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『坂道と転び方』 -4- 私を呪った坂道と私を救った転び方 (4/4章) / 小説 【#創作大賞2024】 《完結》

【あらすじ】
 幼馴染おさななじみである僕たちが育った街は坂道が支配している。僕と彼女を閉じ込める暗い場所もまた勾配の急な坂道の中腹にあった。
 僕である藤森ふじもり 誠也せいやと彼女である小桜こざくら みさきは互いの傷跡を知り、暗い部屋のカーテンを開く。
 僕たちは進む。ふたりを閉じ込める坂道を下るために。もう二度と人生における転倒で自分を縛らないために、ただ前へと意志を進めた。
 現職の理学療法士が記す、人生における転倒かた立ち上がるための本格リハビリテーション小説最終章。
 僕と岬はこんなにも急な坂道で、素敵な転び方を知る。

【目次】
-1- 「世界から逸脱した暗い部屋」
-2- 「正しくも正常ですらない生きる美しさ」
-3- 「些細で深刻な生涯を縛る傷跡」
-4- 「私を呪った坂道と私を救った転び方」
《書き下ろし》「呪われた私と、私が呪った理学療法士」

-4-「私を呪った坂道と私を救った転び方」

 不思議と眠れない夜はいつだって唐突とうとつおとずれる。あんな夢を見たからだと僕は自室のベッドから天井を眺めた。時計を見ても深夜を超えたばかりで、朝まで程遠い。

 みさきのリハビリを終えて自宅へ戻り、他愛もない両親との会話を終えて眠りにく。いつもと変わらない夜だった。

 僕と岬はなぜか海辺にいた。暗い砂浜で打ち寄せるさざ波が、白い泡を浮かべては消えるのを眺めている。

 赤く重たい月が夜空に浮かび、ぬらりとした黒い海はどこまでも広がっていた。

 岬の白い足は靴も履かないまま砂浜に投げ出されていた。僕は彼女をどうにかしてあげないといけないと考えている。

 彼女は障害を持っているから、ひとりでは歩けないから支えなければならない。

 かわいそうだから。不幸だから。僕が支えなければならない。

 岬は波間に視線を投げ出したままこちらを見ない。ただ僕は岬も同じことを願っている考えている。止められない思考の中で僕は心に浮かぶ考えを不快に考えていた。

 どうしてこうも心と頭が乖離かいりしているのかはわからない。ただ岬は表情もなく海の向こうを眺め続けていた。赤い月は海上に形を落として、長く伸びた月光が海に道を作る。

 ここは世界の境目さかいめだ。生者と死者の境目を僕たちは眺めている。

 そして僕は考え続けている。自分が彼女をどうにかしてあげないといけない。それが当たり前だから。障害を負った人を助けるのが人として普通だから。

 誰かを支えるために、誰かよりも自分が素晴らしい人間であるために、周りに正常だと思われるために、岬を支えなければいけない。

 それが正しい生き方だから。

 岬の世話をしてあげなければならないのだ。

 夢の中のあるはずもない考えに至った時、目が覚めた。僕はまだ肌寒い部屋でひどく汗をいている。

 呼吸は荒く両手で顔をおおう。なぜこんな夢を見たのかはわからない。

 岬はひとりでもう歩くことができるし、岬はきっとひとりでも人生を歩むことができる。僕は隣にいるだけだ。倒れそうになった時だけ支えて、岬がまた自分らしく人生を歩むことができるようにリハビリを進める。

 そもそも自分は立ち止まっているとはいえ療法士なのだ。自分の自尊心じそんしんを支えるために患者へリハビリをするなどあってはならない。

 でも果たしてそうだっただろうか。岬と過ごした日々の中で、一度も僕は同じことを思わなかったのだろうか。

 岬に切ってもらった髪は耳元でそろえられて、まだ髪先を尖らせたまま汗で濡れていた。

 嫌な予感がした。悪いの予感を裏づけるように端末には弥生やよいからの着信が入っている。僕は急いで端末を手に取り弥生に連絡を取ると、すぐに通話はつながった。

 受話器越しに聞きなれた病棟の音が聞こえた。響くモニターの電子音、言葉が聞こえないほどの速さで交わされる会話が不安を煽る。

「弥生! どうした!?」

 張り上げた僕の声とは違い、弥生は一拍おいて落ち着いた口調で話し出す。普段とは違う緊張感が、穏やかすぎる口調に含まれていた。

「ごめん。心配したよね。こんな夜中に電話して。寝てた?」

 てっきり礼子さんに何かがあったのかと思ったけれど、そもそも状態の変化があったのなら、まず連絡が行くのは岬であるはずだ。すべては悪夢のせいだと思い、首を一度横に振る。

「大丈夫。目は覚めてたよ。でもこんな夜中にどうしたの?」

「うん。どうしても気になることがあって。変わったことはない? 岬さんのことで」

「ん? いつも通りだよ。知之ともゆき装具そうぐを作ってくれてリハビリも順調だ。礼子さんも知っているかな? 喜ぶよ」

 そうじゃなくて。と電話の向こうで弥生は言った。わずかな沈黙の後で弥生は口を開く。

 どうしても嫌が予感は心から消えてくれない。

「今日さ、いや今日だけじゃなくて最近ずっと岬さんの婚約者さんが病院に来るの。話していいかわからないけど、伝えなきゃと思った。しきりに礼子れいこさんに会いたがってさ。家族じゃないと案内できないって言っても・・・婚約者だからって。岬は家から出れないから自分が代わりに来たって聞かなくて」

 背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。指の先まで冷え切っている。

「もうその人は岬の婚約者じゃないんだよ。ずっと前に婚約は破棄したって。岬は彼を遠ざけようとしていた。もう関係がないからって」

 今度は弥生が息を呑むのが受話器越しに聞こえた。

「そう・・・だったんだね。今日の夕方さ、また元婚約者が来たの。いつもと違うようすですごくイライラしてた。怖いくらいに。受付でこれは介助者への冒涜だとか、よくわからないことを叫んで、暴れて・・・たまたま歩く練習をしていた礼子さんが居合いあわせてしまったの。そしてその人が礼子さんに詰め寄って、しきりに岬は俺が守るって、最後まで世話をするって言い出した。でもさ・・・」

「でも・・・どうしたの?」

「礼子さんがピシャリと言い返したらいいの。一緒にリハビリしていた療法士さんの話だけどね。あなたはもう必要ありません。岬には藤森ふじもり 誠也せいやが一緒にいます。だからもう結構ですって。そうしたらその人出て行っちゃったって。でもどうしても気になってさ・・・もっと早く言うべきだったんだけど・・・病院ではそのやりとりで終わったけど、私はふたりのことを知っているから・・・心配になって」

 僕は端末を落とす。きっと岬は僕に連絡してこないだろうと思った。たとえ何が起きたとしても。自分でなんとかするからと言っていたから。

 受話器から弥生が僕を呼ぶ声がした。しかし返答する時間はない。

 電話を切ることなく、僕は家を飛び出す。岬の家に続く長い坂道、夜空には夢で見た月と同じ、同じ赤く重たい月が浮かんでいた。

 鼓動は速く耳元で鳴り響き、周りの音が聞こえない。

 呼吸は激しく乱れているが、駆け出した足が止まることはない。商店街を駆け抜けて岬の家に近づくにつれて傾斜が急になる。

 つい先日、岬と眺めた長い下り坂。もう少しでゴールだった僕と岬のリハビリの日々。思い出されるのは良い思い出ばかりだ。嫌な予感をかき消そうと脳裏のうりには岬の笑顔ばかりが浮かんでいる。

 岬の家は闇に包まれており、周りの家も寝息が聞こえるほどに寝静まっていた。

 勘違かんちがいだったかもしれない。少しだけ僕が速度を緩めた時、ガラスの砕ける音がした。静かに寝静まる住宅外で乾いた音が響く。そして男女の言い争う声が聞こえた。

 家の前には僕の車だけしかなかった。しかし家の中には岬と誰かがいる。

 高山こうやま さとるだ。僕は歯噛みしたままドアに手をかける。鍵は開いていた。

 靴を履いたまま廊下からすでに開かれている岬の部屋へと入る。

 壁を背に岬はいた。左手で右手を包むように、まるで祈りを捧げるような格好で大きなガラス片を握っている。そして正面の整えられた背広姿せびろすがたの男と対峙していた。

 岬と男は同時に僕を見て、ふたり同時に目を丸めている。

「誠也・・・どうして?」

 一瞬、岬の体から力が抜けた。その隙を逃さずに高山は岬からガラス片を奪い取る。岬が痛みに顔を歪め、僕は岬に駆け寄り膝をついて肩を抱く。そして共に高山を見上げた。

 これが彼の本当の顔なのだろうと僕は思った。高山は僕たちを見下している。

 出会った時と変わらない勝ち誇ったかのように、そして瞳の輪郭りんかくゆがむほどに眼差しは怒りで燃えていた。

「なんだよ。そんな目で俺を見るなよ。俺の方がもっとお前よりも優れているし、ずっと岬を幸せにできる」

「違う。お前は岬を傷つけようとしてるじゃないか。何もかも違う」

 自分が声を張り上げていることに驚いた。岬に肩に回した手を通して彼女が震えているのがわかる。何が違うんだよ。と高山は息を吐く。右手にはしっかりとそでに包まれたガラス片が僕と岬へ交互に向けられる。

