『坂道と転び方』 -3- 些細で深刻な生涯を縛る傷跡 (3/4章) / 小説 【#創作大賞2024】 《完結》
-3-「些細で深刻な生涯を縛る傷跡」
四月に入るとなぜか気持ちが浮き足立つものだ。年度末の終わりは働いていても、学校にいても環境が大きく変化を見せる時期でもある。浮き足立つのも仕方がない。
働いていない僕も同じで、階段を降りると朝だというのに揚げ物の匂いがキッチンから流れてくる。
「おはよー。もうすぐで今日のお弁当出来るから。岬ちゃんのリハビリは順調?」
母がエプロン姿の前で菜箸を右手に持ったまま言った。最初は夕飯の残りだった岬への差し入れは日増しに増え、今では朝から母はお弁当を作る光景も当たり前になった。
まるで高校時代みたいだと、僕はテーブルで新聞を広げる父を見る。
「なぁ母さん。お弁当作りに力を入れるのはいいんだけど、そのなんだ。父さんの食事がだんだん質素になっていないか?」
父がテーブルの上に視線を落とすと小皿にお弁当の残りが並べられている。僕の席にも同じ小皿が並べられていた。母は腰に手を当て鼻を鳴らす。
「お料理をしない人に何を言われても聞こえません。女だけが料理を作る時代なんてもうとっくに終わってるんだからね。今日もたくさん作ったから岬ちゃんと一緒に食べるんだよ」
「なんだか子供に戻ったみたいな。遠足に行くみたいなお弁当だ。岬は喜んでいるよ。いつか恩返しをしなきゃって言ってる」
「あらやだ。嬉しい! でも恩返しが目的じゃなくて、なんていうかもう母さんの生きがい? お料理が好きだったって、お弁当を作るようになってやっと思い出したわ。喜んでくれて感想までくれるし」
ねぇ。と母は父に視線を向けて、父は新聞で顔を隠す。揚げ物の音がおさまり始め母は鍋に向き直る。母の姿を確認して父は新聞を下ろし僕を見た。
「髪が伸びたな。また昔みたいに岬ちゃんに切ってもらったらどうだ? 父さんも切ってほしいものだよ」
おでこが頭のてっぺんまで到達する前にね。と母の声がして父は頭を撫でる。変わらないようで少しずつみんな歳を取っていくんだな。と僕は笑みを含む。
退職してから髪を切ってないからな。とさらに伸びた前髪に触れる。でも岬の過去を、美容室で転倒した話を聞いてしまうと思っていても言い出せなかった。
転倒から立ち上がる。転ぶということは道端でつまずくだけではない。
臨床で働いていた時よりもずっと、重たいと感じる。立ち上がり方がわからなくなってしまう。
食事をとり、僕が身支度を整える間に母は大きなプラスチックの容器を紙袋に入れた。
「それで? そろそろ岬ちゃんの家に行くの? お弁当忘れちゃ嫌だよ」
「ううん。今日はちょっと寄るところがあるから。車を使うよ」
別にいいけど? と母は目線を天井に伸ばした後、うん。と僕を見てうなずく。
「礼子さんがまたふたりでお見舞いに来なさいって。ふたりが来ないと元気に歩けないからって担当の理学療法士さんを困らせてるのよ? すっかり元気になったしまって・・・目を離すとすぐにどっかいっちゃうくらいに元気なんだから」
僕は弥生や病棟スタッフの制止を聞かず、自由気ままに過ごす礼子の姿を思い浮かべた。歩行器を使って歩く姿を見ていると、だからと言って転けそうには思えなかったけど、転倒するリスクは誰にだってある。僕だって岬だって同じだったのだから。
家を出るとまだ少し肌寒い風と、風とはちぐはぐに暖かな太陽が、僕の薄手の白いパーカーを照らした。
僕は家からしばらく車を走らせて、目的の場所までたどり着く。
『株式会社 新井製作所』
長い鉄板に太いフォントで書かれた看板は、無骨でどこか荒々しい。
真四角に建てられた工房には縦長の窓が並び、中は見えないけれど昼間なのに蛍光灯の明かりが漏れていた。正面玄関に立つと自動ドアが左右に開き、なんとも言えない匂いが広がる。石膏や温度を上げたプラスチックに香りだと気がつくまでしばらくかかった。
受付に立つ女性に用件を伝え、並べられた椅子でしばらく待つとガタガタと騒々しく奥の扉が開いた。開かれた重い扉の向こうで知之が、おぉ! と右手を上げた。
病院で見るいつものスーツとは違い、暑い藍色のエプロンは所々が石膏で汚れている。
エプロンから伸びる青い作業服はぴったりと知之の体に張り付いていた。
スーツよりも似合っているな。と僕も右手を挙げる。
岬のリハビリを進めながら僕は知之に連絡を取っていた。きっと彼の力が必要になるだろうから。
すると知之は工房を見学に来いやと電話口で言った。本当に良いのだろうかと悩んだが、やはり来て良かったと思う。まだ病院で働いている間にきたら良かったな。と、ちょっとだけ後悔もした。
「忙しいところに悪かったな」
ええんや! と知之は立ち上がった僕の肩をたたく。爪先で石膏が固まっていた。
「この新井製作所はいつでも見学さんは大歓迎やで。まぁ個人情報もあるかもしれんからそこんとこだけは注意な」
わかっているよと伝えると、こっちや! と知之は歩き出し僕も後ろに続く。受付に響き渡る声にデスク座る女性がクスクスと笑っていた。
なんとなく職場で働く知之の人となりがわかった。
鉄の扉が開かれると石膏や形容し難い薬品の匂いに包まれる。工房は見た目以上に広く、四角形の大きなテーブルが点々と並び、壁際には成形や形状を確かめるために用いる金属の器具が並ぶ。
機材の合間を五、六人の義肢装具士が忙しなく動き回っていた。男性の比率は多かったけど、空気感はリハビリ室と似ている。僕が言葉を失っていると知之は胸を張り、どや? と僕を見た。
「すごいやろ? 教科書で見るんと、実際に見るんとでは全然ちゃうやろ? 工房は二階にもあんねんで?」
「うん。すごい。ほら病院で見る時にはいつもスーツで、ビジネスパーソンって感じだろ? でもここにいる義肢装具士さんはみんな、職人って感じがする。知之も作業服の方が似合うな」
「せやろ? まぁまぁあっちに座って話そうか? 短下肢装具の依頼やろ? 電話でもええとは思ったけど、やっぱそこらへんは療法士さんと話したいしな。依頼者さんは来られへんかったん?」
ちょっと都合が悪くてね。僕が言うと何かを察したのか知之は、残念やな。とだけ言った。
通された場所は窓際にあり、こぢんまりとした場所だった。黒い革張りのソファーがガラスで作られた机の両脇にある。乱雑にカタログや書籍が並べられており、畳まれた毛羽立つ茶色の毛布が横に畳まれていた。
「まぁまぁ。遠慮せんとな。これ貰っとき」
手渡されたお茶のペットボトルはよく冷えていた。知之は僕にペットボトルを手渡しながらカタログをまとめている。
「ともゆきぃ! ちゃんとアライメント見たんかぁ! どないなっとんねんな!」
突然、野太い声が工房中に響き、知之はソファー越しに声の主へと振り向く。
「うっさいわぁ! 来客対応中や! すまんな。所長の新井さんや。ほんまに名前の通りに荒いお人やけど、手先はめっちゃ繊細やねんで? 若い子に向けたデザインとかも手がける化けもんや。もっかい言うで? ええ意味で化けもん」
所長の名前は酔った知之から聞いたことがあった。新人の頃からしごかれた泣き言ばかりだったけど、言葉からは知之が新井所長を尊敬していることもわかる。
僕は僅かな時間で新井製作所が好きになっていた。よく見ると作業台の上には僕の知る短下肢装具とは違うデザインの装具が並べられていた。色のないベージュのデザインではなく、可愛らしい水玉や、よく磨かれたブーツのようなデザイン。流線型の模様が描かれる近未来的なデザインすらある。
