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パリとローマのエジプトかぶれ

今回、ローマとパリを旅行する前に、バルトルシャイティスの『イシス探求』を読んでいた。
きっかけはヤン・アスマンの『エジプト人モーセ』を読んだことだ。ヨーロッパとエジプトのつながりに興味を持ったので、エジプトの女神イシスを題材にしたバルトルシャイティスの本を手にとったのだった。これが旅行直前の心理状況において、殊の外、興味をそそる内容だった。

こんなことが書かれていた。
「パリは河の中に作られた都市であり船をシンボルとしている。この船とはイシスの象徴である」と。セーヌ川の中州であるシテ島がパリのはじまりであることくらいは知っていた。しかし、このイシスの「船はバリス Baris と呼ばれた。この発音がガリアの訛りのせいでパリ Paris となった」というのを知ると俄然興味が出てきた。

イシスの船という名の街パリ。
そして、たくさんのオベリスクが建つ街ローマ。
この2つの街をまわる際の裏テーマとして「エジプト探求」を置いたのはそんな理由だった。

オベリスク

実際、今回は何本ものオベリスクを見かけた旅だった。

なんでこんなにあるんだろうと、あらためて調べてみて驚いた。
Wikipedeiaによれば現存する古代オベリスクは30本あり、そのうち13本がローマにあるのだという。これはエジプトに残る7本より多い。

ローマ帝国時代に戦利品として略奪されたものが多いのはわかるが、エジプト自体に残存するものがこれほど少ないのは、ちょっと予想外だった。

確かに今回見た記憶のあるものでも、ナヴォーナ広場、ポポロ広場、スペイン広場、クイリナーレ広場、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、パンテオンのものがある。

さらに、サン・ピエトロ広場といったカトリック総本山のサン・ピエトロ大聖堂の目の前にさえ、太陽信仰を模式化した異教そのもののようなものが存在していることにも違和感を覚えながらみた。

これに、パリのコンコルド広場のものを加えると、今回だけで8本の古代オベリスクを見たことになる。エジプトに残っているものの数を簡単に超えてしまった。
あまりに多い。

ピラミッド

オベリスク同様、ピラミッドもいくつか見かけた。「同様」といってよいかはわからないが、まあ、見た。

まず、わかりやすいところでいうと、ルーヴル美術館のピラミッドがある。
このルーヴルのピラミッド、今年でちょうど30周年だそうだ。

このピラミッドが、シャンゼリゼ通りの先のエトワールの凱旋門からコンコルド広場のオベリスク、そして、カルーゼル凱旋門を通ってほぼ一直線に並んでいるのはよく知られている。
しかし、このピラミッドの位置、実はエトワール、オベリスク、カルーゼル、そしてルーブル美術館をつなぐ軸からは左に6度ズレている。
このズレは、もともとコンコルド広場のオベリスクがあった場所でもあるルクソール神殿がその内部で6度ズレた形で作られているのに対応したものだそう。
これはさっき調べていて知ったことなのだが、まったく、どれだけ、エジプトかぶれなのだろうか。

さて、パリのピラミッドが20世紀の産物でしかない一方、ローマのピラミッドは紀元前18年から12年の間に建造されたものだ。よく知られるエジプトのピラミッドより鋭角なつくりをしている。本物よりはるかに小さいが、まあ、それなりには大きい。

古いとはいえ、エジプトのファラオの王の墓ではなく、古代ローマの執政官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓だという。

つまり、結局はこれも時代は2000年以上も前のものだとはいえ、やはりエジプトかぶれの結果だということだ。

スフィンクス

ピラミッドはもちろん、オベリスクよりも頻繁に見かけたのは、スフィンクスだ。
噴水などの傍らにつくられた彫刻の形のものをはじめ、国家的な組織の建物のサインのような形で用いられていたり、絵画の中にも登場していたりと、象徴的な謎掛けで知られるハイブリッドな創造的生き物は、ローマでも、パリでも頻繁にみかけた。

例えば、ローマから1時間ほどの街ティヴォリにあるヴィッラ・デステの庭には、こんなスフィンクスの噴水。

パリのパレ・ロワイヤルの脇にある憲法評議会にも扉の上にもこんな形でスフィンクスの姿が見かけられた。

あまりに頻繁に見かけたので写真に残っていないものが多いが、記憶に残るものでもポポロ広場の楕円形に囲む枠にもスフィンクスがズラリと並んでいたのを覚えている。

イシス

そして、本題ともいえるイシスである。

まずは、ルーブル美術館で見つけた本家本元のエジプトにおけるイシスの像。
ナイル河畔のサイスにあったイシス神殿の銘文に「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」と言われるように、イシスの像はこのように顔を隠した形だったり、銘文どおり布をかけた形で表現されることがある。

そして、イシス像のもうひとつの特徴は、このように頭に建物あるいは椅子の形状をした縦長の四角いものを乗せた形で表現される点だ。これは兄であり夫であるオシリスの玉座だとされる。

だから、グラン・パレで行われていた「月展」で見つけた下の像も、イシスと明示されてはいなかった月の女神の像もおそらくイシスだと断定できる。イシスも月の女神だとされるからだ(オシリスが太陽神である)。

