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プロフィール

こんにちは。TAROです。

初回の投稿で触れていたように、私がnoteを始めた理由は、「自分の考えを
定期的に文字に起こすことにより、思考整理の場及び自身を省みる機会を設ける
ことにしようと思った」
からです。

まだ私が何者であるのかをご紹介していなかったため、今日に至るまでの人生を
振り返る作業を通じ、プロフィールを作成していきたい
と思います。
全てのことを詳細に書き切ることは不可能であるため、人生のターニングポイントに焦点を当てることで段階的に確認していきます。私の記憶の密度によって、
かなり長くなる部分とそうでない部分に分かれますが、お付き合いください。

TAROの人生

1996年 誕生

東京生まれ。3750gと比較的大きな赤ん坊だった。母親の尾骶骨(お尻の骨)を
折って生まれたらしい。当時の写真を見ると頭が大きく、おでこも広かった
ことから、「宇宙人みたい」とよく言われる。
また、相当の泣き虫だったらしく、おしゃぶりを咥えさせると泣き止んだらしい。そのおしゃぶりの臭さは半端なかったとのことで、今でも何かある度に姉に
そのことを言われる...(笑)

当時の写真が多く残っていることから、両親が休みの日に様々な場所へ連れて
行ってくれたことが分かる。本当に感謝。

2001年〜2003年 幼稚園児

毎日が楽しかった。特に体を動かすことが大好きで、外で元気よく遊んでいた。
また、補助輪なしの自転車に一発で乗れるほど運動神経が良かった。
当時は習い事として、週一度地元のサッカースクールへ通っており、とても楽しかった。卒園後は他の区へ引っ越ししたため、仲の良い友達と離れることになった。

2003年〜2009年 小学生

体を動かすのが大好きだった。習い事として、小学校3年生まで空手を習っていたが毎週嫌嫌通っており、先生にこっぴどく叱られたことがきっかけで辞めた。
その後「男の子は何かスポーツをするべき」という親の考えの基、地元のサッカースクールへ体験に行った。とても楽しく、再びサッカーを習うことを決意する。

所属してからはすぐ頭角を現し、飛び級で4年生、5年生の高学年チームに混じり日々練習を行なっていた。しかし、プレーの失敗などで上級生から叱られることが怖く、練習をずる休みしたこともある(ものすごく罪悪感を感じていた)。そんな
自分を変えるために一人で練習を行ない、結果として、高学年に混じっても
怖気付かずにプレーできるようになった。これが当時の私がぶつかった一番大きな困難だった。

その後は地元のサッカーチームに加え、上手な子が多い他のサッカースクールへも通い始めたり(最終的には全部で4つのスクールに通っていた)、地区の代表に
選ばれたりするなど、サッカーへ情熱を注いだ。地区の代表となり気づいたことは、自分をアピールすることが得意でないということだった。それでも
トップチームのスタメンで試合に出場することが多かった。
また、Jリーグの下部組織の試験を3つほど受けたが、思うような結果が出ずに
終わった。

遊びでは、住宅の上から下に目掛けおしっこをする、いたずら電話をする、ガラスを割るなど散々悪さをした。隠していても後にやったことが全て発覚し、
こっぴどく叱られた覚えがある。

2009年〜2012年 中学生

人生で一番頑張っていた。地元の公立校へ入学したため、小学校からの友達が
多く、入部したサッカー部でも地元のチームメンバーが大半を占めていた。ここでも入部してすぐに頭角を現し、トップチームへ加わった。毎日練習で死ぬほど
走ったが、体が驚くほど順応していき、結果として体力がメキメキついた(1年生の頃に参加した区の連合陸上大会の1500m走で5位になった)。
また、中学1年生の冬頃に行われた、地区選抜選考で落選した。私自身落選する
とは思っておらず、とても悔しかった。

勉強面においては、中学に入り一生懸命するようになった。一番最初のテストは、28/200だった。
----------------------------------------------------------------------------中学2年生の頃にあった新人大会では、区大会→ブロック大会と勝ち進み、
サッカー部史上2回目の都大会へ(2回目出場以降、私たちの世代では都大会に出場できなかったことがなかった)進出した。試合で負けている時や拮抗状態にある
ときに、私が点を入れ試合の流れを変えていたことが多かったため、本番に強い
タイプ
だと今でも思っている。新人大会では、その後も優勝候補校に勝利する
(ジャイアントキリングといわれていた)など大躍進し、結果として決勝戦まで
行けた。そこでは完敗に終わったが、東京都2位という結果を残せたことや、
決勝の舞台に立てたことにとても満足した。

勉強面では、2年生の夏頃に友人と同じ塾に通い始め、友人の方ができていた事実が悔しく、加速度的に勉強へのやる気スイッチが入っていった。結果として校内のテストで1位を取るなど、少しずつ結果が出ていった。