「岬が障害を持ってかわいそうだから。ひとりでは何もできないから。お前も世話をして岬を助けようとしているんだろう? 普通じゃなくなってしまった岬を。しかもお前は理学療法士とかそんな立場を利用して、リハビリって名目で岬に近付こうとしている。昔に別れたはずなのに未練みれんがましく隣にいようとする。頼るしかない障がい者の弱みにつけ込んでいるじゃないか」

 違う。と僕はかろうじて口にする。自分では当然だと思っていた。だけど人の目と感情を通すとひどく下卑げびた行いに聞こえる。僕の感情を表情から察したのか高山はさらに勝ち誇ったような口角を歪めて笑った。

「お前も気がついているんだろう? 気がつかない振りをしているだけで、障害者を介護する。お前は高尚こうしょうな行いに身をゆだねているだけじゃないか。何の障害を経験したことのないお前は、したり顔でリハビリをしてやっている。障害を利用している。ほら岬。お前の隣にいる男はそんなやつだ。下らない。医療に携わっているというだけで障害者から金を稼ぐようなやつなんだ」

 高山はガラス片を振りながら、天井を見上げて言った。怒りに燃えていた瞳は僕たちを見ていない。あぁそうだと僕はようやくわかった。彼は自分自身に言っているのだ。

 自分自身を肯定するために、他者を否定し自身の正しさを押し付ける。結局の所、自分自身から目を背けているだけなのだ。

 僕と似ている。ちょっと前の僕に。岬と再び出会う前の、挫折ざせつし立ち上がれなかった時の僕と。

 彼の意見に賛同はできなくとも、彼の行動は理解できた。

「違うよ。ぜんぜん違う。金を稼ぐのは目的ではなく手段だ。目の前にいる人を救うための手段。そして共に歩くため、歩けなくても前に進むための手段でしかない。それに僕たち理学療法士は障がい者の世話をすることは目的としない。医療従事者だってそうだ。隣で寄り添い再びその人らしい生活を営めるように、共に努力する。一緒に歩く。もし歩くことが難しくても、違う手段を一緒に考える。同じ人だから。立場の違いはあっても同じ対等で違いはない。同じ人なんだ。障害の有無なんて境目はない」

 高山は糸の切れた人形のように表情を失ったまま虚脱きょだつした。僕は構わずに続ける。

「自分を肯定できるような生活を、再びその人に適した生活が行えるように支える。いや、支えるのではない。一緒に立ち上がるんだよ。何度で立ち止まっても一緒に立ち上がる。動作という意味ではない。もっと沈んだ心の奥底から、人生と向き合えるように強く立ち上がるために、一緒に生きるんだ」

 岬の震えが止まっていた。ただ肌は指先が震えるほどに冷たい。

「世話をすると支えるとでは意味が違う。僕たちは一緒に生きているんだよ。障害を持っていても持っていなくても制限はあっても関係はない。与えてやるなんて、何かをしてやるなんて言葉を使う限り、高みから見下しているにしかすぎない。視線はいつも隣であるべきなんだ」

 高山は口を閉じて僕を見た。顔からは表情が失われている。

「なぁ岬。隣の男はそんなことを言っているぞ? でも考えてみろ? これでも俺は彼よりずっと金も稼げる。裕福な生活も与えることもできる。詭弁きべんで君をまどわせることもない。ずっと俺が支えて車椅子でもなんでも押してやるから」

 岬はゆっくりと首を振った。そしてゆっくりと高山を見上げる。

「私はね。知っているんだよ。私が入院してリハビリをしている間に君が会社の女性と、良い中だったということも。退院してから、私と別れてもずっと一緒だったことも。上司のお嫁さんだったんだってね。浮気がバレて会社を一緒にクビになったことも知っている」

 高山がいよいよ言葉を失った。顔は青ざめている。岬は一度も僕に言ってくれなかった。でも、もし教えてくれていたとしても、きっと何も変えられなかった。

 高山を見据みすえたまま岬は続ける。

「何もかもうまくいかなくなって、私の所に来たこともわかっている。間違っていても優しくしようとしたことも知っている。君をそんな風にしてしまったのは自分だと思うと何も言えなかった。でもなんとかしなきゃと思った。ごめんね」

 岬はつぶやくようにもう一度、ごめんね。と言った。高山はほうけた表情をした後で、口を歪めて白い歯が暗い部屋で浮かんだ。整った眉は吊り上がり肩を怒らせる。

 きっと彼も立ち上がろうとしたのだ。

 思い描く未来へと向かう道で、転倒してしまったから。 

 なんとかひとりで立ち上がろうとした。

 褒められた理由ではないけれど、彼もまた僕たちと一緒で人生の岐路きろで転び、立ち上がれなくなった。

 でも、立ち上がり方を誤って、どうしようもなくなってしまった。追い詰められてしまったんだ。

 僕は高山の過去を知らない。何が彼をそうさせたのかもわからない。でも自分の自尊心を維持するためには、誰かを一方的に支えるしかなくなってしまったのだ。

 高山の言葉は、世間を通して僕と岬が、僕たち自身をあきらめながら傍観ぼうかんし、眺めていた瞳だ。

 障害があるから仕方がない。どうしようもない。立ち上がることも前に進むこともできないから、誰かに頼るしかない。

 本心では望んでいなくても、自分ひとりではどうしようもない。

 普通でも、正しくも、正常でもなく思い描いた理想の世界から、社会から逸脱してしまったのだから。ダメになってしまったから。

 僕たちを見据える高山の瞳は、まだ立ち上がれなかった僕と岬が、自分自身を眺めていた心を映し出す鏡面きょうめんであるのだ。

 華苗かなえに出会うことがないまま、挫折も転倒も経験しないままに岬に再び出会ったいたら僕も同じ有様ありさまだっただろう。

 正しく正常である客観的な場所からだけから見える事柄ことがらではない。

 僕と岬のいる、正常から逸脱した場所だからこそ見える美しさがあった。

 立ち上がれずにうずくまり、暗い部屋で隣り合っていたからこそ気がつけた。

 うまく言葉にはできないけれど、気がつけている。

 だからこそ僕たちは暗い部屋から出て、呪いの坂道と対峙している。一緒に。ひとりでは決して迎えなかった局面きょくめんへと進めた。

 世の中で生きる強く障害を抱えていたとしても強く生きる人とは違う、とても弱い僕と自分を弱いと信じてしまった岬との日々だからこそ、僕は気がつけたのだ。

 気がつくことができて、取り返しはつかないとしても、ふたりで一緒に立ちあがろうとすることができている。

 皮肉ひにくだとも思った。正常な日常からは逸脱した場所で、ひとりでは立ち上がれなかった僕たちが、正常で普通の日常の中にいて、ひとりで立ち上がること選んだ強いはずの彼を、こんなにもあわれんでいる。

「そんな目で俺を見るな。俺をあわれむな。お前たちと俺は違うんだ!」

 高山はガラス片を振り上げ、僕たち目がけて振り下ろす。僕は岬をぎゅっと自分の胸に埋めて、代わりに右手を差し出した。死にたくはないと思った。

 死んでしまえば今まで以上に岬は自分の心に縛られる。自由に外へと出られるはずなのに、また立ち上がれなくなってしまう。死ねない。

 振り下ろされたガラス片は僕の手のひらを切り裂く。驚いた高山が避けるように手を引いてしまったからか、人差し指と中指を切り裂くだけで済んだ。ガラス片が弧を描き、動きに合わせて血が頬に跳ねた。

 まばたきする間もない、永遠にも感じる一瞬だった。

 手のひらをかざすと人差し指と中指の根元から白い骨が見えた。みがかれた石膏せっこうにも似た色をしていて、裂かれた肉からは黄色い脂肪がふくれていた。遅れて血がようやく流れ出し、手首から袖を赤く染めていく。動脈でなくてもこんなに赤い血がたくさん流れのだ。