「どや? すごいやろ? ここまでデザインするのはほとんどがサービスになってしまうんは、現代社会のあかんところやな。それでも履きたいと思えるデザインは重要と思えんねん。装具は既製品でなくてオーダーメイドで作られるんやから。全部が全部、利益につながれへんくても職人としてプライドを持たなあかん。この手で生み出す装具や義足はいずれ人の足になるんやから。・・・まぁ。受け売りやけどな」
へへ。と知之は破顔して僕はこの製作所なら安心して任せられると思った。
「そんで今日はどんな相談なんや?」
僕は頭の中で話をまとめる。岬が家から出るのはどうしても装具が必要だった。加えて岬の希望を叶えるとなると、信頼でき、事情を知る知之の力がどうしても必要だ。
それは岬とのリハビリを始めて数日が経った時だった。
「なんで歩く練習の前にこうやって、ぎゅっと足を伸ばされなきゃいけないの?」
前から思ってた。と岬はベッドで仰向けになりながら言った。僕は岬に左の足裏に腕の腹を当てる。そして踵を握り込みながら右手を支点にして、岬の足を反らせるようにストレッチする。
硬い足首は体重をかけるとわずかに伸びる。関節の硬さにもいくつか種類がある。関節の周囲にある靭帯や筋肉が長さを短くしたまま硬くなること、骨自体が硬くなることもある。拘縮と呼ばれる関節の硬さ。一度硬くなると再びもとの動きを得るまでに長い時間がかかる。もとに戻らないこともある。
「まぁいろんな人のやり方はあるけど。僕にとって動作練習前のストレッチは準備運動だよ。スポーツをする時だって柔軟はある程度するだろう? パフォーマンスを下げない程度に。硬い筋肉は動きを妨げて時には怪我につながる。と言われている。岬の場合は硬い足を少しでも伸ばして運動を行う。先にストレッチすることで怪我も予防できるし、関節を伸ばした状態での動きが練習できる。まぁ動作練習を行いながら関節も伸ばせるし、一石二鳥」
「わかるようでわからないなぁ」
岬は両手を枕にして天井を眺めている。ベッドは柔らかくて普段リハビリを行うベッドと比べて頼りない。まだ体が覚えている一連の動きに思考を任せる。
時間に縛られることがない岬とのリハビリはゆっくりと進む。
深夜まで動画編集の作業を続ける岬はあくびをかみ殺していた。
「それでさ。私の足はどれくらい曲がれば歩けるようになるの? 今でも歩けるけど、交互に足を踏み出して、私が望む歩き方で、坂道を下れるまでは?」
「通常、足首を反らした角度、背屈角度という言葉で表現される。足首の参考可動域は二十度。足首をフラットにした状態から脛の方に反らす角度だね」
「正常角度ではなくて、参考可動域なんだね。正常なんて言われなくてよかったよ」
「多くの人に差はあるからね。少しずつ参考にする可動域に向けて足を伸ばしていくよ」
はいはい。と岬は目を閉じる。膝の角度を変えつつ伸ばす。それでも岬の足首は硬い。
現在の可動域はマイナス十度。可動域を測定する最初のポジション。0度にはまだまだ到達しない。最初始めた時にはマイナス二十度だったのだから、前には進んでいる。
季節が流れていく同じ速度で足首は参考可動域へと近づいていた。ただずっとリハビリをしても岬は自分で動かすことは難しい。
可動域がいくら確保できても、足首を動かす筋肉を支配する神経が機能を失っているのだから。
岬が首を上げて僕を見て、眉にかかる前髪をはらった。
「あのさ。言いわけじゃないけど、自分でもストレッチはしてたんだよ? でも自分の力ではそこまで曲げきれなかった。体が止めようとする。足が意識を持っているみたいに」
「知ってるよ。だから完全に固まりきっていないんだ。それに膝周りにもしっかり筋肉は保たれている。でも同じ療法士が怪我をした時でも、自分では曲げようとしても曲がらなかったり、体重をかけようとしても自分ひとりではなかなか難しかったりする。人間には意識的な部分と無意識的な部分。随意的、不随意的と表現されるけど、人の無意識な部分が邪魔するんだと思う」
「すべて自分の思い通りに行かないなんて、人間って本当に面倒くさいよね」
おっしゃる通り。と僕が岬の足から手を離すと、身を起こした岬はベッドの端へと座る。よし。と両手を膝に当てた。
「ここからが本番ってわけだね。いやぁ。普段通りには感じないけど、こうやって久しぶりに筋トレや歩くための練習をすると、ここまで体力が落ちてたんだって不安になるよ」
「だから今では手術をした次の日でもすぐにリハビリだよ。岬も同じだったんじゃないの?」
「だね。恐ろしかったよ。傷はまだ治りきっていないのに、左足を浮かせながら立てというのだから、療法士とは恐ろしい」
笑いながら足先へと視線を落とす岬から、僕は目を背ける。そして岬の正面に立ち両手をとった。岬はおとなしく僕に従う。細く白い腕は僕の腕と重なり、折れそうなくらいに細く長い指が二の腕を掴む。
「ゆっくりとやってくれよ? まだ左足に体重をかけることは怖いんだ。転ぶことがまだ怖い」
わかっていると僕はゆっくりと呼吸を合わせて岬を引き上げる。麻痺した足に体重をかけることは怖い。体と感情が危険だと理解しているためだ。
だから気がつくと動かない足を引きずるように歩いてしまう。どんなに気をつけていてもだ。
リハビリ室には平行棒と呼ばれる器具がある。太い二本の鉄柱が横倒しに腰のあたりで固定され、最初は平行棒を使用して腕の力を借りながら立ち上がる。もしくは歩くために必要な練習を行う。前に進む。
岬は右足に体重をかけながら立ち上がり、ゆっくりと体をかたむけながら左足へと体重を寄せる。二の腕を掴む岬の腕に力が入る。左足へと体重がかかるにつれて岬の体はまっすぐになった。
額に汗をかいている。眉間にシワを寄せ恐怖に耐えていた。
足先と膝の向きが揃っているのを確認して、一緒に膝を曲げて伸ばす。それでも両膝を一緒に曲げようとしても、曲がる角度に合わせて岬は右にかたむく。
「やっぱ。足が固いな。体重を乗せようとしても乗せられない」
「大丈夫。無理に乗せようとしなくてもいいよ。踵を地面に降ろすように息を吐いて。力を抜く」
「簡単に言うなぁ。あたた。腰にくる!」
岬はストンとベッドに腰を下ろして額の汗をぬぐった。ふぅ。と息を吐いて天井を仰ぐ。
「うまくいかないなぁ。誠也さんの腕を持ってしてもダメですか」
「神さまではないからね。リハビリは少しずつ進むんだから。そしてやっぱり、坂を下るには装具が必要になると思う」
「短下肢装具のことか。あれ・・・私は苦手なんだよね。悪く思わないでくれ。分厚くてさ。色も私には合わないし、靴を選ぶ必要もあるよね? どちらにしても今となっては、サイズと角度が合わなくて履けないけど」
「なら最初に作る時に相談するべきだったかもしれないね。今はとても種類があるから」
「それがねぇ。ほら私は何もわかんないじゃん? リハビリのこと。言われるままに作るしかなかったんだよ。反論の余地なしってわけ」
私は素直な患者さんだったからね。と岬は舌を出しながら微笑み、おどける表情に臆病さが見え隠れしていた。
「だったら、なおさら作り直さなきゃいけないね。浜崎先生もいつでも作り直していいって言ってくれたわけだし」
腕を組んで立つ僕を岬は頬杖を付きながら見上げた。そして頬をほころばせる。三日月のように広がった薄い唇。表情はいつもより幼くいたずらを仕掛ける前のような表情だ。
「ならさ。今度はたくさんワガママ言わせて貰おうかな。相手は誠也だし大丈夫だよね」
「できる範囲なら。知り合いにも気の良い義肢装具士がいるんだよ。知之っていうツンツン頭で関西弁の・・・」
