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【語らずにいられない映画『ドライブ・マイ・カー』】


※映画『ドライブ・マイ・カー』のネタバレを含みます。


ドライブ・マイ・カー。
日本映画として初めてアカデミー作品賞にノミネートされたとのことで、TSUTAYAで DVDを借りて鑑賞。凄い映画だった。すごく深く、心に沁みる優しい映画だった。
だけどそれと同時に、大切な人を亡くしたこともなければ結婚も離婚もしたことのない一人の平凡な大学生の僕には上手く語ることのできない映画だとも思った。さらに僕は原作も未読であり、村上春樹さんの小説すら読んだことがない。
これからちょっとした感想を書こうと思うけど、こんな薄っぺらいわたくしがこの映画を語っても怒らないよ!って人は良ければ読んでみてください。


まず第一に、やっぱりこういう邦画って良いよなって思った。淡々とした会話劇に濃厚な人間ドラマ。下手な実写映画とかキュンキュンラブストーリーなんかは観てるこっちが恥ずかしくなるから観ないのであんまり詳しくはわからないけど、日本映画が世界で勝負するためにはこういうジャンルでなきゃだよなぁ、と改めて思い知らされた。
『ドライブ・マイ・カー』では「日本語」ならではの遠回しな言葉使いとか、一つ一つの言葉の丁寧さやもどかしさとか、そういう繊細な部分がすごく美しかったように思う。

それ以外にも、劇中でもキーとなる多言語演劇では、日本語、韓国語、北京語、さらに手話などたくさんの言語で役者たちがやりとりをしていて、最初はこのカオスな演劇についていけなかったのだが、相手の話す言葉がわからなくても、言葉以外の、何か言葉を超越した何かで役者たちが繋がって演劇が完成していく様が凄く良かった。
言葉がわからなくても通じ合う事ができるのに、同じ日本語で会話してても繋がれないこともある。
それもなんかもどかしくもあり、面白くもあるよなぁ。本当の意味で人と繋がれるのって、想像以上に難しいのかも。
この映画でも特に印象に残ったのが、岡田将生さん演じる高槻の

「本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く真っ直ぐに見つめるしかない」

というセリフ。
本作では高槻は未成年の女性とのスキャンダルで業界から干されていたり、隠れて写真を撮ってくる一般人を強い口調で問い詰めたりと、非常に人間味のあるキャラクターとして描かれている。そんな彼が何を偉そうに言ってるんだとも思ったが、そんな「空っぽ」な彼だからこそ言えた言葉なのかもしれない。
確かに高槻はこの映画の中でも最も自分に真っ直ぐな人間だったと思う。彼はこの言葉を家福に話すのと同時に、きっと自分の心にも同じように聞かせていたのだと思う。
最後に自分の罪を認め、正面から向き合うことができたように見えた彼が、この後長い長い期間、獄中で自分自身を深く真っ直ぐに見つめる時間を終えた後、空っぽの心が満たされる事を願うばかりです。




そしてもう一つ、この映画の個人的な印象として「冷たさ」と「温かさ」がバランスよく同居している映画だと感じた。

家福と妻の関係は表面だけ見ると愛し合っているように見えるけど、実際は本当の意味で心は繋がっておらず、妻の浮気を目撃してしまったあたりからは、2人のやり取りは冷たく見えてしまう。
家福の専属ドライバーのみさきと彼女の母親との関係も同様、みさきの語りでその関係を想像するしかないが、母親に「サチ」の人格が現れるとき以外は、冷え切った関係に見える。

家福「君は母を殺し、僕は妻を殺した」
みさき「はい」

この会話だけを聞くととても冷たく、そこに救いはないようにも思えてしまう。
それでも、家福とみさきが北海道への旅でお互いに自分の心を深く真っ直ぐに見つめ、「正しく傷つく」ことができた結果、北海道の冷たい雪が降る中で抱き合った2人の心はとても温かくなったのだと思う。


演劇『ワーニャ伯父さん』でもそう。
稽古の際の、棒読みで心を込めない本読みではとても冷たい会話に感じたが、実際の演劇では役者たちが演技を超えた「何か」を生み出してそこに温かい会話が生まれていた。
この演出法は濱口監督自身の演出法でもあるらしく、監督はインタビューでこう語ってました。↓

役者には、本読みの時は感情的な表現は抜いて、ひたすら平坦にテキストそのものを読み上げてもらいます。本読みをやることによって、役者は考えなくても、自動的に言葉が出てくるようになる。それだけで、撮影現場で安心できたり、集中できるようになるのではと考えています。
相手の役者が感情的なニュアンスを込めて話すのを撮影現場で初めて聞くので、本読みをしておくとそのニュアンスを感知しやすく、そこで起きる役者たちの相互反応の連鎖によって、演技が進んでいくようになります。

これについては素人の僕なんかでは全く理解も想像もできない領域の話だと思うので、俳優って凄いなぁ、演じることって凄いなぁ、とただただ感心していました。家福の言う「何か」って、どんなものなんだろうなぁ。

喪失からの心の再生、というのがこの映画の壮大なテーマだとも思うが、冷酷な言い方をしてみると、
「どんなに人生が辛かろうと、そこに答えが無かろうと、結局人はただ生きて、死ぬだけ」
と結論づける事も出来る。
でもその人生の中で、他者と向き合い、自分に向き合い続けることで初めて、人との繋がりを実感することができるし、ただ生きて死ぬだけの人生を充実させることができるのだと思う。

ラストの演劇でのソーニャの手話での語りは、登場人物それぞれのこれまでの苦しみを考え、またこれからの僕の人生のことを考えて、心に染み渡りました。

「仕方がないの。生きていくほかないの。
長い長い日々と長い夜を生き抜きましょう。
運命が与える試練にもじっと耐えて、安らぎがなくても、今も年をとってからも、他の人たちのために働きましょう。
そして最後の時がきたら大人しく死んでいきましょう。
そしてあの世で申し上げるの。
あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、辛かったって。
そうしたら神様は私たちを憐れんでくれるわ。」



うん。明日からも強く生きよう。
来年から僕も社会人で、お客さんにクレーム言われても、上司に怒られても、大人しく死ぬまで働きます。




最後にもう一つだけ!
この映画では「投げる」シーンも印象的だったと思います。
みさきが飛んできたフリスビーを投げ返すシーン、家福がみさきにライターを投げて渡すシーン、北海道で倒壊した実家にみさきが花を投げ込むシーン、どのシーンもとても綺麗で素敵だと思ったんですけど、無知な僕にはこれらのシーンに何か意味があるのか分かりませんでした。。。
もし何かこれらのシーンに解釈があるのだとしたら、自分なりにでも分かる人いたら是非教えてほしいです。


素人の駄文をここまで読んでくれた人いたらめちゃくちゃありがとうございます。映画ってやっぱ素晴らしいよね。

あゝ、くわばら、くわばら。

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