 痛みはなかった。氷のように冷たい痺れが指先まで支配している。切り裂かれた指の中に指を曲げるけんが見えない。もうペンは握れない。

 満足に岬へリハビリを行うこともできないかもしれない。

 でも生きている。

 冷え切った頭で傷跡を見つめていると、高山の方が狼狽ろうばいしていた。

 振り下ろした自身の腕を見て息を呑み、ガラス片を床に落として頭を抱えた。

 何度も違うと口元を動かし、そして逃げ出すように岬の部屋から駆け出すと、遠くで扉の閉まる音がした。

 なんとかなったな。と僕は全身の力を抜き、岬へと向き直る。岬は静かに僕を見上げていた。窓から差し込む赤黒い月明かりで部屋が包まれ、水槽の中で漂っている気分になった。

 岬はかかげたままにしている僕の右手を自分の左手で取った。

 岬の左手にも薄い傷跡きずあとが見えた。きっと高山からガラス片を奪われた時に傷付いたのだろう。岬の左手も僕から流れ出した血液で赤く染められていく。

 そして岬は僕の右手を自分の頬に当てた。流れる血液は頬を伝って唇を濡らす。赤く真っ赤な月のように綺麗だった。

「ねぇ。もう指は動かない? 絵は描けなくなる?」

「大丈夫だよ。ほんの些細ささいな傷だから」

 本当のことを言って。岬のつぶやくような言葉は有無を言わせぬほどの強さを持っていた。

「・・・屈筋腱くっきんけんという指を曲げる筋が切れているから、満足にペンを握れないかもしれない。でも縫合術ほうごうじゅつい合わせてもらって、リハビリをすれば握れるようになるかもしれない。すぐには動かないだろうけど」

「そっか。ライオット伯爵はくしゃくの家族はもう描けない?」

 白衣を来たライオンのキャラクター。岬が僕に再び絵を描くことを思い出させてくれて、僕を一度目の転倒から立ち上がらせてくれた岬の作ったキャラクター。

「また描けるよ。もうちょっと後になるかもしれないけれど」

 岬は答えなかった。自分の負った障害と照らし合わせて考えているのだろう。誰よりも自分を責めているのは言葉にしなくてもわかった。

「ともかく岬が無事でよかった」

「なんで助けに来たの? 呼んでもないのに」

「弥生が教えてくれたんだよ。今日病院にも彼は行っていたみたいなんだ。それで嫌な予感がした」

「やっぱり。君は弥生ちゃんと一緒になるべきだった。きっと幸せな普通の家庭が築けたはずだから」

「そんなことはない。僕は岬と一緒がいい。隣にずっといたい」

「それは障害を持つ私に寄り添い、もとの生活を目指して一緒に歩んでくれる理学療法士としての言葉?」

 いいやと首を振る。岬は失ったままの表情で僕を見ていた。月影は暗い部屋の中でも彼女の細い輪郭をはっきりとさせている。

「僕の言葉だよ。岬と一緒で、人生を左右してしまうほどの些細な傷を負った僕の言葉だ」

 同じだね。と握られた岬の手から流れる血が僕の指の間を染めていく。ぎゅっと岬は強く僕の右手を頬へと押しつけた。

 僕の右手が触れる岬の青白く細い、陶器とうきとよく似た頬を赤黒い液体が染めていく。液体は頬を伝って唇へと溜まり口角から顎先へと流れた。

 僕は身を起こして岬に顔を近づける。

 唇に触れた岬の唇は柔らかく、暖かな生命を宿す血の味がした。

 遠くでサイレンの音がする。きっと騒ぎを聞きつけた近所の人が通報したのかもしれない。でも僕はもうどうでもよかった。

 岬の唇に触れながら、どうしようもなくまだ生きている。まだ生きていられる。

 いつまでも岬の温もりを感じていたかった。

 指に走る痛みを感じなくなるまで、三週間の時が経った。

 怪我をした夜、タクシーに乗ってすぐに病院へと向かった。岬の家に駆けつけた警察を見て、今度こそ私が何とかするからねと岬は言った。

 僕は痛みで額に汗を浮かべた笑顔でうなずき病院へ運ばれ、すぐに腱の縫合術が行われた。向かった先はかつて僕が勤めていた急性期病院で、僕のことを覚えていた夜勤の看護師が言葉を失うほど驚いていた。

 幸運にも整形外科医せいけいげかいにすぐに連絡が付き、各種検査を終えたあと、手術が行われたのだ。普段ならきっと、傷口の縫合ほうごう止血しけつが終わった。

 手術の翌日から激しい痛みにおそわれて、れ上がった指はとてもじゃないが動かせるとは思えなかった。しかし無理に動かしても再断裂さいだんれつしてしまうことは十分に理解しているし、同じ症例しょうれいも見たことがある。

 理解しているからといって、経過が大きく変わるわけではない。翌日からリハビリテーションは開始される。僕を担当するのは、病院を辞める時に患者を引き継いだ理学療法士だった。

気を使っているのか事件のことを話すこともなく、他愛もない会話をしながら手術をしていない他の指まで固まってしまわないように、静かに動かす練習が始まる。

 こんなにも痛いんだな。リハビリを行いながら僕はあらためて思った。

 痛みや感覚は自分だけの感覚である。言葉を尽くして説明しようとも、痛みを感じるのは自分だけなのだ。真の意味で共有することは難しい。

 自分自身が怪我をすることで、本当に患者の気持ちを理解できたことにホッとしていた。岬や今までかかわった担当患者と一緒の位置に立てている気分になったからだ。

 もし障害を残して、絵を描くことも、岬のリハビリを行えなくなったとしてもだ。

 ギプスが外されて、手首を固定するだけの半分だけのギプス。シーネ固定へと切り替わりすっかりと固まった右の人差し指と、中指のリハビリが本格的にスタートしている。

 他の患者や周囲の目を気にして、四人部屋の窓側で僕はリハビリを受けるようにしていた。もともと働いていた病院だから知人も多い。だからこそ僕は人目を避けていた。

 まるで他人の指が移植いしょくされてしまったと思うほど、白く生気を失っている。傷口は綺麗に治っているが、硬い指先は伸びることも、曲がることはなかった。

「藤森くんだって知っていると思うけど、まずは無理せず痛みが我慢できる範囲で動かしていこうか。強引に伸ばしたらダメだからな?」

 黒髪を短く切り揃えた肩幅の広い理学療法士。職場の先輩だった彼は銀縁のメガネを整えた。

「ご迷惑をおかけします。自分の体なのに、自分の体じゃないみたいで。意外と自分の体を自分でリハビリできないのは本当だったんですね」

 知っていても理解できないことばかりでした。と言うと、そんなもんだよ。と彼は笑う。

 とくに大怪我の場合にはな。と先輩はニッと笑みを浮かべた。窓から差し込む日の光が首元に影を作った。

「まぁ、大怪我は大怪我だけど、まだ治る。もっと大きな怪我をしている人だっている。まぁ説明する必要はないと思うけどな」

 ですね。と答えながら些細ささいな障害でも人生は大きく左右されてしまうということを、僕は痛いほど知っている。

 障害を負った当人だけの問題でもないことも痛いほどに知っている。

「そういえば。山岸やまぎし 達雄たつおさんはどうなりました? 僕が辞める時に先輩へ引き継いだ患者さんですが」

 先輩は視線を窓の外へと移し、首元を掻く。僕は首をかしげた。

「藤森くんの介入が良かったんだろうな。すごく意欲的にリハビリへと取り組んで、歩容ほようも正常に近い形で退院したよ。でもまぁ・・・だからと言ってうまくはいかないものだな」

「どういうことですか?」

 先輩は、すぐにわかるよ。とバツが悪そうに首を振った。そして僕へ向き直る。

「ともかく。傷の経過は良いみたいだから。ある程度動かせる範囲が改善したら退院になると思う。それでも日常生活は制限されると思うが、外来でリハビリに通うかどうかだな。そこら辺は相談しておくよ。無理はするなよ?」

「大丈夫ですよ。無理することは苦手ですから」

「無理ばかりしてたじゃないか。まぁおかげで論文作成ろんぶんさくせい臨床研究りんしょうけんきゅうの面では頼っていたよ。部長だって今でもお前のことを話すんだぜ? 運ばれてきた時なんか俺が担当する! と言って聞かなかったんだからさ」

「それは・・・怖いですね。なんというか・・・新人の時を思い出します」

「だろ? だからみんなで押し留めた。どこに行こうと可愛い後輩は後輩のままだ。まぁ落ち着いたら飯でも食いに行こう。大切な人を守った栄誉えいよの負傷。大人しかった藤森くんが! って当院の医療従事者の間では今でも話題の中心で、今後も語り継がれるだろうな」