あー知ってる! と岬は目を丸めて声を上げた。
「私の装具を作ってくれた人だね。懐かしい。放っておいても元気だろうけど、よろしく伝えといて。ついでに代わりに謝っててよ。やっぱり申しわけなさはあるからさ」
「わかった。それで、岬はどんな装具が作りたいの?」
「うん。装具をつけたら思わず外出したくなるような短下肢装具。赤いドレスに似合って、色は黒がいいかな? 目立たなくてヒールも履けて、そして坂道を下るの。私を閉じ込めている呪いの坂道。できるかな?」
難題だな。と僕が腕を組むと岬は嬉しそうに笑っている。
「誠也が上部だけでも、私のためを思って真剣に考え込んでくれている。なんだか気持ちがいいな」
本心だよ。と僕が返すと、じゃぁもうひと頑張り! と岬は両手を伸ばす。しっかりと掴まれる僕の腕に岬の指が震えながら食い込んでいた。
僕が話し終わると知之はお茶のペットボトルを握ったまま黙っていた。やはり難しかったかと腕を組んでいると、あんなぁ。と知之は頬を弛緩させたまま口を開く。
「・・・なんや。黙って聞いていればノロケ話しにきたんか? 工房で親方に怒鳴られる俺に、ウキウキ素敵ライフを自慢しに来たんか?」
「ちがうちがう。知之に頼みたいのは赤いドレスでヒールも履ける。岬が外に出たくなるような短下肢装具ってこと」
そうかぁ。と知之は口元に手を当て視線をテーブルに落とす。しかしテーブルを見ているわけではない。真剣な、自分の思考と対話している時の表情だ。
普段の態度からは想像できないが、知之はとても腕が良い。何度も一緒に装具を作り、患者のリハビリを行ってきたから、僕は知之の腕前を心から信頼している。
おもろいな。と知之は首を伸ばして首を上げた。
「そんで・・・今はどんな感じなんや? 岬さんの機能面は昔しか知らん」
「うん。身長は百五十八センチメートル、痩せ型の体重で体重は教えてくれなかった」
病院と違うから当たり前や! と知之は呆れて口を半分開く。
「そして左下肢は、膝関節の可動域に問題なし。筋力も保たれている。だけど足関節は背屈がマイナス十度、尖足はもっと改善すると思う。ただ背屈の筋力は徒手筋力テストではゼロ。筋肉の収縮は見られていないね。底屈はできるけど下腿三頭筋の萎縮は高度に進んでいる」
「家では病院みたいに歩かれへんかったんやな。そのようすやったら前に作った装具は、家では使ってもらえへんかったか」
「それは・・・いろいろ事情があるんだよ。岬も申しわけないと言っていた」
「かまへん。まぁよくあることやし想像もつくわ。岬さんの表情は覚えとる。選んでくれたとは言え、困惑しとったし、本当に自分が望んでいるというよりも、仕方がないって表情やったからな。だからと言ってプラスチック装具に罪はないで?うまいこと満足する装具を選んで貰えへんかった俺らに問題があったんや。気に入って使ってくれる人の方が多いんやから」
「その時は仕方がなかったんだろう。わけもわからず選んでしまったと岬も言っていたよ。だから今度はいろいろわがままを言いたいってさ」
「望むところやな。そんで日常生活動作はどんな感じや?」
「屋内の日常生活動作は自立している。歩行は患側下肢に荷重が乗らずに後ろ型。当然クリアランスは保つことができない」
せやろな。と僕が話すと知之はソファーに身を預けて天井を仰ぐ。ソファーのきしむ音が聞こえた。
「まぁぱっと思い浮かぶんは、やっぱり、ふくらはぎから足先まで包むプラスチックの短下肢装具。まぁ藤森先生のリハビリがうまくいくとしてオルトップの長めのやつかな。でもあれやろ? 本人はヒールを履く。ドレスに似合う。そんで坂道を下る。って希望がある。せやったら、俺が思いつくんは、調整機能付き後方平板支柱型短下肢装具・・・やな。前に別の人で一緒に作ったやろ?」
調整機能付き後方平板支柱型短下肢装具。通称RAPSと呼ばれている。
短下肢装具は大きくプラスチックと金属を支柱とした強固な装具が現在の主流である。僕の知る限りではあるのだけど。
金属支柱の方がしっかりと体重を支えることはできるが、両脇に伸びる支柱は履く靴を選ぶ。屋内では使いにくい。といったことも聞く。その点、RAPSには両脇の支柱がない。代わりに後方へ硬く平たい板が足を支える。正面から見たら目立ちにくいし、靴も履きやすいと個人的には思う。やや値は張るし調整も難しい。
岬の性格を考えると、彼女にとってはだけど、RAPSが似合うと思った。
「いいね。あと赤いドレスを着たいって。色も黒がいいって言ってた」
「ふむふむ。余裕や。足部のシェルはカーボンで作ってみるかな。ちょっと硬くはなるねんけどシュッとトリミングしてしまえば好きな靴も選びやすいはずや。赤いドレスに色も映えるはずやし、おしゃれやん」
知之はソファーに身を任せながら、ええなぁ。と両手を頭の後ろで合わせる。
「いやな。普段は先生や理学療法士さんが装具をだいたい選んでくれるやん? 患者さんからしたらよっぽど知識がないと、勧められたら意見も言いにくいわな。俺らだって出入り業者でもあるからな。もちろんお金の問題もある。そんで、よっぽど仲の良い療法士さんやないと、なかなか意見はしにくい。藤森先生にはいろいろと苦言を呈させていただいてはおりますが、それは特別やからやで?」
「そりゃどうも。理由は僕が自分の知識に自信がないからだよ。自分だけで自信を持って装具を処方できない」
「処方すんのはお医者さんやろ? 自分の判断に自信がないくらいの方がチーム医療はええ感じに進むねん。でもええなぁ。こうやって何が妥当かではなく、こんな色が似合うかなーとか、おしゃれのために使う装具が増えてもええと思うねんな。だって退院したら日常やろ? おしゃれしたいやん。俺もしぶしぶ装具を使ってもらうより、めっちゃかわいい! お兄さん素敵! おしゃれすぎて惚れてまうわ! って素敵女子やおしゃれなマダム、願わくは老若男女から言われたいねん。いつか思わずビーチに出かけたくなるような装具を作りたいなぁ」
ともゆきぃ! と工房の奥から再び野太い声が響く。わかったわぁ! と知之は振り返りながら、同じくらいの声量で返した。
「まぁとにかくパンフレット持って行き、岬さんが気に入ったら、いろいろ進めるさかい連絡をくれな。でもよかったわ。ありがとさん」
陽気な声色で震える言葉をごまかしながら、知之は笑みを浮かべて立ち上がる。僕もありがとうと知之に返す。せや! と知之は口角を歪めて右の人差し指を僕へ向けた。
「羨ましい状況におんねんから、ちゃんとお金は藤森くんも払うんやで? 保険で戻ってくるとはいえ、金額が高いは高いねんから。そんで弥生ちゃんが最近元気ないから、たまには遊んであげ! まったくこんなヒョロッこい男より、武士みたいな俺の方がええのになぁ」
ともゆきぃ! ともう一度呼ばれて、はいはい。と知之は歩き出す。後ろ姿で僕に手を振り、僕も立ち上がる。岬は気に入ってくれるだろうか。
僕は受付の女性にお礼を言って、製作所を出る。そしてパンフレットをプラスチックの容器の入った紙袋に入れた。
◇
一度家に帰って車を置いて、僕は岬の家に続く坂道を登る。
山間から甘い匂いが吹き下ろす。見上げる山には転々とピンク色の模様が落とされていた。
季節の変化はあっという間だな。山々を眺めながらしばらく歩き、岬が住む家の前にある長く急な坂道へたどり着いた。
急な勾配は見上げるだけでは先が見えない。
しかし登る度に息が切れるな。と坂道を登りながら考えていると岬の家が見えてきた。
見慣れない真っ赤な乗用車が止まっており、流線型の車体は太陽を反射している。
「もういいから。帰って!」
