表現はたくさんあります。
 例えば『古事記』の雄略天皇記で、「纏向まきむく日代ひしろの宮」を、「朝日の日照る宮、夕日の日がける宮」と書き、『延喜式』の龍田風神祭の祝詞で「吾宮あがみや」は、「朝日の日向かふ処、夕日の日隠る処」とあり、大和の丹生大明神の「告文」にも、「朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮」とあります。『皇大神宮儀式帳』では伊勢国を「朝日の来向ふ国、夕日の来向ふ国」と書いています。
 もっと時代を下って、民謡や神楽にも「朝日~」「夕日~」という詞が出てくるものがあります。

 一年の日の出、日の入りの中でも重要な日は「冬至」と「夏至」です。
 古代、人々は日中時間が一番短くて、最も南寄りの空から日が昇る冬至と、逆に日中時間が一番長く、最も北寄りの空から日が昇る夏至を観察して、一年の長さを知ったのでした。
 特に形の美しい山のピークや鞍部、一本松などの目立つ大木、空に突き出た岩などの目印から日が昇るところを観察できる場所を遥拝所(神社)にしました。

 また、月の満ち欠けをみて、「月立つきたちついたち)」「望月もちづきもち)」「月隠つきこもりつごもり)」に分けて、一か月としています。
 つまり、一日は「日読み」、一か月は「月読み」が日本古来の「コヨミ」で、自然観察から生まれた「自然歴」なのです。

 三世紀に陳寿が編集した『魏志倭人伝』には、倭人は「正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀と為す」と書いていますが、その時代の文字を持たない人々は太陽や月を観察し、種をまく日や収穫する日を決められれば十分だったのです。

 因みに中国思想の「正歳四節」の四節とは、立春・立夏・立秋・立冬のことで、立春・立秋には春分・秋分があり、立夏・立冬には夏至・冬至があります。
 中国から「暦」が輸入されると、日神祭祀にも立春・立秋の日の出・日没が取り入れられて、その朝日・夕日を遥拝する場所にも神社が作られるようにます。

 『万葉集』の柿本人麻呂の長歌に、「橿原の日知りの御代ゆ」とある「日知り」とは、神武天皇のことですが、「日知り=聖」の意で、「日領ひしり」とも書きます。日を知る(領る)ことは、中国の暦法を取り入れる以前から統治者の「マツリゴト」だったのです。

 鏡が輸入される前は銅鐸が日神をまつるための呪具だったと、大和さんは考えていたようです。
 銅鐸は後の時代になるほど大型化していき、形も楽器としては不適切な姿に変化していくことから、最初聴く祭器だったのが、次第に見る祭器に代わっていったという説が有力とされていますが、中国や韓国から出土する銅鐸に比べても、日本の銅鐸は最初期から大きく、また表面を装飾模様が薄れるほど磨いた跡があることから、大和さんは銅鐸は最初から「見る」要素を持っており、「見て聞く銅鐸」から「見るだけで聞かない銅鐸」へ変化していったほうが実情にあっているという岩永省三氏の説を採っています。

 つまり、ピカピカに磨いて日の光を反射させ、黄金色に輝かせてお祭りに使っていたのでしょう。

 島根県の加茂岩倉遺跡や、荒神谷遺跡からはたくさんの銅鐸や銅剣が発掘されていますが、両遺跡はそれぞれ冬至の日の出━━夏至の日没の位置関係にあるそうです。すると、銅剣、銅戈、銅矛などの武器型祭器も日神を祭るために使われたのでしょうか。
 それらは日神の依り代として、ピカピカに磨かれて地面に立てられ、日光を反射させて輝いていたことでしょう。
 銅鐸は撞賢木つきさかき━━神の依り代になる直立した榊につりさげられたのでしょうか。

 やがて鏡が輸入されると、銅鐸以上に光を反射させることから、祭具として銅鐸にとって代わったのかもしれませんね。


 『日神信仰論』のご紹介はこの辺にしたいと思います。もちろんこれがすべての内容ではありません。今回全く触れなかった内容もありますが、ご興味があればぜひ本を手に取ってお読みいただきたいと思います。


 ところで、「朝日」「夕日」で思い出したことがあります。『古事記』の仁徳天皇記にある「枯野という船」の話です。

 ?寸河(?は免という字の上の部分が刀。読み方は不明)の西に一つの高樹がありき。その樹の影、旦日あさひに當たれば淡路島におよび、夕日に當たれば高安山(大阪府中河内郡)を超えき。

 この樹を伐って「枯野」という船を作りました。非常に高速で走り、毎日朝夕、淡路島から冷たい清水を酌んで、天皇の飲料水として献上していました。
 やがて船が壊れたので、しおを焼くために燃やされましたが、焼け残った木で琴を作りました。その琴の音は七里先まで響いたのでした。

 枯野の樹はただの大木ではありません。朝日・夕日が作る影がとてつもなく遠くまで届くという表現は、大袈裟ですがこの樹がそれだけ特別な神々しい力を持っていると感じます。
 この樹はご神木という記述こそありませんが、船になり、灰の中から琴が生まれて美しい音を響かせるという話からも、何か神秘的な力強さを感じます。琴は神を降ろすときに用いられる楽器でもあります。
 枯野の樹も高木神(御柱)を思わせます。

 ここでふと、御柱が作り出す影が気になりました。太陽の光だけでなく日影も日神祭祀に何かしら役割があるのではないか。それが列柱で、冬至・夏至の日の入り・日没の方向に立っているとすれば、その影は一直線に重なります。
 …と、まぁ、そんなことを想像してみましたが、これは単なる思い付きです。


                               おわり

 

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