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動物としてのバランス

物事の行いやすさというのは、体系化された手法の中にあるのではなく、もともとの身体の感覚がもつ性質に忠実かどうかだと思っている。

手法から入るのではなく……

いまから10年以上前に「デザイン思考」の本を書いたときも、デザイン思考を手法として利用する以前に、自身の感覚を研ぎ澄ませて、感覚に従った判断ができるようになっていないと、オブザベーションも、KJ法を使った発想もできないと思って書いた。
すこし前に「理解力と転換力」という記事で、手法だけでは足りず教養が必要だと書いたのも、手法よりも教養という記憶の延長にあるものの方が、身体に伴う機能に親和性が高く、すぐに思考を含めた行動に結びつきやすいと思っているからだ。

手法から入ってしまうと知識と身体の連動がうまくいかない。
だって、手法としての体系化する際の説明はたいてい間違ってたり、説明を欠いていたりするから。それでは考えることと身体の動きがバラバラになってしまい、バタバタしてしまう。

そんなわけで、僕は手法から入る人はそれに気づくことなく手法に頼ってしまうので、動物としてのセンスが悪く、バランスが取れてない人だなと思う。

感覚―運動

そんなことを思ったのは、しばらく他の本を読んでいて読むのを中断していたアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を再び読みはじめたからだ。

最初に読みはじめたときもうすうす感じていたが、ベルクソンという哲学者は本当に動物としてのバランスの良い哲学者だと感じる。

とにかく人間的な知に騙されることなく、動物としての自然な反応、物理的に自然な反応まで遡って、人間の感覚や記憶といったものを思考できる。この本が「物質と記憶」と名付けられるのもきわめて納得がいくもので、ベルクソン以前の哲学が陥ったような実在論と観念論の対立のような、いずれも現実世界の理屈に合わない思想の対立に欺かれることなく、別の解を導き出す。

われわれの感覚と知覚の関係は、われわれの身体の現実的行為と身体の可能的ないし潜在的な行為との関係に等しい。身体の潜在的行為は、身体以外の諸対象に関わるものなので、それら対象の中のほうに描き示されるが、身体の現実的行為のほうは、身体自身に関わるもので、それゆえ身体内部に描かれるのである。

ベルクソンはこのように、感覚と知覚を分け、前者を「身体内部にの中のほうに描かれる」まだ潜在的な状態にある行為に関連したものとし、後者を「対象の中のほうに描き示される」現実の行為に関連するものとした。

このベルクソンの思考がバランスが取れていると思うのは、この2つの区別が次のような動物的な生の条件に結びつくものと彼が考えたゆえのものだからだ。

身体からは一定の隔たりで切り離されている対象の知覚は、潜在的行為以外のものを決して示さない。だが、その対象とわれわれの身体との距離が減少するにつれて、ということは言い換えると、危険がより切迫したものになったり、期待がいっそう目前のものになったりするのに比例して、潜在的行為はますます現実的行為に変じようとする。

感覚が、危険や期待と関連づくのは、それが運動を伴うものだからだ。
危険を感覚すれば逃げる運動が生起するし、期待を感覚すれば身体は対象に近寄る動きを見せるだろう。

感覚―運動が、動物的なものであるとしたら、運動に直結しない知覚のほうは人間的なものといえる。

一般観念と類似

一般観念を人間はどうやって見出すか?という話に関しても、同様なバランスの良さを感じる思考が展開される。

例えば、個別の犬をみて、それらに共通する「犬」という一般観念を人はどうつくりだせるか?が問われるとき、ベルクソン以前の思考においては、ある堂々巡りが生じていた。

一般観念を見出すためには個物のなかに共通点を探そうとすることが必要だが、そもそも個物のなかに共通点を見つけるためには、一般観念が存在するという前提が必要になるという堂々巡りの循環がはじまってしまう。

けれど、ベルクソンはそれは最初に、一般観念を前提としてしまうからだと、循環を抜け出す出口を見出す。そもそも一般観念なんて人間的なものが最初から存在するわけではない、と。そんな人間的なものがなくても、ほかの動物でも、あるいは植物でも、自分に必要なものを、ほかの不必要なものから見つけ出すことができるではないか、と。