岬の叫ぶ声が聞こえ、僕は足を速めて坂道を駆け上がる。速まる動悸は決して僕の運動不足だけに起因していない。
岬の部屋に続く窓は堅く閉ざされており、声だけが響く。手作りの縁側を挟んでカーキ色のジャケットを着た男がいた。髪は茶色に整えられており、斜めに整えられている。
僕とは違うがっしりとした体型に、藍色のスラックスが伸びており黒い革靴は車体と同じで磨かれていた。
男は僕に気がつくと、やぁ。と満面の笑みで両手を広げた。細く伸びた鼻筋と整えられた眉、細い顎先からまるでテレビで見るような人だと思った。僕は自分の伸びきった髪に触れる。
何もかもが自分とは違う。そして彼が岬の言っていた元婚約者だということはすぐにわかった。人懐っこい笑みで元婚約者である高山 智は僕へ歩み寄る。
「君が藤森くんだね? 岬からよく聞いていたよ。どうしようもない幼馴染がいるって。いろいろ愚痴を聞かされたなー。初めまして。高山智と言います」
どうも藤森です。返事をしながら僕は目の前の男がなんだかいけ好かなかった。礼子さんも同じことを言っていたという。ふーん。と高山は僕の足先から頭のてっぺんまで視線を動かす。そして勝ち誇ったように口元を片方だけ上げた。
「君が岬の世話をしていてくれたんだね。ありがとう。倒れているんじゃないかと心配していたよ。さぁ荷物を渡して仕事もあるだろう? 帰っていいよ」
高山は僕の持つ紙袋へと手を伸ばす。僕は紙袋を引いて背中で隠すと高山は首をかたむけ目を丸める。そしてわざとらしくため息を吐いた。
「なんだよ。空気読めよ。あのな。俺たちは婚約してるんだよ。お前はもう関係ないだろ?」
「いいえ。僕は岬の理学療法士ですから。関係があります」
「意味がうまく理解できないな。退院したからもうリハビリなんて必要ないだろう? 岬が歩けなくても俺が世話するし問題はない。金の心配もいらない。わかるだろう?」
高山は勝ち誇った表情で顎先を赤い車へ向けた。世話をする。高山が無意識にこぼす言葉に胸が温度を持つのがわかる。
あぁだめだ。こいつは嫌いだ。
大人気なく僕はそう考えてしまっている。もともと高山の運転する車の助手席で岬は怪我を負った。仕方がないことかもしれないけれど、うちに湧く想いが頭を離れてくれない。
「いいえ。そちらこそ大丈夫ですよ。岬は自分のことは自分できますから。ご心配をおかけしました」
高山はまだ理解できないといった表情で肩の力を抜く。呆れたように口を半分だけ開いた。
「男らしくないことを言うなよ。岬は怪我をして歩けないし、買い出しに行くこともできないだろう? だから君が不要な手伝いをしなきゃならない。障がい者の岬には誰かの世話が必要なんだよ。君だって正直迷惑しているだろう? でも俺は大丈夫だ。周りから優しいって評判なんだから。俺は君が知らない岬のこともたくさん知っている。岬がどんな姿で寝るか知っているか?」
僕を見下し下卑た笑みを浮かべる高山は、右手を伸ばして僕を強く押した。その時、足元で甲高い音が弾けた。高山が姿勢を崩し、足元には白いマグカップの破片が散らばる。
高山が肩をさすって窓を見た。見ると窓は開かれており、身を乗り出した岬がマグカップを投げたままの姿勢で固まっている。
「帰れ!」
岬は口をまっすぐに結んで高山を睨みつけていた。激しい怒りで顔は青白く、鬼火みたいな怒りに打ち震えている。
わかったよ。高山は首を振ると、去り際に僕を睨みつけながら、聞こえるように舌打ちをした。そして足元で砕けたマグカップを靴で払うと車へ乗り込んだ。
エンジン音が鳴り高山は坂道を下っていく。目の前でいつものような景色が流れて、僕はホッと一息ついた。そして割れたマグカップの破片を両手で丁寧に拾う。
欠片を集め終わり、手作りの縁側へ腰をかけて、身を乗り出したまま固まる岬の隣に並んだ。
「ごめんね。嫌な思いさせちゃった。最初はいいやつだと思ったんだけどね、蓋を開いてみればすっごくプライドの高い、嫌なやつだった。私は昔から男を見る目がないらしい」
申しわけなさそうに、わざとらしい明るい口調で岬が首を垂れる。長い髪が岬の横顔を隠していた。僕が窓に背を預けると、頭上からの日差しが足元に影を作る。
「大丈夫だよ。ほら。病院で働いていれば理不尽なことを言われるのにも慣れてくるんだ。こう・・・みんな切羽詰まっているからね。思わず声を荒げて道理が通らないクレームを受けることもある」
本当? と岬は顔を上げずに言って、本当。と僕は返す。
「ひとつ残念だったのは、マグカップを投げる必要はなかったね。彼に投げて割ってしまうのはもったいなかった」
はは。と岬は乾いた笑い声を上げた後、僕を見た。視線に合わせて黒い髪が揺れ、整えられた毛先が太陽の光を透過する。そして岬は細い指先で僕の髪を撫でた。
「髪・・・伸びたね。身長も伸びた」
「小さい頃とは違うからね。また・・・気が向いたら髪を切ってよ。それまで伸ばしておくから。うちの父も切ってほしいって。といっても切る髪の方が少なくなってはいるけど」
「世界一髪の長い理学療法士になるかもね。誠也のお父さんの方は近々考えておこうかな」
ひどいな。と僕が笑うと、岬は指先を僕の髪を毛先まで添わせる。
「実は誠也が泣いちゃうんじゃないかって心配してた。泣き顔はたくさん見てきたから。困って泣き出すんじゃないかって。でも言い返してくれて嬉しかったよ。知らない間に大人になったんだね」
「そりゃどうも。僕はいい大人なんだから。結局追い払ったのは岬だけど」
だね。と岬は目を細めて僕の毛先に触れ続けている。高山の口振りに怒りを感じたのは事実だけど、嫉妬をしていたことも間違いではない。
「そうだ。今日は知之さんのところに行ったんだよね? 素敵な装具は見つかった?」
うん。これはどうだろう? と僕はRAPSのパンフレットを手渡す。ほうほうと岬はパンフレットを受け取り覗き込んでいた。
「なるほどね。後ろに支柱があるのはいいなぁ。私は好きだよ。いい黒色だね」
「うん。人を選ぶ装具だけど、岬には合いそうだと知之も考えてくれた。知之も岬におしゃれなやつを作りたかったんだって。頼ってくれてありがとうって言ってたよ」
「こっちのセリフなのに。知之さんも変わってるね。誠也や私と同じくらいに」
「まぁね。僕と仲がいいくらいだからね」
言えている。とようやく岬は笑った。そしてあっ! と声を上げると僕の肩を強く叩く。
「誠也にも教えたいことがあったんだ! はやくこっちに来て」
岬は部屋にパタパタと忙しなく引っ込んでいった。僕は玄関から岬の部屋に向かう。
ドアを開けるとパソコンのディスプレイが白い光で部屋を照らしていた。開かれた窓からは風が入り、再び閉じられた遮光カーテンが揺れて、隙間から差し込む光が暗い部屋の中央へ伸びる。
映し出された画面を岬は指差し、画面を覗き込むと岬が製作していた、セラピストによる腰痛予防の動画が流れていた。
「完成したんだね。テロップもちゃんと付いているし、所々、丁度いいタイミングでジングルが入るね。そして右下で動くライオット伯爵もいい感じだ。声は運動を教えてくれるセラピストさんかな?」
白衣を着たライオンが首を左右へ首を交互にかたむけ、命を宿したかのように動いている。
「ありがとう。でも見てほしいのは動画以上に再生数だね。投稿されてから一週間、なんと五万回再生されています。健康指導を行うセラピスト系の動画では破格の再生数だね」
「五万回再生って・・・そんなにすごいの?」
「あのねぇ。誠也は外に出ない私よりも、ずっと世間を知らないよね。そこそこ有名なアーティストが新曲を出したくらいの再生数だよ」