 困りますよ。と僕が眉間にシワを寄せると。先輩は背中越しに右手を振りながら病室を後にした。

 担当している患者は僕だけではない。多くの患者を理学療法士は担当し、ひとりだけのリハビリを続けるのも無理な話だ。

 僕はベッドに寝転がり右手をかかげる。指先だけはわずかに動く。でも物を握れるようになるのはいつのことか。経過と努力次第だと医師は言っていた。

 強い痛みは頭の中を支配する。痛みが消えてくるとおぼろげだった頭の中も鮮明となった。胸の奥に響く別の痛みをともなって輪郭りんかくを鮮明にする。

 端末には弥生からのメールが入っていた。傷口が落ち着いたのを知らせると面会に来たいということだった。気を利かせて落ち着くまで放っておいてくれたんだろう。ありがたかった。

 でも、岬から連絡はまだなかった。僕から連絡を取ろうと思ったけど結局、連絡はつかず終いだった。

 折り返しを待つだけで連絡を取ろうとしないのは、怖いからかもしれない。僕から離れていってしまうのではないか。また岬が立ち上がれなくなってしまうのではないか。僕が立ち上がれなくしてしまったのではないか。

 確認することにおびえている。指先の痛みを理由にして。

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、病室の扉が開く音がした。弥生は袖の短い白いフリルのついたシャツと青いジーパンを履いて、やっ! と少しだけ目を伏せて右手をあげた。

「久しぶり。リハビリの経過は順調?」

 僕はベッドから身を起こし、床頭台しょうとうだいの前に置かれた丸椅子まるいすへと弥生は腰をかける。

「まぁまぁ。順調だよ。周りの目が気になるけど」

 だろうね。と弥生は困ったように笑みを浮かべる。

「大変だったもんね。ちゃんと岬さんの元婚約者さんは逮捕されたよ。新聞にもっていた。しばらくしたらまた事情を聞かれるんじゃない? 藤森くんもちょっとした有名人になっているよ。後、岬さんが無事でよかったね」

 無事なのだろうか。いやきっと無事ではないなと思う。ギプスが外れる三週間の間に、警察も何度か事情聴取に訪れていた。僕はまだ若い、少年のような瞳を残す警察から事件のあらましを聞いている。

 世間でよくある痴情ちじょうのもつれ。たった一言で言い表せてしまうような事件。

 警察は僕の話が岬から聞いた話と相違ないことを確認すると、大変でしたね。ポツリとこぼした。

 両親も病室を訪れていた。でも、事件のことには触れずに、先生の言うことをちゃんと聞いて、ご飯を食べて・・・とまるで当たり前のことを口にしている。

 思ったよりも淡々たんたんと日々は過ぎた。

 命にかかわる傷ではないのだから。

「礼子さんのリハビリは順調かな。心配していなければいいけど」

「うん。心配してるよ。当たり前じゃん。歩行器ほこうきは外れて杖で歩くようになっていたもんだから、こう・・・杖を振り上げてね。叩きのめしてやるって・・・大変だった」

「目に浮かぶようだな。ありがとう。あの夜、弥生が教えてくれなかったらもっと大変になっていたかもしれない」

 最初、岬の部屋に足を踏み入れた時に握られていたガラス片。岬はガラス片の切っ先を高山に向けていた。もう僕は青白い月光を反射するガラス片の色を忘れることができない。

 あのさ。と弥生はためらいながら口を開いた。目を伏せ視線は膝に揃えられた両手に置かれている。

「もっとさ。早く気が付いていたんだ・・・。でもさ。大変だってわかっていたのに連絡するのをためらったの。もしさ、あの元婚約者さんと岬さんがよりを戻したら、藤森くんは自由になれるんじゃないかなって。幼なじみだからって理由だけで、自分を縛っているように思えたから」

「そう見えていた?」

「うん。だって藤森くんはずっと自分に厳しいじゃん。こうしなきゃ! とかこうあるべきだ! とかずっと考えている。自分であって自分じゃないような。正しくあろうとか失敗は許されないとか。そんなことばかり考えている」

 そうだったな。と目を伏せる。

 僕は正常でなければならないという言葉に縛られていた。

 でも今は違う。はっきりとわかる。

 僕は岬と一緒に並んで歩くと言った。立ち止まっているわけにはいかない。

 病室のドアは開き風が流れ込んでくる。温かな、季節の変わり目を告げる風だ。

「やっぱり生きるのは難しいな。相手がどんなに感謝していても自分を追い詰めてしまう。弥生だって僕と同じだよ。岬は弥生のことを気に入っていた。すごくいい子だって。患者に心から寄り添える看護師さんだって」

 だけど・・・と弥生は目を伏せている。ガタガタと病室が騒がしくなっている。そういえば僕の隣にあるベッドには昨日まで誰もいなかった。入院患者が来たのかもしれない。

「僕は岬のことが好きだ」

 はっ? と弥生は目を丸めて僕を見る。会話のつながりなんてない。驚くのも当然だ。

「急にどうしたの? そんなこと・・・知ってるよ」

「うん。でもなんだか気持ちを口に出すのが怖かった。いや、ずっと口に出すべきだったんだろうね。どうやら僕は最初の転倒からまだ立ち上がれていなかったらしい」

「何を言っているのかわからないけど・・・それは岬さんには伝えたの?」

 僕が首を横に振ると、弥生は呆れ返った表情で、肩の力を抜いた。一転して眉間みけんにシワを寄せて腕を組む。

「はい。わかりました。藤森くんは本当に最低だっていうこと。最初に言うのは私じゃなくて岬さんでしょ? 藤森くんがとっても最低で・・・ちょっと救われました」

 弥生は笑みを浮かべて、僕もまた笑みを返す。

「指が動くようになって、また臨床で働きたくなったら、弥生の働く坂ノ上病院さかのうえびょういんやとってもらえるかな?」

「それはどうかな? 藤森くんは身近にいる女性の心が、欠片もわからない残念な人だから。人生はそんなに甘くはないよ。ただ君のことを待っている人がいることは教えてあげる。守秘義務しゅひぎむがあるから詳しく教えられないけど」

「ヒントくらいはもらえないかな。守秘義務にはんしない程度に」

脊髄損傷後せきずいそんしょうご不全麻痺ふぜんまひ。加えて急性硬膜下血腫きゅうせいこうまくかけっしゅ血腫除去術後けっしゅじょきょじゅつご。誠也のことを新聞で見て、毎日笑っている。ウチよりずっと派手な人生だなって。私と同じで、残念な誠也に救われたことがあるとも言っていたね。また会いたいと」

 答えを聞かずともわかった。たとえ人生が甘くなかろうとも、臨床に戻るための理由ができた。

 努力するよと僕が返すと、弥生はいつものように笑った後で、病室の扉へと視線を向けた。

「入院さんが来ているね。邪魔にならないうちに私は退散たいさんするよ。ねぇ・・・岬さんの家に行く時は連絡して。やっぱり一度ごめんなさいをしておきたい。知之さんもすごく心配していたから。相手の男を石膏の海に沈めてやるって、息巻いきまいてた」

「やっぱり礼子さんに似ているな。賑やかで物騒すぎる。・・・うん。これからが本格的なリハビリだ」

 何事もね。と言葉をつけ加えると弥生はしばらく窓の外を眺めていた。荷物を運び込む音や入院の説明が終わったのを見計らって、じゃぁ。と弥生は立ち上がり、椅子をもとに戻すと病室から去っていった。

 僕が一息ついてると指先が傷んだ。知らず知らずのうちに力が入っていたらしい。

やっと岬と一緒の場所にいる。

「これはこれは! 藤森大先生ではございませんか! 声が聞こえてピンと来たよ」

 突然、ベッドの間をさえぎっているベージュのカーテンが開き、声がした。

 驚き僕が振り向くと、隣には見慣れたあまりに懐かしい、笑いシワへ広げた老人がいた。つるりと髪の剃られた頭にせた胸元。見た目は八十歳という年齢どおりに見えるが、声は若々しく病室に響く。

「山岸・・・さん?」

 覚えていてくれたんだな。と山岸は頭へ手を添わせる。僕が病院を辞めた時に先輩へと引き継いだ患者。杖を使って必死に歩き、誰よりも明るくリハビリを楽しんでいた患者だった。

 先輩が残したすぐにわかる。と言った意味は、彼が隣に入院してくることを知っていたからだったのか。

「どうしたんですか!? 退院していなかったんですか? 歩けるようになったって先輩から聞いていましたが」

「おうよ。今度は腰椎ようつい圧迫骨折あっぱくこっせつ。まぁ痛みがほとんどないのは不幸中の幸いだな」

 山岸は痩せた胸に手を当てる。見た所目立った外傷はない。

 腰にはコルセットが巻かれており足先はのんきに上下に動いていて、神経所見しんけいしょけんもないようだった。

「先輩は山岸さんがとても上手に歩けていたと言っていました。それこそ正常な歩き方に見えるような歩行に」

「そりゃぁ藤森大先生のおかげさ。厳しいあんたの先輩にもしごかれたがね。つい昨日の昼に退院した。そんで入院する前よりもずっと綺麗に歩けるようになって、周りのお姉ちゃんもびっくりしてた」