鉱物から植物、植物からごく単純な意識をもつ生物、動物から人間と進みながら、事物や生物が自分を引きつけるもの、実践上の関心を引くものを自分の周囲でつかまえる働きの進展を、ずっとたどっていけるのだ。そして、これらの事物や生物には、わざわざ抽象を行う必要がない。理由は単純であって、周囲にあるそれ以外のものは、当の事物や生物に対して、そもそも何の関係ももつことがないからだ。表面的にはさまざまに異なる作用に対する反作用の側の同一性こそ、人間の意識が一般観念にまで発展させる元の萌芽なのである。

自分の栄養になるものは何で、自分の生命を脅かすものが何かを、動物にしろ、植物にしろ知っている。それは人間と同じような知識ではないにせよ、植物も動物も自分に有益なものと害になるものを、それ以外の自分にとってはどうでもいいものから区別できる。それは一般観念や個物の認識などができる以前に可能なことだ。

その曖昧なところはあっても生命にとって有益な類似の認識が、人間の知覚において抽象化されたものが、一般観念であるとベルクソンは考える。

われわれの出発点は、個物の知覚でも類の概念でもなく、むしろ、ある中間的な認識、特徴的性質ないし類似についての漠然とした感じであろう。それは完全に概念とされた一般性からも、きっぱりと知覚された個体性からも等しく隔たったものだが、この感じこそが、それら両者を、次第に分離させる形で生み出す。反省的分析がそれを純粋化していくと一般観念になり、区別を行う記憶力がそれを固体化していくと個物の知覚になるのだ。

この流れであれば、堂々巡りの循環などはそもそも起こらない。

こういう既存の思考の罠にはまらず、広い視点をもって明晰な思考を導き出せる点にベルクソンのバランスの良さを感じる。

常識に囚われない、研ぎ澄まされた感覚を育てる

既存の知のフレームワークでうまく説明できないことがあるときに、それにこだわらない目をもてるということ。それは袋小路にはまった思考や状況を抜け出すための武器になる。

それには人間的な思考、常識的な思考、手法やルールといったものに囚われない、現実に沿った思考に立ち戻り、自分の感覚に忠実になって物事を考え直すことのできる自由な思考ができる必要がある。

もちろん、そうした思考を発動させるためには、まずいま展開されている思考のおかしさに、ベルクソンのように気づかないといけない。目の前の人が当たり前のようにしゃべっていること、人々が当たり前のように繰り返している行動に、「あれ、なんかおかしくない?」って感じられるセンスがほしい。

それは日々をどう生き、どう考えるかに関わっているし、そのなかで自分の感覚を研ぎ澄ませていくために、どんなトレーニングを自分に課すかである。反復的な練習が欠かせないと思うが、それについてもベルクソンはこんなバランスのよい発言をしている。

反覆と練習による進歩というのも、最初は内に含まれていたものを取り出して、要素的運動の1つ1つに自律性を与えて的確さを確保すること、ただし個々の運動は他の運動と緊密に連帯していなければ役に立たなくなるからには、この連帯性は保っておくということに尽きる。習慣は努力の反覆によって獲得されるというのは正しいが、反覆される努力がいつも同じことを再生するだけだとしたら、そんなものが何の役に立つだろう。反覆の本当の効果とは、まずは分解し、その次に再構成し、そうやって身体の理解力に訴えかけることなのだ。

「反覆される努力がいつも同じことを再生するだけだとしたら、そんなものが何の役に立つだろう」。
まさにそうだ。こういう指摘を普通にできるベルクソンのバランス感。
それはおそらく反復的な努力が大事だ!なんて言説が当たり前に信じられてしまうことに違和感を感じとれる、常識に惑わされない自分の感覚や思考への素直さゆえなのだろうと思う。

自分自身の感覚をもとに思考でき、自分の言葉でそれを組み立てるということ。
それはなんて素敵なことだろう、とベルクソンの本を読んでいると、あらためて感じる。

こういう風に考えられるようになりたいものだ。

さて4章を読みはじめよう。


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