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2018年1月に本読んで考えたこと

何か読んで何考えたか、いつもすぐ忘れてしまうのは僕だけなんだろうか。何かにつけ、皆よく覚えているなと思わされる。
それで、今年は本を読んで気になったことを極力書いて置こうと思う。興味の軸で目に見えるストックを増やしたらどうなるのかに興味がある。

(※ビジネス系の本 (に類すると自分の判断する本。マーケティング関係とか含めて) の事は書きません。理想は、だんだんと混ざって行くことだとは思っている。)

■アジア主義 ―その先の近代へ(中島岳志)

年末から年始にかけて読み終わった本。(前回の年末記事)
この「アジア主義」というものの流れが一通り洗えたのは、非常に良かった。本文内の竹内好の引用だが「滔天と天心の出会い損ない」という言葉にある「思想」と「行動」(心情)の それぞれの関係者や動きを追うことで、時代のダイナミズムから抜け落ちていた見えてくるエネルギーの動きがある。
これを読んで、あらためて今年は歴史というよりは(個別の)思想について追っていきたいと思うに至ったが、それでもその思想の背景、影響した歴史を捉えている必要は感じた。また同時に、日本を中心に考える根拠なく(根拠を天皇に求めたが、それ自体が実質的な理由として筋が通っていない)、自らを正当化する材料として使われたこの「アジア主義」のように、自分や時代を肯定するものとして使われる思想に対して、警戒心を持ち続けることも必要だと強く思った。

単に歴史を楽しみという点でも良い本だったと思う。孫文と日本とのあれえだけ深い関わり、因縁を僕は知らなかった。本文に南方熊楠とのイギリスでの邂逅を説明していたが、その後のそれぞれの進んだ独自の道を思うと、人生の扱いにくさというか、なんだか心打たれるものがあった。

それにしても、思想家たちは本当に似た言葉で、アジア主義の思想面を語っているな。

絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)
東洋的一(鈴木大拙)
東洋的不二(柳宗悦)
不二一元(岡倉天心)

そして、これらは現代の哲学の潮流と接続するのではないか、という不思議な確信がある。それでワクワクしてこんな本たちを読んでいるんだと思う。

アジア主義 ―その先の近代へ(中島岳志)

■善の研究(西田幾多郎)

これも実は年末から読んでいて。でも読んだというか、目を通したに近い。言葉が目を通って脳を滑って耳から抜けてった。多分もう100回くらい読まないと頭に入らない。見えてこない。身体に染みてこない。
今度、耳で聞く(オーディオブック)という試みもしてみようと思っている。

善の研究(西田幾多郎)

■福岡伸一、西田哲学を読む(池田善昭、福岡伸一)

善の研究で挫折して、何を読もうかと思って手を取ったのがこの本。そして、たしかに西田哲学が少しは見えてきた。面白い本だった。科学者の福岡伸一が自分の専門分野(生物)と西田哲学の共通点を池田善昭の説明の力を借りながら理解していくのは、非常に魅力的な思想、哲学の理解の仕方だった。

学者のせめぎ合いという意味でも楽しめた。特に「逆限定」という言葉について、福岡伸一が池田善昭を攻めるように、質問詰めしている場面や、その後の池田善昭の畳み掛けるようなメールは、何か人間味を感じて楽しい。逆限定という言葉もわかったように思えた。

明治大正昭和と、一気に近代化を進めた日本の近代の超克のあり方が、この西田哲学に全てあらわれているというのは性急だと思うけれど、逆に近代の超克ということ自体が、17世紀以降の世界の行き着く先として、19世紀後半からの約150年、日本に限らず、世界中で思考されて続けきたのではないか、という思いに至った。西欧で言えばハイデッガーがそうだろうし、やはり今流行にすら感じる思弁的実在論やメディオロジー的転回もその視点を無視できない。その際には単にデカルトまで遡るだけではなく、プラトンやアリストテレスまで遡った上で、その手前にあったイオニア自然哲学、つまりピュシスを考えなくてはならない。それはロゴス的(=矛盾なく物事を説明出来る価値)とは対局にあり、主観と客観が分化する前で哲学するべきだという、西田哲学の根本をなすものだと言えるのだろう。デカルトの「我思う故に我あり」はプラトン以降のロゴス的西欧合理主義の1つの大きな到達点であり(通過点でもあり)、世界を包んで自分の内側で見るという考え方。だが、西田哲学では自分を包む世界の存在(実在)を想定し、「包み、包まれる」(逆限定)関係性にこそ、本質的であると考えられている。
西田哲学の時間に対する理解がまた深遠だ。我々は時間を空間のように理解をしてしまうが、時間は空間のような性質ではない。「空間上でものをたたむと厚みが出てしまうが、時間は折りたたんでも厚みが出ず、同時的にものを畳み込むことが出来る」というのが、僕の個人的な理解なのだけど、合っているかはよくわからない。でも、時間のピュシス性というか、現在の中に過去だけでなく未来も抱合しているということは、感覚的には、なんとなく、わかったような、気はしている。 。