それはすごい。と僕が返すと、でしょう?と立ったままの僕へ手招きし、僕は岬の隣へ腰を下ろす。
「ライオット伯爵の方が人気者になってしまったのが要因だけどね。ほら緊張しきった声色なのに、気だるそうに動くでしょう? やる気に満ち溢れるセラピストさんの説明と奇妙なアンバランスさが話題になったの」
「腰痛予防の体操じゃなくて?」
残念ながらね。と岬は腕を組み、鼻先をわずかに上げる。言われてみればたどたどしく専門用語を解説するライオット伯爵と、体操を指導するセラピストの暑苦しいまでの演技は奇妙で癖になった。
再生数に実感は沸かなかったけど、五万人に近い人が僕の描いたライオット伯爵を見ていると考えると、胸の奥が落ち着かない。
「やっぱり誠也は絵を描くことを辞めるべきじゃなかったんだよ。賞を取れなくても・・・こうやって誰かに愛される。独創性がなくても、特別でなくても、誰にでもわかりやすい作品だからこそ、多くの人の目に留まるんだろうね。胸を揺さぶるような感動は与えられなくてもさ」
「実感はわかないけど・・・ありがとうって言いたいね。彼や岬に、僕の描いたイラストがここまで多くの人に見られるなんて考えもしなかったよ。誰にも認められないと思ってた」
「私は認めていたよ。ただ誠也が自分を認めていなかっただけ。ようやく気がついたかな?」
へへ。と僕を見て破顔する岬には先程までの怒りが余韻を残さず消えていた。
ずっと前に諦めてしまったんだけどな。と僕をとらえ続ける岬の瞳に、救われていた。きっかけを与えてくれたのは岬だ。
反面情けない気分にもなる。助けられているばかりだ。
岬は僕の中身を察した表情で、小首をかたむけ笑う。
「誠也の気持ちはよくわかるよ。きっとその気持ちは私たちがリハビリで初めて立ち上がる時の気持ちに似ているんだ。大怪我をして、もうこれで自分の人生は終わってしまう。落ち込んでいる時に突然リハビリの先生が病室に現れて、車椅子に起こして、平行棒や手すりと言った道具を使って私たちを立たせてくれる。あぁまだ立てるんだ。立ち上がれたんだ。という不安と安堵の入り混じった気持ちに似ていると思うんだ」
「うまく想像できないな。恥ずかしいことだけど」
「ひとりで立ち上がれる人なんていないよって話。もう理解はしているでしょう? さぁ。今日の練習を始めましょうか」
岬は右手足を使って立ち上がり、ベッドで腕を枕に仰向けとなる。まだ言葉にならない幸福の中で、僕は岬に左足に手を当てた。冷たい足首が柔軟性を取り戻しつつある。
最初に触れた時には赤子みたいに柔らかかった足の裏も、少しずつ硬くなっていた。
体重をかけることに慣れてきた岬のふくらはぎにも張りが出てきた。角度ももうすぐ0度に届く。尖って固まった岬に左足関節が、地面と平行になるのだ。
ただ力は入らない。それだけは岬に残る後遺症である。
ちょっとだけの変化が日常生活を大きく変えていく。体と一緒に心が前向きになるのは臨床で僕は何度も経験してきたから。
本当にリハビリテーションはゆっくりと進むのだなと感じていた。でもゆっくりとした速度でも着実に前に進むことができる。
必ずしも歩行に限った話ではない。心が前に進む。
ストレッチと筋トレを終えて、僕はベッドから岬の右に立って立ち上がった。
「それじゃ。揃えた両足から左足を前に踏み出して」
うん。と岬はつま先を引きずるようにして、足を前に出す。つま先から床に触れて踵を落とし、体重をかけていく。まだ固く右足に比べて弱い左足は体重を十分に支えることはできない。僕は岬を右側から支えつつ体重を恐る恐る足にかける岬をサポートする。
だからと言って必要以上に手は出さない。自身を持ってもらうため、というよりも尊厳にかかわる行為でもあるから。
「障がい者の岬には誰かの世話が必要なんだよ」
高山の言葉がまだ僕の中で漂い、足を踏み出そうとする岬の姿が言葉を振り払っていく。
踏み出された足は踵から地面につき、推進力が踵から前方へと移動させる。でも踵から足が地面につけられるということは、十分に足首がそらせる必要がある。
つま先から足を前に着いても歩くことはできる。でも体重を乗せた前方への推進力は、膝は本来曲がらない方向へと伸ばしてしまう。反張膝と呼ばれる状態を助長してしまう。
何度も臨床で繰り返した練習と指導内容であったけど、胸に浮かぶ意味合いはずっと重く、ためらいはなかった。
想いを共有できたから。僕は体の距離以上に岬の隣にいるのだから。
坂道を下るという同じ目的を持って、岬と一緒に転倒から立ち上がり、前へ進もうとできているからだ。立ち上がり、もう二度と転倒しないように進めている。
「転びそうになって怖いね。でもさ。歩ける人からしたら、なんだそれくらい。って思われるかもしれないし、歩けない人からしたら、歩けるだけまだマシじゃないって思われるだろうね。私がどんなに怖がっていても。でもきっと・・・その程度なんだ」
岬は踏み出した左足へとゆっくり体重をかけていく。伸ばされたふくらはぎが張りを増す。
「他人の不幸は人からしたら、他人事だからね。障害は比較するものではないよ。障害の重さは見た目や残された能力だけではきっと、判断してはならない」
「でしょ? 自分よりもずっと不幸な人がいる。そして自分の障害を乗り越えようと頑張っている。私よりずっと不幸な人に比べたら私の障害はなんでもなくて、頑張れない私はなんてダメな人なんだろうって思ってた。身動きが取れなくなっていた」
僕と岬に流れていた時間の流れは長さこそ等しくても、身を包む濃度は違う。でもさ・・・と岬は続けた。
「足を踏み出せるようになってわかったよ。歩けない人はまだ引きずってでも歩ける人をまだマシだと思う。立てない人は立てる人を、起きられない人は起きられる人を・・・そして命を失おうとする人は、まだ命があるじゃないか。そう思うんだよね。きりがない」
「健康だった時の自分と今の自分を比べてしまうんだ。だから頑張ろうって人もいる。一度の不幸な挫折で、打ちひしがれて立ち上がれなくなる人もいる」
私みたいに? と岬は僕を横目で見る。僕みたいにね。と首を振ると岬は笑みを含んだ。
「不幸の尺度は他人と比べることではないんだ。いつだって過去の自分と比べるべきなんだよ。ずっと昔の自分じゃなくて、ちょっと前の自分。ひとりで立ち上がれなかった自分や、誰にも認められないからと描くことを辞めてしまった自分。働き出してからは正常を追い求めるようになって、いつしか他人にも押しつけていることに気がついた自分。二度目の挫折で病院を辞めてしまった自分。比べたらキリがないから・・・挫折した地点と今を比較するべきなんだ」
「まるで自分に言い聞かせているみたいだね」
そうだとも。額に汗を浮かべ初めた岬の隣で、僕は少しだけ曲がった岬の左足を見る。岬から頼まれて絵を描いた。ライオット伯爵と名付けられた白衣を着たライオン。その時から心に浮かび始めた言葉は、画面上で多くの人に愛されるようになった僕の絵を見て確かになった。
他人と比べてはきりがなく、ずっと昔の自分と比べても果てがない。
比べるべき自分はちょっとだけ後ろにいる。一歩分後ろにいる自分が、比較すべき尺度なのだ。
もう無理! と岬は左足を引っ込めて、勢いのまま後方のベッドへ倒れ込む。
危ない。と伸ばした僕の左手に岬は身を預け、一緒にベッドへ仰向けとなった。
天井を見上げながら僕がよくできましたと伝えると、そりゃどうも! と岬は右手を天井へ向けてあげる。