だから、この石版に登場するにもイシスだとわかる。

大地母神

このイシスが、エジプトを離れ、様々な土地の女神を習合させて変化していく。
その習合の際、ポイントになるのは、バルトルシャイティスが以下のような語源をもとに示すイシスの性質である。

イシスが万物と神々の劫初に姿を現わすのは、語源から言って明らかである。それは、まずイシスという名前の音声構造を調べれば分かる。古代人は、自然をイス-イス(Is-is)と呼んでいた。この2語は、古代人が崇拝した火の燃えるしゅうしゅうという音を《比喩的に》表したものである。われわれの先祖は、崇拝する自然をイシス(Isis)とかエス-エス(Es-es)とか呼んだ。各種の聖典を開いてみれば分かるように、「永遠なるもの」はかつてはイス-イス(Ys-ys)と呼ばれていた。発音は、フランス式ではエス-エス(Es-es)、現代ギリシアではイス-イス(Is-is)である。時代と場所の違いはあれ、至上の存在としての神を指す名の響きの中に、宇宙のざわめきが反響している。

イシスは、自然という属性をもった神であるがゆえ、農耕の神だとか、大地の神といった属性が加えられていく。

元よりその性質があったがゆえに、ギリシア神話における豊穣神であり、穀物の栽培を人間に教えた神であるデーメーテールや、彼女とゼウスのあいだの娘で貞潔の女神であり、多産をもたらす出産の守護神とされたアルテミスと同一視されたりする。

デーメーテールは、冥界の神ハーデスに娘を略奪され、起こった際、大地の実りをもたらすのをやめたり、冥府の食物を食べてしまった娘が1年の3分の1を冥府で過ごさなければならなくなったあとは、その期間は実りを齎すのをやめ、それが四季の起源になるなど、大地母神の性格をもっている。

その多産とか豊穣といった性格ゆえに、このような多数の乳房をもった姿で表現されることになる。多数の乳房の下に、複数の鹿などが並ぶのはアルテミスが狩猟の女神でもあったからだろう。

ちなみに、鹿などの動物以外に、蜂も彫刻されているが、この蜂は一番上のパリの紋章にも描かれている。この蜂の話はまた別の機会にしたい。

さて、この姿になっても頭の上に、塔のような建物が載っていることで、これらの像がイシスの系譜にあることがわかる。

ギリシア神話の神々とほぼ対応した神々をもつローマ神話において、アルテミスに対応するのは、ディアーナだ。ディアーナは月の女神でもあり、魔術の女神でもある。この性格もイシスと共通しており、中世の魔女狩りの際にはイシスやディアーナを信仰するものとして魔女たちは囚えられた。
以前に読んだ歴史家カルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』にこんな文章があるのを思い出す。

だが二人の女の話と『司教法令集』とを区別する部分的な差異は、解釈を行うという観点からすれば、完全な一致よりも、はるかに貴重である。なぜなら、二人の話を以前に存在していた図式に強制的に適合させた、という可能性を排除するからだ。したがってヴェローナ教会の礼拝堂付き司祭、ジョバンニ・デ・マトチィイスが、その『皇帝史』(1313)の一節で、「多くの世俗者たち」はある女王、すなわちディアーナかヘロデアに導かれた、夜の結社の存在を信じている、と書いているのは正しいのである。北イタリアでは、プリュムのレギノが図式的に記録した信仰が、400年以上後でもまだ生き残っていたのである。

ここに登場するプリュムのレギノは、906年頃に訓戒集『教会会議訴訟と教会の処理に関する第2書』を著しており、そこで根絶すべき迷信的信仰や慣行の例として「ある種の邪悪な女たちが、サタンの追随者となり、悪魔の空想的幻覚に誘惑され、異教徒の女神ディアーナや、大勢の女たちとともに、夜にある種の動物たちの背に乗る」ことを上げている。

バルトルシャイティスの本にこんな図版が並んでいる。

そして、こんな説明がある。

レオ10世の時代(1513-1521)にローマで発見された女神像の例は、有名である。自然そのもの、養いの大地としてのこの女神は、無数の乳房をつけている。王室博物館に見られるもう1つの像も、同様である。この両者とも、実際はエピソスのディアーナ像なのである。

親子の関係にあるアルテミス、ディアーナともに多くの乳房をもった姿で現れる。

それらの大地を司る神は、以下のような意味でもイシスにつながっている。

預言者イザヤが大地というのは、処女という意味である。ところで、聖書の言葉では処女はイッシャ Isha と呼ばれる[ヘブライ語では Issha は「女、妻」の意]。イッシャとはイシスの名そのものである。ヴォシウス(1641)とシェーデ(1648)が、そのことを文献学的に証明した。大地・イシス・処女(聖母)というこの3者の同一視によって、我々は聖書の予表の大いなる奥義に到達するのである。

聖書の予表。そう、イシスはたびたび息子ホルスを抱いた姿で描かれたりもする。もちろんイシスも処女神である。この紀元前からの古代の女神が何の予表かはいうまでもないだろう。

ティヴォリのエステ邸の庭には、上のような多乳房の大地母神や先のようなスフィンクスもいれば、下のようなオベリスクの立った船もある。

オベリスクが立っていることからも、この船がイシスの船であるのは間違いないだろう。

この船が遠い昔、パリのシテ島にやってきたのだとフランス革命の時代の人々は信じて興奮していたのだ。


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