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御礼だって社会へのアクション

  コンビニ店員の方のある投稿をXで見た。

  ありがとうございます。

  お客様の去り際のこの言葉が嬉しい。と。僕は口をニンマリさせた。記憶が正しければ、ありがとうございます。と言葉を発しているから。ただ思うに、大多数の方々は「ありがとう」を声に出すか、少なくとも黙って頭を下げていると思う。

  また、コンビニ店員の方が接客時に「ありがとうございました。」と言わない場合もあるそうだ。ブログで誰かが怒っていた。従業員としての自覚がない上に、人と人とが気持ちよく社会生活をおくっていくうえで、欠かすことのできない大切なものだ。けしからん。と。理解出来る。

ありがとうと言えない人は
ダメと決めつけていいのか?

そんなモヤモヤが生まれた。

独断で三つの側面で考えた。
散文乱文2千文字、恐縮です。


日米の店員の応対で考察する道徳の違い


  結論、日本は「均一化された道徳」が存在しており、その線から外れた行いが批判されやすい状況にあると僕は考えている。ありがとうの有無もその文脈から派生した議論であると思う。

  米国のコンビニでは、「Thank you」と言っても返答がない場合も大いにある。また、お金を支払った後に、店員は「You are good to go (お前、行っていいよ。)」とだけ呟いて、後ろの席にどかっと腰を下すケースも見られる。普通に無言もある。「お金を払っているから、当たり前。」「お金を貰っているから、当たり前。」は存在しない。極論、「やって当たり前のことなどない。その上でどう振る舞うか。」になるのだ。中には「Thank you」と返す店員もいる。米国人はこの振る舞いの違いに目くじらを立てるケースは少ない。

  教育や人類学の専門家ではないが、日本は同一人種が長らく生活している国なのだ。当然、長年に渡り、道徳教育も一貫され、親からの礼儀に対する躾も似通ったものがある。こういった特殊性が「道徳(正しさ)の均一化」を生み、また線から外れた行いに対して、人は何かを思ってしまうと考えている。

  米国は文化・国籍、何もかもが違う人達が集まっている。当然、考え方、道徳観に日本より一貫性はないように思う。ある種、この変えられない一貫性の無さによる諦めが、米国の懐の広さに通ずるのかも知れない。ありがとう、は当然の行いではないかも知れないと思えてきた。また、「日本は細かすぎるんだよ。」みたいな言葉をたまに聞く。日本人から。

  日本の文化が劣っているとは僕は思っていない。おもてなし産業が海外から注目され、円安の影響も受けて、日本への旅行者の数は年々増え続けている。僕は言いたい、「感じの良さって立派な武器だ。」と。その感じの良さは、日本が守り続けてきた「均一化された道徳観」であり、派生する「礼儀」によるものだ。一種、日本人が作り出してきた、美学のようなもの。だから、旅行者は日本で多大なるホスピタリティを受けた後、笑顔で成田空港を後にする。この守り続けてきた「道徳観」に窮屈さはあるが、立派な武器なのだ。

人は無意識に染み込んだ道徳で線引きする


  人は無意識に染み込んだ道徳で線を引く、と思う。均一化された道徳の線からはみ出た人間を見下すか、心の中で距離を取る。僕の小学校時代の話だ。一人の友達が、コンビニに入って、直ぐに出てきた。

  「万引きしてきた。」と彼は言って、10円ガムを手渡した。僕は黙ってガムを噛んでいた。「万引きなんてするな。」と言える度胸は僕にはなかった。ただ、「ヤベエ子だ。」と決めつけた、ガムを噛みながら、背中には寒気が走っていた。

  大人になって考えると、彼はきっと複雑な物を抱えていて、彼自身の問題というより環境が原因だ。と想像出来るが、当時の僕はそんな事は考えず、その後、距離を取るようになった。犯罪行為は看過できないが、無意識に線引きをするケースは他にもある。

  スケールの小さい話だと、店員に横柄に対応する人を見ると「ヤベエ奴だ。」と自然と思ってしまう。結局、瞬間的には自分が思う、正しさであり、「均一化された道徳観」の中で、判断を下している。

  ありがとうを言う言わない事は自由だ。均一化された道徳で判断するな。と言いたいわけではない。この僕が思う現状を踏まえて、自分がどう振る舞うかを考えていたかっただけだ。

じゃあ僕はどうしたいのか


  個人的には、これからどんな人生を送ろうが、自身が「ありがとう」を言える人間でいてほしいと、切に願っている。「ありがとう。」と言える事が、自身を肯定出来る、防波堤のような気がするから。

  万引きの話をした際に、彼の問題というより、囲む環境に原因があると、僕は言った。人は環境に左右される事を全否定することは出来ない。万引きをした彼、店員に横柄な態度をする人、ありがとうを言わない人、必ずそこには背景があり、環境が作った結果である。本人の自覚がない場合もある。

  だからこそ、無差別的に出来る限り、何かやってもらった際は、「ありがとう。」と言って、その環境に偶然的に関与していたいと思う。多くの人々のそういった関与が、影響を与え、何かが一歩ずつ変わっていく気がするから。「ありがとう」を発する難度は状況により変わるところはあるのだが。

   僕のエゴのように映るだろう。ただ、社会に必要だと考えている。日本の経済成長は停滞し、GDPのランキングも落ちゆく中、日本初のイノベーションが起こる可能性も全く未定だ。現状、経済の基準において落ちゆく大国において、残された価値は、こういった守り続けた「道徳」なのではないかと思う。無形資産だ。鎖国ではない、人種が交わろうと、引き継げるものではないかと思う。

  また、その特殊性から生まれたサービスや産業が、他国との差別化に繋がり、イノベーションの種にもなるかも知れない、と、青二才ながら思う。その「道徳」を守り広め引き継ぐ事に微力ながら加担していたい。

  大きな変化など起こらないだろう。ただ、「ありがとう」を言う事も自身が望む社会への一つのアクションであると僕は思う。

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