紳士のコスプレを脱いだ日
ハロウィンが近い。そういや、僕は随分と前に紳士のコスプレを脱いだ。
武闘派の英国紳士 ジェームズボンドに憧れを持っていた。
彼は、ウォッカ・マティーニを好んで飲む。あんな渋い男になりたかった。
マティーニはジンベースのお酒であるが、ジンをウォッカに代えたものが
ウォッカ・マティーニだ。ボンドマティーニが愛称。
初めてボンドマティーニを嗜んだのは、新卒1年目のある日。
部署の方々と、中華料理店に行き、紹興酒を楽しむ。
紹興酒は百薬の長だ、と都合よく解釈したくなるほど、飲んだ。
二次会はなかったが、まだ夜を楽しんでいたかった。
酔った勢いとは凄いものだ。
お腹も減っていないのにラーメンを食べるんだから。
その日は、BARに一人で行って、ボンドマティーニを飲むぞ。
と決意を固めた。
隠れ家に繋がる大人の階段を登る。
入店と着席。みんな静かに酒と空間を味わっている。
「この店は初めてですか?」とバーテンさんが話しかけてくれた。
「はい、近所なので一度行ってみたくて。色々、開拓中です。」
見えを張った。本当は、偶々さっき見つけたお店。
BARでの飲み方も何も知らない。何も知らないと思われたくない。
「今日は何にされますか?」
「ウォッカ・マティーニを、シェイクで。」
ボンドマティーニと初対面。口をつける。
度数の強さに目を丸くした。人間の胃は、とても繊細だ。何口飲めば、紹興酒が口からご挨拶してくるか、を上半身全体に電撃を走らせて知らせてくるのだ。
二口で放心。「お口に合わなかったでしょうか?」バーテンさんが問う。
正直に話した。一人BARとボンドに憧れて、オーダーしたこと。既に飲み過ぎていた事。度数を聞けば良かったこと。赤裸々に話した。バーテンさんが笑って聞いてくれていたのが、唯一の救いだ。
グラスにマティーニと無念な気持ちをたっぷり残して、家路に着く。
シラフで飲めば味わえるのではないかと、ある日、ふと思った。懲りない。
同じ店に入店。前回のバーテンさんもいらっしゃった。
「ウォッカ・マティーニを、シェイクで。」
彼が頷く。差し出されたのは、ウォッカ・マティーニとチーズ。
「サービスです。摘みながら飲むと、前みたいに悪酔いしないし、より一層美味しいですよ。ボンドさん。」
急ないじりにバツの悪そうな顔をしながら、「ありがとうございます。お酒も用量用法を守らなきゃ、ですね。」と返答した。
モッチェレラチーズはとてもまろやかで
すっきりしたマティーニと相性抜群。
二杯目のボンドマティーニは美味しかった。お酒が弾むと心も弾む。
自分に合うお酒など、初心者らしく色々聞いた。
その時は、渋い理想の紳士像が、頭の中から消えていた。知ったかぶりは辞めよう。カッコつけるより、純粋にその場を楽しめた方が幸福だ。と思った。
バーテンさんも素敵な人だ。一杯目で秘密を話すと、相槌で全てを抱擁してくれた。二杯目では、愛着とユーモアを持って、ボンドさんと呼び、また無邪気な僕の憧れへのチャレンジをチーズで応援してくれた。だから、ありのままで、楽しめた。
あのBARに入ることで、格好をつける為に見栄を張るような紳士のコスプレを脱ぐきっかけが出来た。何事も知らないものは、知らないのだ。
あの人こそが、本物の紳士だったのかも知れない。
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