きっと今なら昔に作った装具も使えるのだろうな。と思った。サイズは大きくとも、柔らかくなった左足首の角度ならば十分に使える。よく考えられて作られた装具なのだから。
でも決して岬はそんなことを言わなかったし、僕も言わなかった。物に記憶は宿る。装具も同様だ。きっと同じ装具を使い出したら、岬は転倒のことを思い出すのだろう。転倒を繰り返して立ち上がれなくなるのは体も、心も同じなのだから。
「知之さんが紹介されてくれた、RAPSと呼ばれる装具を私は作るよ、気に入ったから」
「よかった。知之も喜ぶよ。浜崎先生に連絡を取って、手続きを進めようか」
「うん。でもね。ひとつだけ条件がある」
条件? と首をかしげると、薄い唇を三日月のように広げて、岬は幼さを残した笑みで目を細めた。
◇
手続きはトントン拍子に進み、浜崎医師も今回作る装具の説明をすると、老齢を感じさせない声色でとても喜んでいた。
「ぜひ、岬さんが気に入る装具を作ってくださいね。後、礼子さんは元気すぎるくらいに元気だとお伝えください」
病棟で連絡を受けたのか、騒がしいガタガタとスタッフが走り回る音と、モニターの音も遠くで聞こえた。岬も電話口で聞き耳を立てている。まるで先生のようすを伺う生徒だと可愛らしかった。
しばらくして知之からすぐに連絡が来て、岬の装具を作るための採型をする日が決まった。
「ようやくかいな! ずっと待ってたんやで!?」
電話口でいつも以上に大きな声の知之が言って、僕は呆れながら一週間も経ってない! と伝えるとそうやったかな? と知之は怒りながらも笑っていた。
なんともせっかちなものだとため息を吐き、僕は岬から伝えられた条件を伝える。
伝えると知之は、一瞬黙り、何かを察したかのようにわかったわ。と笑いながら言った。
少しずつ物事は進んでいる。
電話を切って岬を見るとまるで旅行のパンフレットを眺めるかのように、落ち着かないようすで装具のパンフレットを眺めていた。
その日はよく晴れていた。空には雲ひとつなく青色が空を埋め尽くしている。どこからか甘い香りをまとった風が流れてきた。
岬は縁側に腰かけて足を揺らしている。僕は隣に立ち知之の到着を待った。
「まだ来ないかな。でもわざわざ家に来てくれるなんて、いいのかな?」
「大丈夫だよ。基本的には病院で採型は行うけど、自宅で採型を行う例もあるから」
それならいいけどさ。と岬は青空に向かって視線を向けて、左膝を上下に動かしていた。足首は膝の動きに合わせて揺れる。体を支えるには頼りない細さだった。
遠くからエンジン音がして、白いバンが坂道を登ってくる。『株式会社 新井製作所』と車体にデカデカと書かれており、オレンジ色の下地が目を惹いた。
車を止めると知之が降りてきて、後部座席から荷物を取り出すと、やぁ! と右手を挙げた。左手には大きな青色のバケツ、肩には黒い大きな鞄をかけている。病院で見るようにスーツを着込んで、暑いなぁと首をさすった。
「すみません。わざわざ私のワガママに付き合ってくれて」
「いいえいいえ。誠也くんならいざ知らず、岬さんのワガママなら喜んで。それにうちの会社の売りはフットワークの軽さでしてん」
口の軽さもじゃないか? と僕は目を細めていると、知之の視線は岬の左足へと注がれている。ふむ。と知之は右手を顎先に当てた。
「ということで、こっからは誠也くんの頑張りどころやな。指導料はツケておくわ」
だって? と岬はえへへと破顔し僕は代わりにため息を吐く。
「知之さんにも無理言ってごめんなさいね。失礼だったでしょう? でも・・・まだ誰かに触れられるのが怖くて」
岬にしては素直な言葉だと驚いた。いや、もともと裏表のない性格ではあったのだけど、やはり再会した時の姿を思い浮かべると変貌ぶりに驚いてしまう。
いやいや。かまへん。と知之は首を横に振る。
「ほな誠也くん。いつも俺の採型を珍しそうに見てたやろ? お手並みを拝見しましょか」
だって? と岬は足を前後に揺らしながら言って、知之はバックの中から石膏包帯とラップ、幾つかのペンを取り出す。僕は知之から青いバケツを受けとり、家の中から熱めのぬるま湯を用意した。そして岬の足元に新聞紙を敷いて岬の足を乗せる。
「まずは岬さんの足にラップを巻いてな。そんで忘れずに凧紐を下に通して・・・ほらほら! そんなんしたらマーキングの邪魔になるやろ!」
僕の後ろに立ちながら腕を組んで上機嫌の知之は、動かす僕の両手以上に早口で指導を続けている。わかったよ。と言いながら僕は岬の左足を固定しながら市販のラップを巻いていく。忘れずに凧紐も膝上から爪先へと出す。くすぐったいな。と岬は笑みを浮かべた。
膝や腓骨頭、くるぶしや足先へ青いペンで丸を描く。
「よっしゃ忘れへんかったな。こっからが本番で腕の見せどころや! 石膏包帯をバケツの中で程よくぎゅっとして、巻きつけていくねんけど、絞りすぎても絞りが緩すぎてもあかんで!」
わかっているよ。と言いつつ実際にやるのは初めてだったから緊張している。掌と額に汗が滲んだ。失敗は許されないと思ったし、嬉しくも感じていた。
バケツで石膏包帯を注意深く濡らして、岬の足に巻きつける。石膏包帯が触れた瞬間、岬はヒャッと声をあげた後、クスクスと笑みを含む。ずっと笑っているなと僕も楽しい気分になった。知之だけが腕を組んで眉間にシワを寄せる。
「ほらほら笑っている時間なんてないで? 上から順に・・・って遅い遅い。手際良くやらなあかん。包帯の長さは限られているし石膏は思っているよりずっと速く固まるねん。そんで上下に手を添わして均一に固めて、いやぁ! 力弱すぎんねん。遅いわぁ。もうほんま何年この仕事やってんねんなぁ」
話しながら知之の口角は緩み続け、絶対楽しんでいるなと今度は僕が眉間にシワを寄せる。
ようやく巻き終わり、額から落ちた汗が新聞紙に丸いシミを作った。
「どうだ知之。これが僕の全力だよ」
「うーん。及第点はあげられるけど、まだまだやなぁ」
そりゃそうだよ。と僕が口を尖らせると、冗談や、と知之は笑い出した。
「たまには指導される側もええやろ? 俺も楽しかったし、結構うまくいったやん。めっちゃ練習したんとちゃう?」
当たり前だと僕が答えると、知之はほんまにもったいないなぁ。と腕を組んだ。今度は岬が口を開いた。
「誠也はいつもこんな感じで働いているんですか?」
知之はちらりと僕を見た。何を言われるかわかったもんじゃないと僕は身構える。
フッと。知之は軽く息を吐いた。
「そやなぁ。変な理学療法士さんなのは否めないなぁ。ちゃんと真面目で頑張ってんのに、自信が無くて優柔不断で。ほら、先生って自信満々にこれや! っていつも決断してくれるやろ? でも誠也くんは自分よりも他人が納得することを、ずっと待ってたような気がすんねんなぁ。ずっと話して、無理しようとする患者さんと話しとった。正しい動作とはうんぬんかんぬんって感じやな」
正しい動作。知之から聞く言葉に胸が締め付けられる。呼吸を整え平静を装う。華苗がまず思い浮かんだ。
正常を求めることは他者に正常に生きろを言っているようなものだった。
今いる正常から逸脱した場所ならよくわかる。
僕は呼吸を整えできるだけ平静を装いながら眉間にシワを寄せた。
「そんなふうに見えていたのか?」
「せやで? なよなよっとした感じやろ? だからなんでも遠慮なく、苦言や皮肉、文句も言えたねん。言うたらあかんと思っていても、伝えたい気持ちはなんぼでもあるやろ? 俺だけやない。患者さんもおんなじでな」
「私も同じだよ。ほら誠也。褒められているよ」
「褒められているのか? それに初めて聞いたよ」
初めて言うたからな。と知之はニヤリと口元を歪めた。