 周りのお姉ちゃん・・・との言葉に僕は目を細める。

「また・・・呑みに行ってたんですね」

 はっは。と山岸は乾いた笑い声をあげる。

「まぁな。退院祝いだから仕方が無いだろう? そんですっ転んだ。びっくりするだろう? たいして酔ってもいないのになぁ。お姉ちゃんたちが喜んでくれるもんだから、一世一代いっせいいちだい万歳三唱ばんざいさんしょうさ。そしてたら後ろにひっくり返ってこのざまだ。まったく神も仏もいやしねぇ」

 自業自得じごうじとくでは? と僕は頭を抱えながら笑った。

 担当患者が退院した次の日に転倒した上、こんな元気に入院してくるなど、医療従事者からしたら悪夢でしかない。

 僕の表情を見て、山岸は目を丸める。そして右手に巻かれた包帯を見て、少し考え込むと、ニヤリと頬をゆがませる。

「なるほどな。先生もやるねぇ。さっき通りかかった可愛らしいお姉ちゃんは先生の想い人かい?」

「先生は止めてください。彼女は違いますよ」

 彼女は・・・ねぇ。と山岸は顎先をゆっくりと撫でた。

「まぁ。ワシのように長く人生を生きていれば、なんでもわかる。特に異性絡いせいがらみは詳しいからな。清く正しい七転ななころび八起やおきの人生だから当然、藤森さんよりそこらへんには詳しい。新聞も読んでいたからな」

七転八倒しちてんばっとうとも言いますが・・・ちゃんと理由も知ってるじゃないですか」

「まぁな。ワシを指導してくれた先生の一大スキャンダルだ。次にあったら真っ先にからかってやろうと思ったよ。それでもまぁ。無事で何よりだ。大切な人をかばって負った傷。名誉の負傷ではあるが、大切にしても自慢にするなよ? これはワシからの助言だ」

「自慢はできませんね。もっと選択肢はあったはずなのにこうなってしまった」

「まぁそうだな。誰かをかばってできた傷は栄誉の勲章くんしょうに思う人もいるだろうが。ワシから言わせれば自傷じしょうと意味は変わらない。残った傷は誰かを縛る。自分でつけた傷もいずれは誰かを縛る。誰かを縛っていることで自分も縛ってしまう。もう満足に人生を歩めることができないくらいにな。何度も転んでばかりの俺だからわかる」

 山岸は笑っているが、とてもじゃないが笑えないと僕は目を細める。残された傷は些細な障害でも人生を縛るには十分なことを知っている。僕も高山も、岬だって同じだから。

「山岸さんは・・・強いですね」

「強くなんかねぇよ。落ち込んでるさ。ただ俺は転び慣れているからな。立ち上がることにも慣れている。強がっていつも通りに振舞ふるまう。そして交わした約束があれば約束を守る。まぁ世話になったみんなには悪いことをしたが、逆にいくら上手に歩けても、油断はしちゃならねぇと教えを説いてやる。清く正しい七転八倒な俺の人生でも、療法士の先生に教えられることくらいはあるもんだ」

「清く正しい七転び八起きだったでしょう?」

「生きているうちは、何が正しいかどうかなんてわからねぇからな。まぁ退院してすぐは、我を失うほど酒を呑むなってことも教えておいてやろう」

 きもめいじます。と僕が言うと山岸が笑い、隣り合う病床で僕も笑った。

 窓へと視線を移すと、うっすらとした雲が静かに流れているのが見える。

 正常を求めることは正しい。正しさを常に求めるのは正常な生き方だ。でも誰かと同じことが正しいことではない。周りと同じということが正常ではない。

 歩き方よりも前に進もうとする行為自体が美しいのだ。たとえ歩けなくなっても自分の力で、力が足りなくても信頼できる自分と一緒に前へ進む。

 人生という道筋みちすじで前に進もうと、もがき苦しみながら前へ前へと進む。

 それは生き方と生きるということだ。手段と目的と言えるだろう。

 まだ弱い、僕と岬が求める強さだ。

 はっきりとわかる。足を引きずりながら、正常な歩行から逸脱した岬の歩容は美しかった。どうしようもなく美しく見えた。

 正常から逸脱したとしても、美しかった

 たとえ歩けていなくても美しく感じただろう。

 僕と岬の過ごした暗い部屋での日々と同じように。

 人生において何度転倒しても立ち上がればいい。身体的な意味だけではなく、精神的な意味でも立ち上がる。次は転ばないように進む。歩けなくたって大丈夫だ。長い長い人生を美しく進み、最後まで生きるために。

 どんなに正常から逸脱したいびつな歩き方でも、前に進む。その行為自体が美しいのだから問題はない。

 たとえ歩けなくなったとしても、前には進める。

 どんな手段でも自分の人生を前に進めることができる。

 歩くというのはただの手段で、求めたのは再び前に進む目的だったのだ。

 自分をまた信じられるように。

 岬は今何を考えているだろうか。僕と同じように自分を縛ってはいないだろうか。

 正常とは違う自分を鏡に見て、前に進めなくなっているのではないだろうか。

 またひとりで立ち上がれなくなっているのではないだろか。

 それでも一緒に立ち上がればいいだけだ。お互いの体に寄り添いながら、自分では見るにえない姿勢でも何度だって立ち上がればいい。

 当たり前のことなのに難しい。七転八倒しながら立ち上がる。七つ転べば八つ起き上がればいい。何度転んでも一緒に立ち上がる。そして次は転ばないように手を替え品を替えながら前に進む。

 必死に生きている姿こそが正常ではなくても、美しいのだから。

「いい顔になったな。まぁ人生はまだまだ長い。ワシもまだまだこれから一花ひとはな咲かせるさ」

 期待しています。と僕が伝えると山岸はおおよ! と痩せた力こぶを作ってみせる。

 すると病室の扉が開く音がしてガサガサと紙袋の音がした。

「誠也! ほら着替えと差しいれ。後はリハビリ用のボール! 退院決まりそうなんだって? 早く言ってよ! もー!」

 バタバタと母は僕の隣に紙袋を置いて、手を振る山岸にどうも。と会釈えしゃくした。

「どうだ調子は? 早く良くして岬ちゃんのところにまた行かないとな。お弁当を持って。そうでないと父さんの食卓はどんどん貧しくなっている。昨日は栄養補助食品だけだ」

 うなだれる父と、床頭台に着替えを押し込めている母。父さんも料理の練習をしたら? と僕が言うと父が頭をかいた。

「いいじゃない。誠也も一緒に練習しなさいよ。リハビリにもなるし、もう女が料理する時代はとうに終わってるんだからね」

 気をつけますと棒が視線をそらすと、父と目が合った。父は僕の後ろを見て姿勢を正す。

 よぉ。と山岸の声がして、僕はふたりの顔を交互に見た。

山岸専務やまぎしせんむ・・・お久しぶりです。退職してからずいぶんと経ちますが、お元気なようで」

「おう。まだまだ元気だ。藤森って性は多いが、藤森先生にお前の面影を感じてな。それで仲良くしてたのもあるが・・・世間は狭いな」

 ですね。と緊張している父は額の汗を拭いた。なんとなくふたりの若かりし時が垣間かいま見えた。山岸に緊張する父と、僕を先生と呼ぶ父の上司。

 なんともこの世はがたく、混沌こんとんとしていても明るいと、目を白黒とさせる母と並んで僕は破顔する。人生とはうまく行かないようにできている。

 しかしうまく生きる方法はいくらでもあるのだ。立ち上がれさえすれば何度でも、求めることができる。

 岬に会いに行こうと思った。ただその前にやることがある。

 右手を軽く握ると痛みは鈍く、伝わる脈動みゃくどうが強く胸へ響いた。

 退院した日、少しずつ自分の力で指先を動かしても良いと言われた僕はさっそく自室の机に向かう。画材からスケッチブックを引っ張り出して目の前に置いた。

 下書き用に鉛筆も取り出すが、当然うまく握れない。小指と薬指で支えようとも鉛筆の先に圧をかけると指から離れて横に倒れた。

 きっとちょっと前までの僕なら、こんな些細な失敗、転倒にも挫折しただろうなと思う。でも僕はもう僕のためだけに絵を描いているわけではない。

 退院したことをきっと岬は知っているのだろう。母と礼子さんは頻繁ひんぱんに連絡を取り合っており、礼子さんが岬に伝えていないはずがなかった。

 僕がまた岬を縛っているのだろう。だからこそずっと前に交わした約束を果たすべきなのだ。そしていつも通りに岬の家を訪ねよう。たったそれだけのことだ。

 自分の患者に教えられることなんてたくさんある。ずっと僕は正常という言葉に縛られて、たったひとりでどうにかしようとした。

 岬との日々で僕は答えを求めた。再び立ち上がり、二度と転ばないように。

 ただ答えはそこにあった。目を向けようとしたらすぐに手の届く場所に。

 岬との日々が、岬の隣に並ぶことが、僕の答えだったのだから。

 僕は帰り道で購入したやわかな滑り止めシートを左手に持ったハサミで小さく切る。シートを鉛筆に巻きつけてハンドタオルで厚みを作り、ビニールテープでぐるぐると巻く。以前なら簡単に行えていた作業もとても時間がかかった。

