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みんな「被害者」になりたがる

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「不謹慎」と「マナー」が氾濫するこの世の中。
Hello World.
ここは地獄です。

世界はより多様なものとなり、ネットを介した情報網は人々に様々な知識と充足感を与えた。
しかしそれは今まで知らなかった「不快な」世界をも知らせてしまったので
不快感を露わにしたい人は掲示板からブログ、今は各種SNSまで
ありとあらゆるネットツールを駆使しては苦痛に歪む自らの心を文章化して憂さ晴らしをしている。

それはある種健全なものだ。今までだって嫌なことがあれば「クソー!!」と叫ぶ人が街中にいるだろうし
個人的な好き嫌いの話なら吐き出したとしても他人に危害を加えるものではない。

しかし最近はどうにも個人的な「嫌い」の域を飛び越えているケースが多く見られるようになった。
まっとうな議論も含まれているのだが、個人の不快感情を大きな「社会的正しさ」に乗せて無理矢理にでも相手をねじ伏せようとする人が多く見られる。
社会的正しさでなくてもいい、個人的な不快感情が「妥当なもの」であると認められればそれでいい。相手が負けてくれるから。
そう思っているとしか考えられない光景がある。

ちょっとイラッとしたタイミングだったからか強めの言葉だが、おおよそ言いたいことはこのツイートの中にある。
なにか不快なものを目にしたとき、それを視界から外すだけでなく排除しようとする人がいる。
名目としては「虐待」だとか「性的搾取」だとか「権利の侵害」だとか「不謹慎」だとか「マナーに反する」だとかそういうものばかりだ。
そしてどれもとにかく主語が大きい。「私」ではなく「我々」を用いる傾向にある。
もちろんそれらの主張が妥当であれば改善などの対応を取るべきなのは当然だ。

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法にも触れずに、ただそこにあるだけの存在を難癖つけて攻撃、または排除しようとする行為を私はただの暴力行為としか思わない。
その場合、排除しようとした主体は「加害者」になると思う。
しかしこういった批判を繰り出す本人の主張は「私(または彼ら)は被害者なんです」というものだ。私達は人権侵害を受けてます。彼女らは性的搾取の対象とされているんです。といった具合に。
つまりただ攻撃しているのではなく、あくまでもこれは反撃である。というスタンスなのだ。

古い例えだが有名なので使わせてもらう。
かつてプロレスの中には「ミゼットプロレス」と呼ばれるものがあった。
低身長症の選手がプロレスを行うもので「小人プロレス」と呼ばれていた。
イベントでは女子プロレスを前座としてメインイベントがミゼットプロレスということもあったようだ。

しかしこれも「被害者の奪い合い」によって職を失うことになっていく。
一部権利団体、一般視聴者から「低身長症の人を笑う差別的な行いだ」として批判されたのだ。
被差別者はもちろん被害者でありその人権は保証されなければならない。
しかしことこの場においては、一体誰が被害者なのかわからない。
選手は「笑われているのではなく、笑わせているのだ」と自負を持っており、ミゼットプロレスにおいて被差別意識を持っている人はいなかった。

邪推でしかないが権利団体はシンプルに不快に思っただけだろう。
保護対象がステージの上に立ち笑われている姿が不憫に思ったのだろう。
そうなったとき、歪んだ正義感で動き出すと彼らは差別を持ち出して騒ぎ
「選手は差別の被害者なのだ」と焚き付けた。
結果は上々だ。テレビでは放送されなくなりミゼットプロレスは衰退していった(この批判だけが衰退の原因ではないが)。

あとになってから「彼らは差別だと焚き付けたが、その後のフォローはなかった」という事実から批判の矛先が権利団体へ向けられたが、答えは無言だった。
職を奪った「加害者」という立場を誰かになすりつけようとしたのだ。

昔からそうであるが昨今のTVCMの放送中止問題などからも「不快だと思わされた被害者」を名乗りコンテンツを排除しようとする人はいる。
非常に便利な方法なのだ。「被害者を名乗る」ということは。
奪い取った被害者特権を振りかざすと、それを批判するものは即時「加害者」扱いされるため手を出しにくい。
あとは「正当性が認められて」CMは放送されなくなる。
こんな甘い汁を吸えるのだ。ぜひとも被害者になって不快なものを視界から消し去りたくもなるだろう。

やんわりとした説明になったがツイートにも書いたように
被害者の奪い合い
加害者のなすりつけ合い
が多数発生している。

昔からこのようなことはあるのだが、ネットの普及によって手軽に批判を向けることができ、また前例を調べることも可能になった(叩き方が分かるようになった)。

被害者を名乗れば批判を浴びにくい。そして前例があれば
「あれが可能なら私も出来るだろう」
そうやって声を上げる人が増えてしまった。
「被害者の奪い合い」である。

また自らの行いで傷ついた人がいたときに
「正当な権利を勝ち取った結果だ」
「彼らは加害者だ。自業自得である」
「彼らはマナー違反(不謹慎な行動)をした」
といって加害的事実から逃げる。

自らを正当化し、自分は正しい行いをしたと居直る人も多い。
もちろんそうだろう。被害者を奪い合い加害者をこき下ろしてきた人間なのだから、自らが加害者に転じたときにどのような報復を受けるのかは想像がつく。
想像がつくからこそ逃げ回る。

不快だというシンプルな叫びは今やれっきとした言論的武器として成立してしまっている。
同調者がいれば批判対象をねじ伏せることが可能になる。
「マナー」はもはや「皆が気持ちよく生きるための不文律」ではなく「犯すと袋叩きにされるルール」と化した。

そして既に「マナー違反」は武器として成立する前例が出来上がってしまったために、誰しもが不快要素を見つけては「マナー違反」「不謹慎」「いかがなものか」「適切でない」と声を上げる世の中が出来上がった。
もはやこれは言論による戦争状態だ。
気に入らない者同士が徹底的に攻撃し合い、どちらかが折れるまでそれは続くだろう。

戦争状態の成れの果ては歴史の教科書にもあるように悲惨な結果しか招かない。
互いが疲弊し、場合によっては一度更地になってから再構築していくしかなくなる。
既に戦争状態は始まっている。

戦争が止まるのか、更地になるのか。
どうなるのか、どうすれば止まるのか、今は思いつかない。
個人的には更地になるパターンが最有力であると思う。
これから社会はお互いの不快センサーに引っかからないように怯えながら暮らすことになるだろう。

「もうやめようぜ」
なんて声があがったとして、恐らくはもう遅い段階まで来てしまっている。

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