また、友達と遊んでいたときに問題行動を起こし、後日校長室に呼び出され
叱られたこともあった。
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中学3年生になると、部活の顧問が変わり、練習の手を抜くメンバーが現れはじめた。さらに顧問と部員の意見が合わず、ぶつかり合うことが多かったため、良い
雰囲気ではなかった。それでも自分たちで日々練習し、再び都大会へ出場することができた。夏に行われた最後の都大会では、2回戦で敗れてしまい引退となったが、完全にやり切った思いがあるので後悔はない。

勉強面では、この頃になると校内テストで一桁台を取り続けることができた。
志望校が都立の上位校であったため、部活引退後は爆発的に情熱を注ぎ込み
勉強した。

冬になり、自分の偏差値が志望校へ届いていないという現実に直面した。入試まで僅かな時間があったので、ひとまず入試の1ヶ月ほど前に行われる推薦入試(内申点+小論文+面接)で第2志望校を受けることにし(第1志望校の推薦入試の倍率が
恐ろしいほど高かったため、より受かる確率の高い第2志望校を推薦受験)、その間に第1志望校への合格を目指し勉強した。

驚くべきことに、それほど期待していなかった推薦入試で受かってしまった。後日推薦入試の成績が開示され、小論文が44/100と恐ろしいほど低かったため、担任の先生に、「よくこれで受かったな」と言われた記憶がある。受かった理由は、
内申が42/45、面接の点数が122/130であったためだ。
第1志望校への憧れはあったものの入学することを決意し、突然の事態ではあったが、本来受けるはずであった都立入試の1ヶ月前に高校受験の勉強が終わった。

2012年〜2015年 高校生

もっと全力でやるべきだった。当時はあまり感じなかったのだが、ものすごく立地の良い場所に校舎があった。周りには大使館が存在し、外国人や品のある人が
多かったので、「世の中にはこんな人たちが存在するのか」と思った。
校舎はとても古く汚かったが、そんなことは全く気にならなかった。なぜなら、
生徒や先生のレベルが高く、人柄も本当に素晴らしく、毎日が刺激的だったからだ。

高校でもサッカー部に所属した。大都会にあるということで、グラウンド面積が
非常に狭く、良い環境ではなかった。また、弱小校だったので試合でも全く勝てず、地区予選初戦で敗退するようなチームであったが、サッカー好きが多く、
楽しく打ち込むことができた。

勉強面では、高校1年生までは中学の時と変わらない熱量でしていたため、
メキメキと成績が伸びた。模試で偏差値65を記録し、このまま勉強し続ければ
上位校を狙える学力であった。

当時仲の良かったクラスメートが、私の誕生日に小説をくれたことがきっかけで
本が好きになる
。(今でも本を読むことが好き。)
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高校2年生になり、文系・理系で分かれたのだが、私は理系を選択した。その理由は、理系→文系への転換は可能であるが、文系→理系は難しいという話を聞いた
から
という、ひどいものだった。それほど理数系の科目が得意でもなかったため、
物理や化学を学び始めたときには、かなり苦手意識を覚えた。そのようなことに
加え、以前よりも勉強をしなくなったこともあり、成績は見る見るうちに下がって
いった。

また、通っていた高校は国際教育に力を入れていたため、修学旅行では海外に行った。そこでは異文化交流ということで現地の学校を訪問し、同年代の学生と二人組を組まされた。もちろん会話は英語である。相手が何を話しているのか聞き取るのに必死であったし、喋る時も身振り手振りで伝えるように頑張った。ペアの男の子がたまたまサッカー好きであったため、その話題で盛り上がった記憶がある。
また、旅行先のホテルで問題行動を起こし、後日親が校長室に呼び出される
(自身は人生で2度目の校長室呼び出しを喰らう)ということになってしまったのも、今となっては笑い話である。本当にごめんなさい。
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高校3年生になり、文系に変更した。文系といっても、数学を受験教科で選択することにした。この理由が、サッカー部の顧問の先生(2人いた)が数学の担当であり、いつでも放課後などに気軽に聞きに行けると思ったからという、浅はかな考えだった。(この選択により、自分の受験が失敗に終わることなんて当時は知る由もなかった。)
本格的に勉強を始めたが、数学が足を引っ張るなど思うように成績が伸びず、
結果自分の志望していた大学に行くことができなかった。

数学が原因で志望校へ行けなっかったと述べたが、今思うとそれは違う。根本的な部分を突き詰めていくと、目標をしっかりと立てられていなかったことが原因であったと思う。そのため、勉強に対しての姿勢がかなり甘くなっていた。目標が大事だと思った背景には、中学生の頃のサッカーと勉強の頑張りがある。サッカーに
関しては、都大会優勝という目標を掲げ、日々の練習に打ち込んでいた。一方で
勉強に関しては、実際に志望校へ足を運ぶことで、生徒や学校の雰囲気などを
確かめ、ここに行きたいという思いをモチベーションにしていた。
しかし、高校生のあの時はそのような気持ちが皆無だった。「とりあえずどこでも
よいから有名大学に入って、就職に有利になるようにすればよいや」程度の気持ちでいた。そうではなく、自分が将来どうなりたいのかということを真剣に考え、
そのためには「〇〇大学の〇〇学部へ絶対に行く」くらいの強い意志を持っておく
必要があった。
楽しかった学校生活だったが、もっと明確な目標、強い意志を持ち全力で取り組むべきであったと思う。