 太さを増した鉛筆は、僕の右手から滑り落ちることなく支えられた。

 よし。僕はゆっくりと真っ白なスケッチブックに線を引く。ガタガタとして以前とはまったく違う線。指先に入る力で痛みを感じて固まった肩の力を一度抜いた。

 そして何度も僕は線を引く。スケッチブックに余白が少なくなると右手は重く痛みを増した。でも感じる痛みは心地よかった。

 痛みが避けるべきなのに、感じる痛みが僕を前に進めてくれている。

 白衣を着たライオン。ライオット伯爵と名づけられたキャラクター。外見は力強くても心はきっと繊細せんさいなのだ。ちょっとしたことで自分を見失ってしまう雄々おおしきライオン。ライオンにも立派な家族がいる。

 たてがみはなくスラリとした体付きの美しいめすのライオン。優しく微笑ほほえんでいながらも眼光がんこうは鋭い。華奢に見える長い手足は腰に添えられている。繊細なライオンを支えるほどに強いまっすぐと向けられた眼光だ。

 きっと互いに足りない部分を支え合いながら生きている。子供もふたりにはいるだろう。まだ苦難も知らない、好奇心と日々への希望へ満ちた瞳で駆け回る小さなライオン。

 手足を伸ばしスケッチブックの中を駆け回る。幸せなライオンの家族を描きながら、僕の心は自由だった。

 スケッチブックの上はどこまでも広がっていて線が軽い。

 最初は同じ気持ちだったなと僕は流れる汗を拭う。僕の描いた絵を岬は喜んでくれるだろうか。そんな想いだ。描き終わり僕は背もたれに身を預けて天井を見上げる。

 じくじくと鼓動の音と一緒に痛む右手。震える指先はまだまだ動く。

 いつの間にか部屋に西日が深く差し込んでいた。僕はスケッチブックを折りたたみ紙袋へと入れ部屋を出る。

 階段を降りて玄関で靴を履いていると母が現れた。キッチンからは甘辛い匂いが漂っている。

「はい。岬ちゃんの家に行くんでしょう? お弁当。ふたりで食べてね」

「ありがとう。でもよくわかったね」

「そりゃもちろん。あんたは私の息子だし、岬ちゃんは私の娘みたいなもんだから」

 それにね・・・と母は何か言いたげに頬を緩める。そして僕をまっすぐ見て口を開いた。

「また岬ちゃんをうちに連れてくるんだよ。お礼をたくさんしなきゃならないから」

 そうだね。と僕が言うと母は破顔してうなずいた。ずっと僕を見ていた母だから、岬に再び立ち上がらせてもらったことにも気がついてるのだろう。

 母からもらった紙袋を左手に持って僕は包帯に巻かれた右手でドアを開ける。指先は伸びなくてもドアは押し開くことができる。

 家を出て影が深く伸びる坂道を僕は登る。途中学校帰りの小さな子供たちとすれ違った。

 坂道の多いこの街で僕と岬は育った。坂道が当たり前のようにある街では、誰もが坂道を坂道だと考えない。でも、それは何不自由ない時のことであって、少しの転倒で日常から自分を突き放す障害となる。日常を失って初めて坂道を認識するのだ。

 右手に傷を負った僕だって同じことで、入院生活で体力の落ちた僕はどうしようもなく坂道が長く感じる。重たい体とは裏腹に気持ちが立ち止まることを許さない。

 岬の家の前にある長い急な坂道。息を切らしながら坂道を登ると岬の家が見えた。

 手作りの縁側と軒先の向こうにある岬の部屋。部屋は分厚い遮光カーテンに包まれている。

 僕は縁側へと腰を下ろしてガラス戸をノックする。そういえば小さい頃もこんな風に岬を呼んでいた。子供の頃に戻ったみたいだと懐かしさが心を満たし、ちょっとだけ切ない。

 岬は答えなかった。部屋の中は静まりかえっている。

 やっぱり出直すべきかな。僕がぼんやりと山間に沈んでいく色味を増した太陽を眺めていると、玄関のドアが開いた。そして開かれたドアの向こうには岬が立っている。

「どうして理学療法士さんってこうなのかな? 熱を出していない限り、リハビリを休ませてはくれない」

 西日の作り出す影が岬の輪郭をはっきりと見せる。柔らかく吹いた風がフレアスカートを揺らし、黒く磨かれた装具が見えた。揃いのスニーカーは幅を均等に並んでいた。

「もちろんひとりで、自立して歩けるまでだね。退院して胸を張って生きていけるまでそばにいる。リハビリにはとても長い時間がかかるんだ」

 知っている。と岬は歩き出す。左足を踏み出して滑らかに重心を乗せる。もう足を引きずることもなく背筋もまっすぐに伸びていた。

「ひとりで練習してたんだよ。言われたことを守って。足を踏み出したら踵から地面に置く。体をかたむけずに体重を乗せたらしっかりと足首が伸びるまで支える。そしてもう片方の足を前に踏み出す」

 知ってる。と僕も岬に返す。岬は頬を緩めると僕の隣に腰かけた。

「歩く姿が綺麗だよ。もうすぐ、ひとりでも外出できるね」

「ひとりで外出できたら、誠也はどこかに行ってしまう?」

 岬は足を伸ばして夕焼けの空を見上げる。僕からの答えを待つ口ぶりに僕は首を横に振る。

「まず評価しなければならないよ。練習も必要だ。何度も確かめて転倒のリスクがないか確かめる。もう転んでしまわないように。外も平坦へいたんな道ばかりじゃないから」

「時間がかかるなぁ。誠也は私がひとりで歩けるまで、ずっと一緒にいなきゃならない。ひとりで歩けても、そして歩けないとしても一緒にいなければ嫌だ」

「僕は岬の理学療法士だから。ずっと一緒にいるよ。僕は・・・岬が好きだから」

 知ってる。と僕を向いて岬は口角をゆっくりと上げて微笑む。オレンジ色の光を透過した岬の髪が黄金色おうごんいろに見えた。

「私も誠也が好きだよ。ずっと前から。なんでこう・・・人生はうまくいかないことばかりなんだろうねぇ。山あり谷あり。上り坂もあれば下り坂もある。平坦な道ばかりだったら私も歩きやすいのにね。転んじゃうこともない」

「でもさ。転んで学べることもたくさんある。転ばないように、また歩き出すこともできる。歩けなくなったとしても、次の手段を考える。前に進むために。歩くことは手段であって目的ではないから。正しくとも正しくなくとも関係はない。美しくさえあればいい。これが自分だと胸が張れるくらいに」