福岡伸一、西田哲学を読む(池田善昭、福岡伸一)

■哲学の自然(中沢新一、國分功一郎)

基本的には、ポスト311以降の脱原発に対する思想を、魅力的な2人が展開している本だ。図書館で2人の名前を目にして手に取ってみた。2013年初版の本。2018年1月現在、日本国内で原発は今4基稼働しており、世界では400基以上の稼働が認識されている、らしい。

原発の存在が、脱「贈与」という観点から語られているのが、とても興味深かった。
1954年、読売新聞は原子力平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」というタイトルで連載を開始。原子力は一種の太陽と呼べる存在だったのか。今ではそんな風に語られることは多くないと思う。太陽という地球に済む我々にとってエネルギーの根源たる存在を乗り越え、人間世界のマーケットの中で完結をさせようとした思想。太陽はいわば贈与の根源たるものだろう。それを否定し、社会の中で認識可能な交換によってそれを十分に補えると考えた。
贈与を去勢し、交換で満たそうとする欲求は何から出てくるのだろう。自分の中にもわずかにその息吹を感じる。不確定で決定不能な価値への恐れだろうか。視覚化厳格化したいという果てのない不安そのものが、権力者や資産家だけと仲が良いものとは言えないだろう。
何れにしても、それが、原発を作り、資本主義を発展させ、言葉から詩を殺した。合理主義の原動力にもなり、新自由主義の支えになった。
結局はここにもある種の近代の超克というのが、大きなテーマになり得ている。そうか、もう100年以上近代の超克は大きなテーマであり続けているのだ。心底、そう気がつけた。
近代にどこまでを含めるかは議論があるけれど、大きくは西洋合理主義と言って差し支えないだろう。同じことばかり書いてるな。。この辺は結局自分の今のテーマ性なのかもしれないが、同じようなことを言っている本を選んでいるのか、何を読んでも同じように読んでしまうメガネをかけているのか、気をつけたほうがいいのかもしれない。それこそカント的だ。

最後の章が、ここからもう一歩進んだ話題で、哲学をどう実践に活かすかという現実の問題(小平市の都道328号線建設問題)に対するコミットが生々しく語られていた。僕はこの本の5年後に生きているので、何がどうなったか知ってしまっている。この時以上に民主主義は揺らいで、そして歪みを露にしている。
ここで語られていた非敵対的矛盾というある種の「飲み込んで向き合い続ける」という姿勢や、里山に日本の民主主義のあり方を見出す話は、僕の身近でも何かつながらないだろうかと思う。日本だから見いだせるような自然との民主主義のあり方。具体的な自然との向き合い。逗子に越してから半年が過ぎ、その間に市の7億円の財源不足が露わになり、僕自身はそれを目にしながら、妻と子と森山海(人の名前みたいだ)を謳歌しているという個人史観の中で。
「ここがロードスだ、ここで翔べ」というマルクスの言葉も染みる。

中沢新一節絶好調という感じで笑って楽しめた。彼の自然哲学をもっと読み解きたい。國分功一郎は中動態に至る思考の目もあってなるほどと思えた。
あと、この2人は本当にイケメンだねと裏表紙を見ながら妻と話をした。

哲学の自然(中沢新一、國分功一郎)

■奇跡を考える(村上陽一郎)

前半の約100ページ近くは、自分がなぜこれを読んでるのか何度も振り返り、頭の中で確認しながら読んでいだ。17-18世紀頃にあったであろう、神から科学への信仰の変化を追いかけたい。人々の認識の変化の仕方を知りたい。本を手に取ったその想いを振り返りながら、東京地方の吹雪で早退中の1月22日の満員電車で読み進めた。奇跡というものを1つの材料にしながら、西洋社会(そしてその影響を受けた世界中)での科学の巧妙な 宗教(キリスト教)=神の座のすり替えがどのように行われたかを考察するる試みだった。

まずは奇跡とは何か、そして似て非なる魔術とは何なのか。それらの宗教や知識との歴史的な関わりを、プラトン前後から遡って語っていた。著者独自のルネサンスの位置付けなど、面白い部分も少なくなかった。理性に重きが置かれるまでの西洋世界の知の流れはぼんやりと見えた。