「普通に立派な療法士さんよりも、真面目で頼りなくても、自分の話をしっかりと聞いて、一緒に悩んでくれる先生の方が可愛らしいと思うやん?」
「やっぱり褒められている気がしないなぁ。本当に褒めているか?」
どうやろな? 知之が腕を組み、目を細めて清々しく見える表情で岬は空を見上げた。
「はな雑談タイムは終わりや。さっきの紐を軽く引っ張って石膏包帯を浮かせながら、こいつで切り目を入れて誠也くんの作業は終わりや」
わかったと。幅の広いヘラのような器具を受け取り、僕は岬の左足に巻かれた石膏包帯へ慎重に切れ目を入れていく。ゾリゾリと不思議な感触がした。岬も緊張した表情で僕の手先を見ている。足先まで切り開き、石膏包帯をゆっくりと開いて岬の足を外に出す。
まずまずやな。と知之は一度うなずいた。
「まぁ指導者がよければ、誠也くんでもまずまずええ出来になるんやな。自分の指導力に惚れ惚れするわ」
「そりゃどうも。こちらも素晴らしい指導者に出会えて嬉しかったよ」
褒めてるんやろうな? と知之が言って、僕はどうだろね。と口を歪めて知之を見た。
僕たちのやりとりを見て岬が笑い、軽やかな笑い声が青い空へと吸い込まれていく。
「なんか。ありがとう。楽しかったよ。珍しく緊張する誠也も見れたしね」
「どもども。ほな。最短で一週間くらい時間もらいます。他の作業もありましてん。でも岬さんが気に入る装具作らせてもらいます」
期待しています。と岬が答えると胸に手を当てうやうやしく知之はお辞儀をした。僕はすっかりと石膏で汚れたジーパンを見る。手を洗った後でも爪先には石膏の後が残っている。
「ほな。しっかりと岬さんのリハビリやりなや。俺と誠也くんの共同作業や! 絶対うまくいくさかいな!」
他に言い方はないのかよ。と苦笑すると、ほなな。と知之は嵐のように去っていった。エンジン音が消えるのを聞いてやっと、僕の肩から力が抜ける。
「賑やかな人だったねぇ」
岬はまだ手を振りながら言った。僕は岬の隣へ腰を下ろす。
「賑やかすぎるよ。でもいいやつだ」
わかっている。と岬は両手を軒先について、足を上げた。足首を上下に動かした後、膝を抱いて僕の髪に触れる。ん? と首をかしげると岬は目になだらかな曲線を描いた。
「ねぇ。髪を切ってあげようか? 座っててくれたら多分高さも大丈夫。ちょっと待っててね」
岬は僕の返答を聞かずに部屋に引っ込んだ。そして準備を終えた岬は、僕の頭に大きなビニール袋を被せる。頭が通るように切り開かれたビニール袋にすっぽりと包まれた。
「まぁ家にあるのではこれが精一杯かなあ。懐かしいでしょ?」
「うん。最初、岬に髪を切ってもらった時もこうだったね。道具なんてないからさ。精一杯に工夫して、結果としては残念だったけど」
懐かしいなぁ。と岬は独り言のように言って、座布団を置き膝立ちになる。右手には銀色のよく磨かれたハサミが握られていた。
「仕事を辞めても捨てられなかったんだよね。未練がましく捨てなくて良かったよ。毛先を整えるだけでいいかな? 昔みたいに」
失敗したら坊主ね。と言い岬は毛先にハサミを入れ始める。僕は目を閉じて岬にすべてを任せた。自分の体を他人に預けるということは、こんなに穏やかな気持ちになるものかと思った。
僕からリハビリを受けている人もまた同じだったのだろうか。
信頼して体を任せることはこんなにも心地よい。
岬はしばらく無言でハサミを動かし、小気味好い音を立てるハサミと一緒に岬の声が聞こえた。
「あのさ・・・ごめんね」
何が? と尋ねるとハサミを動かす手が止まる。そしてわずかな間をおいて再びハサミの音が鳴る。
「誠也がさ。また私の家を訪ねてきてくれた時、たくさんひどいことを言っちゃったから」
「そのこと? でも僕が悪かったんだよ。岬のことを何も考えていなかったから」
「だとしてもね。きっと私は甘えているんだよ。誠也といない時間で私はとても弱くなってしまってた。不思議だよね。私は自分のことをとても強いと思ってた。誰にも負けないように、ひとりでも生きていけると思っていたけど、それは違ってたんだよ。誠也が隣にいたから私は強かっただけなんだって・・・ずっと後に気がついた」
「頼りない僕がいたから?」
そう。と岬が息をもらす。ハサミは動き続ける。
「ずっとさ。誠也に会いたかった。素直になれなかったから、素直になろうと思ってもさ。頼ることができなかったんだよ。だから素直にもなれなかった。ずっと昔と同じように誠也が私についてきて、私は誠也を引っ張って道を決める。ずっと一緒だと思っていた誠也がいなくなって、寂しかった」
「僕も素直じゃなかったよ。岬が告白されたって言った時、僕はとても寂しかった。だから意地を張ってしまったし、岬には岬の人生があって、ずっと一緒ではないと気がついてしまったから。甘えていたんだよ。こうやって髪を切ってもらうことさえも、無理だと思った」
「そっか。だから知らない美容室で髪を切ってもらってたんだね。美術室でひどいこと言われた後、誠也が誰かに髪を切ってもらったのを見て、私はね。もう誠也には会えないなって思った。もう誠也は私に頼らなくても生きていける。だから私はもうひとりなんだって。ひとりでなんとかしなきゃって」
胸の奥がゆっくりと針が落とされたかのように痛んだ。痛みは指先まで伝わり痺れる。
「私はひとつ話していないことがあるの。おばあちゃんが倒れた時、私ひとりじゃ病院にも連れて行けなかったし、外に出ることもできなかった。ダメだよね。おばあちゃんが大変なのに、私は誰にも歩く姿を見せたくないと思った。誰にも見られたくないと思ったし、もし誠也が勤める病院に運ばれたら、誠也に今の姿を見られてしまうと思った。それが嫌だった。だから高山に頼ってしまったんだ。もう終わっていたのに」
そっか。と僕は答える。それ以上の答えは思い浮かばない。僕に気の利いたセリフが言えるとも思えなかったけど、岬の話を口を挟まずに最後まで聞きたかった。
「私が職場に復帰して転倒した時、彼はね。もう無理して歩かなくていいよって言った。俺が世話をしてあげるから、何もしなくていいって言われたのが、死にたくなるほど嫌だった。最後まで強がって情けないよね。対等だったはずの彼は私の介助者になって・・・ひとりで生きていけないと思った。それこそもう誠也に会えないと思った。なのにまた頼ってさ。彼をそんな風にしたのも私なんだよね」
違う。と僕が口を開くと、動かないで。と岬は僕の頭を抑える。そして口を開く。
「彼は誠也がいない時を狙っていつも連絡してきて、家に来るの。絶対に入れなくてもずっといる。自分が招いたことだけど、動けないくらいに怖い。何よりも強かった自分が、いなくなってしまったことが怖い」
僕は言葉を失う。岬が話してくれなかったとはいえ、そのことを岬は僕に感じさせないように振舞っていたのだ。
「ならずっと一緒にいようか?」
それはダメ。と岬は言った。静かな声色に固い芯を宿している。
「私が招いたことだから。これだけは私がなんとかする。だから誠也はいつものように私のリハビリをして」
僕はゆっくりと息を吐く。甘えているのは僕も一緒だ。相手の意思を尊重するのは大切だ。でもそれは過去の美術室と同じ選択である。相手の意思を言葉のままに信用して、尊重するという言葉で逃げてしまう。ただ発言に流されているだけの無責任な優しさ。
相手が何と言おうと自分の意思を、通さなければいけない局面がある。
傷が自然に治るまで横たわっていては、立ち上がる力が奪われるから。