 まさしくリハビリテーションだ。と岬が言って、まぎれもなくリハビリテーションだよ。と僕は答える。

 岬は一度僕の右手に巻かれた包帯を見て、僕の肩へ体を預ける。

 僕は紙袋の中から、スケッチブックを取り出して膝の上で広げて岬に見せた。

「ちゃんと約束守ってくれたんだね。一方的な約束だったけど。ちゃんとライオット伯爵に家族がいる。すごく上手に描けてるじゃん」

「ガタガタの線で、見るに堪えないけどね」

「でも・・・生きてるって感じがする」

「あぁ。生きようと思える」

 岬は僕に体を預けたまま右手でそっとスケッチブックに触れる。

「ライオット伯爵の奥さんと子供の名前は何にしようか?」

「それは・・・思い付かないな」

 なら・・・もうちょっとだね。と岬は笑みを浮かべたまま、家の前にある坂道を見る。

 ああ。もうちょっとだねと僕は岬の隣で坂道に視線を向ける。

 はるか遠くにあった坂道は今ではすぐ近くに見えていた。

 それでも僕たちの日々はずっと続いていく。

 僕たちは辺りが夜のとばりに包まれるまで、ずっとふたりで坂道を眺めていた。

 季節が少しだけ巡り、桜は散って山々は新緑に包まれていた。大気は梅雨つゆに向けて濃度を増している。空には雲ひとつなく風が暖かく流れていた。

 僕と岬のリハビリも進み、僕の右手からは包帯が取れて、傷跡が指のシワに隠れて目立たなくなっていた。まだ満足には動かせないけれど、日常生活には困らない。

 重いものを持つことは医者から止められているけれど、痛みは失われていた。

 岬も装具を使って平坦な道なら問題なく歩けるようになっていた。家の前にある坂道を除いたのならほとんど障害がなかった頃と変わらない。

 ただ僕たちはもう決定的に違う。転倒してから変わってしまった。

 きっと思い描いていた人生よりもずっと良い方向に変わったと思う。

 僕が岬と再会してから半年も経っていないのに、何年も一緒にいたかように思えてしまう。

 僕と岬が失った時間をとてつもない速度と濃度で満たす日々だった。

 いつものように坂道を登ると新井製作所あらいせいさくじょの車が見える。

「おーい! おっそいねん。人を呼んでおいて待たせるなんてどういうつもりや」

 知之ともゆきが腕を振り、笑いを含ませた声をあげる。隣には弥生が立ち、おそいよー! と言った。

 僕はふたりの前に立ち、あのなぁ。と腰に手を当てた。

「僕の家に寄ってくれても良かっただろう。そうしたら待たせることなんてなかった」

「いやいや。これもリハビリやろ。しゃんとしや」

 知之は僕の右手に視線を向けると。すっかりええ感じやな。と目尻を緩めた。

「ごめんね。でもお邪魔じゃなかった?」

 弥生は視線を僕と知之を行ったり来たりさせながら言った。弥生に僕ではなく知之が首を横に振って応える。

「いやいや。全然そんなことあらへんよー。自分も付いていきたいって言ったんは弥生ちゃんの方やないの?」

 それはそうだけど。と弥生は目線を伏せる。

「坂道を明日、下ってみようと思う」

 つい昨日、岬は僕をしっかりと見て言った。筋力やバランス能力的には十分だと思っていたけれど、気持ちの準備は岬に任せていた。急ぐことでもないし、平地を歩くとはわけが違う。恐怖心はまだあるだろう。

「おばあちゃんは来月退院だって。だからそれまでには、もとどおりになっておきたいの」

 岬の申し出に僕はうなずいた。ただひとつ義肢装具士ぎしそうぐしである知之を呼ぶことも伝える。

 平地を歩くにはずっと負荷がかかる動作だから、僕だけで判断するのは不安だったし、助言も欲しかった。

 そのことを弥生にも話すと、私も付いていくと言った。そして弥生は知之の隣にいる。岬の気持ちを考えるとこんなに人を集めるのはどうかも思った。

 しかし岬は歩くのを隠す必要はないと伝えたかった。誰が見ても綺麗であると。

 自信を持って再び社会に出ていけるように、誰と会っても自信が持てるように。

 自分の歩き方をもう嫌いにならないように。せめて見知った人だけでも集めて綺麗だと伝えたかった。岬は最初こそ眉間にシワを寄せたが、僕の気持ちを察したのか、いいよ。と困ったような笑みを浮かべ、今日の日を迎えたのだ。

「それで岬は? まだ家の中にいるの?」

「あんなぁ。岬さんを迎えに行くのが藤森ふじもりくんの役目やろ。なんかこういうところだけみょうに抜けてんなぁ」

 呆れる知之に、弥生も隣でうんうん。と腕を組んで首を縦に振る。わかったよ。とふたりの前を通り玄関の扉へと手をかけようとすると、玄関の扉は開いた。

 岬は真っ赤なドレスを着て立っていた。

 肩は大きく開かれてふわりと浮いたスカートの下にはまだスニーカーである。

 黒髪はいつも以上につややかに、化粧でいろどられた頬は軽いピンクに染められている。細い唇は朱に染まっており、どうかな? と岬は照れくさそうに前髪を整えた。

「約束だったでしょ? 赤いドレスで着飾って、私はまわしき坂道を下ってやるの。装具を履いたままだと、まだ高いヒールはさすがに履けなかったけどね。せっかくちょっと大きめのサイズを買ったんだけどな」

 うん。と岬に目を奪われたままの僕は頭を後ろから強く叩かれる。

「ほんまアホか! 素敵な岬さんに、めっちゃ綺麗です。おろかな僕の頭を踏んでください! とか言えんのか!」

 振り向くと口を尖らせた知之がいて、僕は頭をさすりながら知之へと眉を吊り上げる。

「すごく綺麗で言葉を失っただけだよ」

 ありがとう。と岬の頬は朱へと色を変え、ようやった。と知之がなぜか自慢げに腕を組む。

 あの・・・と弥生が僕たちの間を割って入り岬を見上げた。

「私・・・謝らなきゃいけないことが会って・・・誠也が怪我した夜。本当ならもっと早く連絡するべきだったんです。それなのに私・・・岬さんと誠也が・・・」

 うつむきながら話す弥生へと岬は足を一歩踏み出し、弥生の額を左手でこずく。

「大丈夫。最後まで言わなくていいよ。でもごめんな。もう彼は私の藤森誠也なんだ」

 はい。と弥生は頬を和らげ笑みを浮かべる。知之がひゅぅ。とわざとらしく口笛を鳴らし、今度は僕の頬が朱に染まる。

「あーそうそう! 岬さん大丈夫やで! ヒールは履ける! そのための装具を作るってことやったさかいな。岬さんはお買いにあった素敵な履物も持って来てもろうてもええですか? うらやまけしからん藤森くんは・・・ほれ!」

 知之はL字型の細い六角レンチを僕に投げ、危なっかしく僕は受け取る。

「言わんとしていることはわかったけど、僕が調整するのか?」

「もちろんや。いつだって最後はそうやったやろう? 五度刻みの調整なら誰でもできるけど、そっから先の一度未満の調整は担当の手が知っとるねん。やから任す。最後までやりや!」

 誰の台詞だったかな。と知之の台詞の出所を考えていると、岬は一足の靴を持ってきた。ヒールが高すぎなくて幅広く、磨かれた赤い皮は陽の光を反射して艶やかだ。

 爪先は細く傾斜が付いている。岬が望んだヒールの靴。普通ならば装具をつけての歩行には向かない。だがそれはあくまで僕の知る正常ならばという話だ。

「岬。ちょっと腰かけてくれないか? 装具の調整をするから」

「装具の調整って、ヒールを履けるような調整なんてあるの?」

「もちろんや! そのために後方の支柱は硬めにしとるからな。もしあかんかったら遠慮なく藤森療法士を恨んでくれてええからな!」

 ちょっと知之くん。と弥生が知之の袖を引き、知之はうらやまけしからん! と鼻を鳴らした。

 僕は右手でレンチを握る。細い鉄のレンチをうまくつまむことはまだできない。でも左手があり、左手を右手で支えることができる。

 軒先のきさきにある手作りの縁側えんがわへ腰を下ろした岬は、装具を履いた左足を僕へと差し出した。後方へ伸びる支柱から足元のシェルへとつながる間に、足の角度を調整する機構きこうがある。

 この機構はつまずかないよう角度を地面と平行に調整してあるままだ。

 僕は片膝を付き、岬の左足を自身の膝上に乗せる。枝のようだったふくらはぎにも筋肉が付き、華奢きゃしゃではあるけど病的には見えなかった。

「本当のお姫さまになった気分がするよ。誠也。よしなに頼むよ」

 岬の言葉に僕はうなずいて返す。妙に緊張した。後ろで知之と弥生が覗き込んでいるからではなく、装具はもう岬の一部だ。坂を下るための、岬がまた日常に心から戻れるための大切な足。

 慣れない左手でレンチを操作し手先がおぼつかない。右手で支えてゆっくりと金具を回す。回す角度に合わせて岬の足先はゆっくりと下がってくる。最初にリハビリを始めた時の固く尖った足のように。でも前の足とはまったく違う。