そして、後半が格別だった。スルスルと読めてしまった。そこでは有名なガリレオ裁判が1つのマイルストーンとして多く語られていた。
ガリレオのことを、勝手に僕は信念の科学者だと思っていた。自ら確証を強めた地動説について、宗教側の批判に負けずに、心で正しさを訴え続けた人。でも違うようだ。ガリレオ裁判は単なるカトリック内の対立だった。当のガリレオは権力者にへつらい、下品なほどの自己アピールの多いやつ、会社にいるとイヤなヤツだ。単純に言うと、一部の権力者の寵愛を受けながら、一部の人から妬み嫌われていたこと、それが大きな要因となった裁判であったということのようだ。
ただ、ガリレオの残した聖書と自然に対する視座は、この後の近代ヨーロッパの啓蒙主義者たちによって完成を目指される、神の座を科学への譲渡と人間の主観を軸とした地層のフォーマットを作ったとも言える。簡単に説明すると、ガリレオは神が残した2つの書物として、聖書と自然が存在していると考えた。聖書は神の言葉を人間の言葉で語ったものであり、自然は神の言葉を数学によって語ったものである。「神は数学という言葉で自然という書物を書いた」のだ。 ガリレオは人間によって多様に解釈可能な、言語によって揺れのある人間の言葉で書かれた聖書よりも、数学というブレのないもので神に書かれた自然の方が、より(カトリックおける)神の意向をそのまま表している、優位な存在になると説いた。
ガリレオの後の流れも整理してみる。上記の通り、神の名を借りて、聖書(人間の言葉)より自然(数学)が優先された。神の意図としての自然をそのまま解釈できる数学はデカルト的二元論の中でも十分に機能し、世界を運動と物質に還元させる。さらにデカルト的二元論が、人間の言葉も第一人称単数現在のみに集約されてしまう個人的な「こころ」の言葉で、多義的かつ象徴的で客観的な共有性は持ち得ない世界を規定してしまう。
その上で、人間の言葉に数学を優先するという世界にも、本来その上に鎮座していた全ての根源たる神の意図(神の言葉)が18世紀のフランス啓蒙主義者の主張した人間理性の至高性によって損なわれていく。文明という言葉が産まれ、自然、自然であることが野蛮で粗野なものであると考えられ始めた時代。数学で語りやすい、美しい方程式こそが清く正しく、それを生み出していく人間を世界の中心に添えた時代。
世界的な合理化および民主化の中で、自然の自然さも自然そのものも損なわれていく。自然は支配すべきものであり、美しき数による整理があらゆる分野に侵食。人の導く客観的な数学=科学こそが人の存在する世界を規定する前提となっていき、我々の認識を規定する。大きな認識論的転回が貫徹されていく。ハイデガーの言う自然を有用性のみによって用立てする構造が肯定される。

科学がいかに宗教を代替していたか、と言う元々の興味の入り口は ひとまず理解できたとは言える。しかしまだ、もう少しの補助線がなければ全体を貫くような自分の中でのマッピングはできてない感じがある。何かひとつの線や絵になるような繋がる瞬間を 僕は待っている。それが学ぶ楽しさである信じる。

そして、著者は人間の言葉や数学で受け取れられないある種の超越に触れ、それを感じること、そしてそれを信じて、語ろうとすること自体が奇跡でないか、それを理解するための大きなテーマは「時間」になるのではないかと投げかけて本論を閉じている。
彼は直接は言っていなかったが、そのうちの1つが詩や絵画などの芸術によって語られていくことなのではないかと思う。

短い本だったので、読み終わってみるとサクッと知的好奇心を満たすにもおすすめの本だったと思う。

奇跡を考える(村上陽一郎)

■道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ(フランソワ・ジュリアン)

図書館で見つけて手に取った。でも100ページ位で読むのをやめた。

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ(フランソワ・ジュリアン)

以上、バカみたいな感想だけど、ダダダーと書いたなあという感じ。主に移動中にスマートフォンで書いた。音声入力も試してみた。メモには便利と思った。来月はこんなに文量書けない気がする。
それにしても、マルクス・ガブリエルが売れまくってるというのは、近い興味意識の人がたくさんいるということなのかな。心強いような気がした。僕もはやく読みたい。

今月の色々なニュースを見ながら、分からなさや曖昧さを放り出すことなく向き合い続けられる体力も、哲学的知力であり、リテラシーであるんじゃないかと思えた。解くべき(知るべき)課題を特定するとは、また少し違う能力だ。後者のほうが基本的にはビジネスでは役立つと思う。

自らの現時点から手繰り寄せられる未来に希望が見出だせなくなった時に、過去への過度な期待と承認をねだってしまうものなのだろうか。
関心を集めるための多彩な手段というのは、何も生物に限ったことではないのではないか。例えばモノとか概念とか。関心を集めるための手段としてのSOSの裏にある意図に気が付きたい。
仮にもし今、過去の日本思想からの呼び声を自分が小さくも得ているとしたらその本意は何なんだろうかという問いだとか。
未来は今も意外な驚きに満ちていてくれ。

(すべて敬称略)

と、ここまで1/31の帰宅電車で書ききった。その夜、驚くべき悲しいことがあり、、なんだろうな、あんな(上のように)カッコつけたとて、何にもないなと思った。
でもよい葬儀だった。
何もないからと言って、止めることはない。
だけど、やっぱり僕はなんというか謙虚さというか、敬虔さのようなものを、靴底に剥がれないように強くへばり付けておきたいと思った。
2月よ、よろしく頼むよ。

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