「もちろん岬のリハビリは続ける。もうお互いにひとりではない。でもさ・・・折衷案として僕の車を玄関先に止めていてもいいかな? ずっと僕がいるように見せかける。効果としては牽制にもなるし、根拠はないけど・・・どうだろう?」
「理屈っぽいな。言いわけにも聞こえる」
岬の笑い声が後ろから聞こえた。でも・・・と岬は続ける。
「了承しました。手を打ちましょう。あのさ・・・装具ができたらすぐに坂を下れる?」
「転倒しないように下るには、まだ練習が必要だよ。まずは平地を歩いて、傾斜を強めながら坂を下る練習をしなければならない。まだもう少しリハビリが必要だな」
厳しいなぁ。と岬は言った。岬の表情は見えないけれど、笑っているように感じる。
岬を包んでいた張り詰めた冷たい空気が和らいでいるように思えた。
春先の頭上から降り注ぐ陽だまりが、僕たちをいつまでも包んでいる。まるで子供の頃のように。まだ互いが互いのことしか知らない時のように。
変わらない温もりのままで流れていた。
◇
知之からの装具が納品されるまでの間、リハビリの日々は続いた。足を踏み出して力を入れる。頼りなかった岬の左足も徐々に力を取り戻し、体を支えながらもう片方の足を踏み出せるまでになっている。
足で体を支えるのには力以上に恐怖感を乗り越えなければならない。共振の克服は自分自身に対する信頼の回復でもある。
岬は岬の望む歩き方へと近づく。歩き方こそかつて岬を呪った正常歩行に近づいてはいたけど、今では意味合いと心持ちがまるで違う。
一緒に立ち上がりながら、今度こそ転倒しないように歩く。ゆっくりと着実に。
目的ではなく、ただの手段として歩く。歩くだけではなく隣で、前に進むために練習を繰り返す。
障害された左足をもう片方の足で乗り越えた時、岬は笑っていた。誰に向けるのでもなく、自分自身に笑いかけていた。
待ちわびた知之からの連絡が入り、僕は家を出て坂道を登る。岬の住む家まで急いで足を運んだ。
岬の家にたどり着くとすでに知之がいた。
「よー! 久しぶりやな。納品の日に無事間に合ったで!」
青色の袋を持った知之が袋をかかげた。おぉ。と軽く息を切らせた僕は大きく息を吸う。
「さすがだね。待ち合わせの時間にぴったりだ」
あんなぁ。と知之は腰に手を当て、怪訝な表情を浮かべた。
「俺らは職人でありながら営業職でもあんねん。つまりは最強や! 誠也先生はちょっと怠けすぎとちゃうか? そろそろ就職活動したらどや?」
「ありがとう。でもせっかくだから、まだゆっくりするよ」
もったいないなぁ。と知之は釈然としない表情のまま、装具の入っている青い袋を肩にかけた。
「やっぱこの瞬間は緊張すんな。もしあかんかったら誠也くんの採型があかんかったということにするけどええか?」
「いいよ。言いわけなら、もう言わない」
嘘や。と知之は言って、僕たちが玄関の扉を開けると、すでに岬は身支度を整えて、玄関に腰を下ろして土間へと足を投げ出していた。ブラウンのフレアスカートが岬の傷跡を隠している。
「さぁ。どんな出来栄えだろう? 緊張するね」
岬も僕たちと同じことを言って笑った。誰だってそうなのだ。今までは取るに足らない一歩でも、再び踏み出すにはこんなにも勇気がいる。
知之が袋から装具を取り出すと、おぉ。と岬と僕は同時に歓声を上げる。歓声を聞いて知之は得意げに胸を張った。
「ここがカフになっとります。そこからふくらはぎを添わせるように支柱が伸びて、そっから足先にカーボンのシェル、まあ足底が伸びて足を包みます。支柱はちょっと硬めにしてしっかり歩けるように、家の前の坂道は強敵やと思うのでしっかり支えてもらいます」
ほな。と知之は僕に装具と六角レンチを手渡す。
「後ろのジョイントで足の角度調整はできるんやから、お姫さまの足に合わせてやってや。そこらへんはお姫さんの下僕たる誠也くんがよう知っとるやろ?」
だったらお前は何なんだよと僕が尋ねると知之は、俺は国を守る偉大な騎士さまやと返す。いつものような軽口にも緊張の色が差していた。
「はい。それならお願いします。緊張の一瞬だね」
差し出された岬の左足に僕は装具を当てる。足を沿わせて足首の角度に合わせて片膝をついた姿勢で支えた。後方にあるジョイントに六角レンチを当ててゆっくりと回す。
「坂道を下るにはちょっと底屈位にした方がいいかな。まずはフラットな角度にして普通の靴で歩いてみよう」
うん。と岬も緊張している。装具のサイズはピッタリで、知之はホッと胸をなで下ろしていた。次は角度を合わせた装具に靴を添わせる。
玄関先に置かれた履き古したスニーカーに岬は右足を入れる。左足は小指を沿わせて滑らせるように踵まで入れた。
「すごいね。装具用の靴って大きくてさ。どうしても私の体じゃ不恰好になっちゃうと思ってた。普通の靴が履ける装具もあるんだね。踵はちょっとボワっとしてるけど」
「せやで。それに他のもっとしっかりとした装具でも、おしゃれな靴は選べる。選んでくれる職人さんもおるし、ここら辺は俺らの企業努力やな。やっぱりどうせ履かなあかんなら、できるだけ履きたい装具がええやろ?」
その通りだね。と言って岬は立ち上がる。僕も岬と視線を合わせて正面に立つ。右手をいつでも差し出せるように伸ばしながら体の横に添えた。
岬は左足を一歩踏み出した。左足を右足で追い越して、右足でしっかりとバランスを取りながら左足を前に振る。
足首を反らせることができない間には、足首が邪魔してうまく交互に足を振ることは難しい。高く膝を上げながらの歩行となってしまう。
岬はまっすぐと視線を置いて、足を交互に進めた。
正しいや、正常なんていう言葉なんかでは表現できない美しさが、岬の歩みに見える。
やはり美しく見えるのは、決して岬の歩行という動作だけではないだろう。
いや、今までの僕は見えていなかった。再び踏み出される一歩の美しさ。踏み出せなくても前に進もうとする想い。
生きるための、再び生きるための・・・その人らしい一歩だ。
歩くことだけではない。前に進むことが重要だと、岬の前進で僕は胸が満たされていく。
岬は前進を止めて、春先の陽光に右手でひさしを作った。
僕は岬にうなずいて見せる。
「さすがだね。平地歩行に言うことはないよ。まだちょっと右足に体重が寄ってはいるけど、まっすぐ歩けている」
「うん。とりあえずは一歩前進といったところかな。しかし相変わらず灰になってしまいそうな陽の光だ」
岬は後ろで落ち着かない知之へ、右足を支点に振り向きながら笑みを作る。
「ありがとう。私の足を、新しい足を綺麗に作ってくれて。ちゃんと前に進めたよ」
はぁぁ。と知之は胸に手を当てたまま空を仰ぐ。
「もう俺の義肢装具士人生に悔いはないわ・・・そんでもう一回言ってもらってええですか?」
「お望みならば何度でも」
岬が耐え切れずに吹き出して、僕もたまらず笑い出した。
なんやねん。と笑う知之を眺めていると何もかも順調だと思った。
そして岬のゴールが見えた。岬は笑い終えると近付いた坂道を眺めている。
隣に立って眺めると急な傾斜の坂道は先が見えない。だけど坂道の先には終わりがある。
僕たちが過ごしたリハビリのゴールと日々の終わりがあるのだ。
さて戻ろうか。と足を進める岬の隣に僕は並ぶ。磨かれた黒い装具は足を踏み出す度にスカートから顔を出し春先の光を反射していた。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。登場する内容は一人のセラピストの意見ですのでご容赦ください。
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