 ヒールを履いたまま坂道を下るという僕と岬の意思でつけられた角度。前に進むために必要な角度だ。

 額に汗をかいているのがわかる。ヒールの角度に合わせて足先を下げ、しっかりと固定されているのを確認する。そして岬からヒールの左側を受け取りそっと履かせた。

 角度は申し分ないくらいにちょうど良く、少しだけ大きなヒールに踵も綺麗に収まる。

 収まったのを確認して僕が肩の力を抜くと、岬は右足を僕に差し出す。

 ねぇ。こっちも。と岬が言って僕は仕方がないと右足にもヒールを履かせた。

「それじゃ一度立ってみようか。普段立つ姿勢とは違って踵にしっかりと重心を乗せる。指先へと体重を乗せると膝が後ろに押されて痛みにつながるから」

「知っているよ。私は誠也と違って何度もヒールを履いたことがあるから」

 そりゃそうや。と知之の声が聞こえて、ちょっと。と弥生がたしなめる声も聞こえた。

 岬が立ち上がる速度に合わせて僕も立ち上がる。

 わずかに伸びた岬の目線は僕の正面で目尻を緩めた。

「ちょっとまだ慣れないけど・・・立ち上がれたね。あんなに不安だったのに。足首がしっかりと支えられて、ちゃんと地に足が付いている気分だよ」

 ありがとう。と岬は口元だけを動かして言った。

「ふふーん。やっぱりええ感じになったなぁ。そんで後ろの支柱があるやろ? 支柱の硬さがまた絶妙やねん! シェルもカーボンで作っているしな、その粘りがええ感じに立ってる感覚になるし安心するねんな。美咲さんによう似合っとる! まぁ俺の主観やけど」

 どや。と精一杯に身を反らせる知之にありがとうございます。と岬は軽く頭を下げた。

「さてこれからが本番だね」

 弥生は両手を胸元で握って言った。僕は岬の隣に並び、同じ目線で家の前に立ちはだかっている坂道を見る。

 岬は右手を僕の左手に回し、僕は岬をしっかりと支えた。

 歩き出そうとした瞬間、しっかしなぁ。と知之が呆れたようにため息を吐く。

「なんで藤森くんは普通の服装やねん。燕尾服えんびふくとか着込んでこんと・・・格好がつかへんなぁ。お姫さまと平々凡々へいへいぼんぼんな村人やないか」

「そこまでは気が回らなかった。知之の言う通りにするべきだったよ。隣に立つと僕だけが浮いている」

 本当だね。と弥生も知之に同意して、岬が口に手を当て笑う。それでいいよ。とも言った。

 そして岬は左足を一歩前に踏み出す。左足へ右足を揃える時に少しふらつき僕は左手に力を込める。

「まだ練習してからにする? やっぱり難易度は高いかもしれない。平地からもっと段階を踏んで・・・」

 僕が言い終わる前に岬は大丈夫。と足元に落とした視線を再び前へと向ける。

「ここまで来たんだから。最後まで行こう。もう大丈夫だから」

 岬は左足を前に進め、右足は左足を追い越す。今度はふらつかずに交互に足を進めた。

「いよいよだね。しかし急な坂道だな。坂の上から見るのと見上げるのとではこんなに違う」

「登るのに時間はかかるけど、下るのは一瞬だ。人生と一緒だね」

 岬の左足は坂道へと降ろされる。足は恐る恐ると踏み出され、僕は岬と同じ歩幅で坂を下り始める。

「ちゃんと坂道を下れているね。五年振りかな。もっと長い時間だったようにも感じる」

「長いね。本当に長い間頑張ったね」

「頑張ったのかな。私よりずっと重い障害で頑張っている人はいる。歩けるだけで恵まれている。でもやっぱりね・・・その人たちと比べて自分はなんてダメなやつなんだって何度も思った。今でもそう考えてしまうのは、やっぱり変わらないよ。私の左足が動かなくなっただけで、私はこんなに歩くのが大変だ。まだ怖い。転んでしまうのが、立ち上がれなくなるのがまだ怖い」

 岬はゆっくりと坂を下る。踏み出す歩幅に合わせて、次第に岬の視線は足元から離れていく。

「もし私が歩けないほどの大怪我をしていても、誠也は隣にいてくれた?」

「変わらないよ。僕は岬の理学療法士なんだ」

 立派だな。と岬を意志で芯を通した視線のまま、坂を見下ろし肩の力を抜いた。

「一緒に前へ進もう。坂道を下ろう。そしてこれからもずっと一緒にいよう」

「理学療法士として?」

「いや。藤森誠也として」

「それなら三つ目も許す。許してあげる」

 僕はうなずき、岬は足を踏み出す。足元を見ていなくても自然に足は交互に坂を下っている。僕もまた視線の先を岬と合わせた。

「坂を下り終わったらさ、まずはお互い仕事を見つけないとね」

「立派な社会復帰のためのリハビリだ」

「でも忘れないで。まだ怖いけど、坂を下り終わったら、一緒に自信を持って、自分は美しいんだって思える生き方をしよう。どんなに年老いたとしても、何度転んだとしても、たとえ立てなくなったとしても、歩けないとしても胸を張って生きよう」

 もちろんだ。坂道の終わりはもう見えている。坂道の終わりには曲がり角があって、生まれ育った街が良く見える場所だ。

 その時、曲がり角から一台の普通車が坂へと向ってきた。

 僕たちは足を止めて坂道の端により、車が通りすぎるのを待った。しかし車は通りすぎることもなく僕たちの隣で停車した。何事だろうと一緒に車を見る。

「ちょっと! ひとりで外に出ないで! 危ないですよ!」

 男性の声が響き、後部座席の扉が開いた。腰の曲がった老女が、満面の笑みで坂道へと降りようとしている。

「岬! それに誠也ちゃんまで! せっかく驚かそうと思ったのに!」

 まだ入院しているはずの礼子が私服で姿を現し、目を丸めて立ち止まる僕たちへと手を振った。礼子は少女のように手を振りながら、まぁまぁ。と頬を緩めながら立っている。

「今日は家屋調査かおくちょうさって言って、家でリハビリの日だったの。驚かせようと黙ってたけど、おばあちゃんが驚いちゃったわ。実は岬には電話で伝えているって、お医者さんに嘘ついちゃったの」

 クスクスと笑う礼子の姿に僕と岬が唖然あぜんとしていると、杖を持った青いスクラブ姿の療法士が運転席から礼子へと駆け寄るのが見えた。

「礼子さん危ない! 杖を持って!」

そうだったわね。と礼子が杖を受け取ろうと振り向いた時、後ろへ大きくふらついた。

 危ない! と岬が手を伸ばそうとし盛大に右膝が折れる。僕へと寄りかかりながら倒れる岬を僕は両手で支え、岬は僕の体を強く抱いた。

 倒れながら僕は左手を岬の頭に立てて抱き寄せる。僕たちは抱き合う形で坂道に倒れ、倒れながら僕は礼子さんが療法士に支えられるのが見えた。

 坂道の上からは知之と弥生が、大丈夫!? と駆け寄ってくる音が聞こえる。

 横倒しになった僕の眼前には目を丸めた岬の大きな瞳が映る。僕たちは顔を見合わせ、そして笑った。こんなに注意していても予想外のことで転んでしまう。

 今度こそふたり同時に、文字通り転んでしまったことがどうしようもなくおかしかった。

 僕は左手を岬の頭に当てたまま仰向けになる。岬も同じく空を仰ぐ。

 右手を岬に見えるように突き出すと岬が左手を添え、僕は岬に指先を動かして見せる。

「まだ指は動く」

 岬は左足を僕に見えるように上げた。

「うん。私の足もまだ動く。安心したでしょう? 足首から先は動かなくとも爪先が前を向いている」

 岬は足を下ろすと、ねぇ・・・と岬が口を開き、互いに横を向き、視線を合わせる。

「誠也はさ。転び方を指導したことはあった?」

「なかったかな。転ばない方法ばかりを教えていたよ」

「なら君は正常で正しい動作よりも、もっと私に指導するべきことがあったよ。立ち上がり方や前への進み方だけではなく、私にとっての正しい転び方だ」

「岬にとっての正しい転び方?」

「そう。この忌々いまいましい坂道での転び方だよ。特別に教えてあげる。取るに足らない理由で転倒する時、誠也はしっかりと私を抱きとめなければならない。そして一緒に転倒した後には必ず仰向けになること。なぜなら・・・」

 なぜなら? 僕が言葉の続きを待っていると岬はこわばった体を弛緩させ、暖かな路面に身を委ねたまま笑う。そして空を見上げて僕は岬の視線に目先を沿わせる。

「空がこんなにも綺麗だから。今度からは私は何度でも・・・転倒してやってもいい」

 僕は岬の隣で空を眺めた。途方もなく広がる青空が視界を埋め尽くしている。

 騒がしい周りの声がだんだんと離れて、目に見える世界にはふたりだけしかいなかった。

 転倒から立ちあがろうとする意志を持ち、転んだままだとしても、そこから見上げる空ほど美しい。

 僕と岬はこれから何度転んでもすぐに立ち上がれるのだろう。

 歩くどころか立ち上がる力が体から失われても、立ち上がり前に進める。

 こんなにも急な坂道で、素敵な転び方を知ることができたのだから。

                       『坂道と転び方 了』

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→《書き下ろし》「呪われた私と、私が呪った理学療法士」

※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。登場する内容は一人のセラピストの意見ですのでご容赦ください。


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