2015年〜2019年 大学生

高校よりは頑張ったと思う。大学に入り、サークルに入った。入ったのは
フットサルサークルだったが、実態は飲み会がメインだった。そのような飲み会
中心の雰囲気に違和感を覚えたことに加え、気が合う友人が見つからないことが
理由ですぐに辞めた。

学校以外では、スーパーで品出しのアルバイトを始めた。だが、シフト制で融通が効かなかったことやサービス残業が多かったために嫌気が差し、半年ほどで
辞めた。

何となく大学生活を過ごしており、無駄に時間だけが過ぎていた状態だったため、「このままじゃまずい。変わらなければ。」という気持ちが湧き上がってきた。
そこで大学2年生からゼミナール活動(以下ゼミ活動)が始まるということで、
「自分が頑張れるのはここしかない」という思いから自分に合うゼミを探し歩いた。(結果としてこの時の考えが、後の自分を変えてくれることになった。)
その後、志望するゼミの選考に受かり(ゼミ選考は1年生のときに受けた)、入る前に行われた合宿で、自分の選択は間違っていないと感じた。
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大学2年生になり、ゼミ活動中心の日が続いた。週に1回の輪読とグループ単位での活動である。この2つの活動は並行して行われ、他にもゼミをより良くするための話し合いが設けられたりするなど、かなりコミットすることが求められた。
何か頑張ったと思えるものを残そうという強い気持ちがあったため、どんなに
忙しくても辛くてもがむしゃらに頑張った。結果としてそのような頑張りが周囲に認められ、ゼミ長となることができた。
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大学3年生の5月、バイトへ行く途中に出会い頭の交通事故に遭った。この事故との出会いが、今の会社と自分を巡り合わせることになった。事故当日、私は自転車に乗っており、相手が車であったため打ち所が悪ければ今この世に存在していない。頭を強打したためか、ぶつかる前の記憶と、倒れ込んでいるときに掛けられた「大丈夫ですか」という声しか記憶にないため、車と衝突した瞬間については
一切覚えていない。
すぐに救急車で病院へ運ばれ、右手の小指の根元が粉砕骨折しているだけで済んだ。まさに不幸中の幸いである。もしかしたら車に衝突した瞬間、人間の防衛本能で反射的に地面に手をつき、頭をぶつけないようにしたのかもしれない。

その後、人生で初めての全身麻酔の手術を受けた。(右手の中にボルトを埋め込む意外と大掛かりなものだった。)手術を受けた2日後には、ゼミ活動に参加していた。

そして丁度この頃、2019年卒の3年生向け就活サイトが6月から始まるということを知り、直近で事故に遭った経験があったことから〇〇業界(ご想像にお任せします笑)を中心に就職活動を始めていくことにした。骨折した手でエントリーシートを書いたこともあり、一枚書き上げるのに2時間以上かかった。

その後多くの企業のインターンシップに参加し、就職活動へのモチベーションを
上げていた
。そのように就職活動へ注力していた状態だったので、ゼミ活動が疎かになっていた。そのような私に対し、仲間が真正面からそのことを指摘してくれたおかげで、両立するためにより一層頑張ることができた。年末に行われる学部内の研究大会が3年生最後のビックイベントであり、それも無事に高い評価を得て年内のゼミ活動が終了した。

その後は自分の周りも一気に就活モードに突入した。1月から選考が始まっていた企業から3月1日に内定をもらえたため、少し気が楽な状態で就職活動本番を迎えることができた。
3月は1日に2〜3社毎日説明会に行ったため、非常に疲れた。
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大学4年生になった。4月からは面接ラッシュだった。インターンシップでの
選考経験と、1月から受けていた企業での面接経験から、面接に対する苦手意識は全くなかった。むしろ自分の頑張ってきたことを伝えたいという気持ちが
強かった。特にグループディスカッションが好きで、何十回と経験があったが一度も落ちたことがなかった。
少し天狗になっていたこの頃に、ある企業でボコボコにされ面接官の前で大泣き
した。ここで気持ちを改めた。

その後第1志望の企業のリクルーターと接触し、何回かの面接を経た後に早期で
内定を獲得。私の就職活動はここで終わった。

就職活動終了後は、卒業論文の執筆、資格の取得、卒業旅行、など様々な活動を
行い、単位を無事取り終え2019年3月に大学を卒業した。

2019年〜現在 社会人

ここからの詳細については、後日書き足していきます。

2020/01/25(土)TARO


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