見出し画像

短編92.『滞納家賃』

 妻の父親はさも当たり前のことを言うが如く言い放った。頭を掻くが如く。呼吸するが如く。熟練の弓使いが矢を放つより簡単そうだった。

 その矢は「一度、手放したんだ。二回目は楽だろ?」という形をしていた。

「なんで一度手放したものをもう一度手放さなきゃならないんですか?」
 我ながら滑稽なほど必死だった。十五年前に、一度手放した音楽は是が非でも守り通さねばならない。再び音楽を始めて一年。離れ離れになる時はヘヴィメタル娘だった子は、戻ってきてみれば、ジャズとブルーズ香る良い女になっていた。それを扱うに私はまだ赤子同然だった。言いたいことを言いたいがままに話せるようになるのはまだまだ先のことだった。自分なりのトーン、自分なりのリズム、自分なりのインプロビゼーション。遅咲き故、そこに徹底的にこだわりたかった。

「生活の為だよ」僕の思考に義父の言葉が割り込んでくる。振り下ろされる大きめのナタのようだ。
 義父にとって【生活】というものは大きなウェイトを占めるらしい。特に結婚生活に於いては。義父にとって、というよりそれが世間一般の道理というものなのかもしれない。レールから外れ続けた人生はそれすら教えてくれなかった。

 室内を見回す。ソファ、本棚、調理器具が並んだキッチン。掃除の行き届いたカーペットに大きなテレビ。そして、家族写真。

 ーーーこれが【生活】か。

 と思った。圧倒されて眩暈を覚える。

「家賃もまともに払えていないそうじゃないか」義父のナタ。ナタ・オブ・義父。真面目な話の最中ほど、それが深刻で辛辣であればあるほど脳内でふざけてしまう。現実の相対化。悪い癖だ。

 そもそも何故、誰のものでもない地球に住んでいるというのに、家賃を払わねばならないのだろうか。ジャングルのゴリラは年幾らのバナナを納めているのだろう。誰に?

「娘はもう妊娠六か月なんだぞ。それをまだ働かせるつもりか。これから父になる覚悟というものが足りないんじゃないか?」
 義父の言うことは最もなことだと思う。しかし、パンダは「よし!俺はこれから父になるぞ」とでも覚悟を決めて交尾をするのだろうか。犬は?猫は?ムカデは?

「音楽は…辞めません」
 脳内にある言葉達を押し殺して出てきた台詞がこれだ。それでも、差し向かいに座った義父に対する言葉ではないことは重々承知。ただ、唇もこれで随分と譲歩したことは私には分かっている。よくやった、と褒めてやりたい気分だ。

「じゃあ代わりに何を差し出す?」
「週二のバイトをもう一日増やします」
「ふざけているのか?」冷製スープのようにひやりとするトーン。
 これでも充分、譲歩したつもりだった。自分の時間が削られるのは、命を石臼ですり潰されているような気分になる。それを一日も差し出すなんて。その一日があれば、新しいスケールを身につけることだって出来るかもしれない。

「君がこれからやるべきなのはだな」義父はナタを振るった。「正社員徒用のある会社の面接を受けることだ。三十越えた君に銀行員のようなまともな仕事があるとは思えない。だから警備員でもコンビニ店員でも何でも良い。とにかく保証のある正社員以外は認めない」

 義父の云う、”まともな仕事”からこぼれ落ちた”警備員”や”コンビニ店員”が不憫に思えた。今の私から見れば、毎日働いているだけでも立派に思える。

「これで話は終わりだ。さっさと帰ってくれ」
 私は席を立てなかった。
「何かまだ言いたいことでもあるのか?」

「お金…貸してくれませんか?」
 歴代の女たちから愛想を尽かされるのも無理はない。


#結婚生活 #借金 #義父 #最低な男 #ミュージシャン #音楽 #ジャズ #ブルース #小説 #短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?