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言語の減圧力

これはなるほどだ。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。

連日、紹介している中井久夫さんの『徴候・記憶・外傷』からの引用。

言語は世界を減圧する。
言語がバリアにならなければ、人は世界の圧力に押し潰されてしまうのだろう。わからない=うまく言語化で逃げられない対象を、人が避けたがるのもそのせいに違いない。だから、言語にならないものは見ないふりをする。言語化されているものは言語を見たことにして、結局は何も見ないで済ませる。

そうやって、ありきたりの言語にばかりに頼る人にとって、世界はどれほど貧困なものだろう。
ことばが人を世界から遠ざける。

中井さんは、この話を「レオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザを描いた」のように言語として定着可能で、一般に流布でき、社会的に共有された一般記憶に対して、エピソード記憶の個人的な性質に注目することからはじめている。

その中井さんの問題意識は次のようなところにある。

エピソード記憶の問題は、科学研究の中で定量的研究に適するものが重視されがちで、定量的に研究しにくいもの、個別的なもの、私的なものが軽視あるいは後まわしにされやすいということの、よい例であろう。一般記憶がいくらすぐれていても、それだけではいわば「歩く百科事典」「問答式ロボット」に過ぎない。逆に、九九を忘れても、モナリザを誰が描いたか忘れても、エピソード記憶がしっかりしておれば、その人は人間である。

言語化されたもののみを相手にする人は、歩く百科事典や問答式ロボットのような存在でしかない。
一方、すぐれた人はロジカルに考える際にも自分自身のセンスから成る思考をバランスよく挟む。僕が好み、リスペクトするのはそういう人だ。そういう人はちゃんと自分の感覚に伴う判断によりことばも扱うので、言うことがうわすべりすることがない。ちゃんとことばに世界と自分のあいだの記憶が残っているから、そのことばは世界へのアクセスを開き、世界を変える力を残すのだ。

中井さんはエピソード記憶と一般記憶のあいだに次のような仮説を立てる。

一般記憶はエピソード記憶が社会化されたものであるまいか。すなわち、「レオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザを描いた」でも「大平洋戦争は1945年8月15日に終わった」でも、記銘される時点ではエピソード記憶である。その個人性を捨象し、一般化し、「合意による確認」によって社会化して一般記憶に繰り込まれるということである。

一般記憶にばかり頼り、みずからのエピソード記憶を信じられない人は、結局、まともな判断ができないと思う。一般記憶は所詮は誰かの記憶の劣化したものだから、それだけを素材にロジックを組み立てようとしても、そこからは空疎なありきたりの考えしか生じない。そこから何か目新しい視点を生じさせようとすれば、エピソード記憶に基づく個人的な観点からの結合が欠かせないはずだ。

そして、そこで必要なのは言語化できるものだけでの思考ではなく、質的なものを用いて思考することなのだと思う。

もっとも、一般記憶は「モナリザの画家」のように言語によって命題化されることもありうるが、必ずしもそうではない。「質」の確認は命題化されえない。「合意による確認」は「命題化」とは同一ではないことは忘れられやすい。たとえば色であって「これが赤だね」「うん、赤だ」という以上の確認はできない。触覚、味覚、嗅覚、振動感覚などの近接感覚はさらに語化困難な「質」である。

この語化困難な質をも扱えるエピソード記憶をみずからの思考においてうまく扱えるようにすること。それが「メタ世界」で書いたことで言えば、余韻や索引の使いこなしにつながるのだろう。この積分的な思考回路を使うことで、さまざまな世界をみずからのエピソード記憶の索引をいかしてつなぎ、編集することができるのだろう。
徴候と予感」では微分的思考回路の先取り感覚が新たなものの発見に寄与することを書いたが、反対の積分的思考回路も違った意味で新たな地平を切り拓くのには不可欠なものだと思う。それがなければバラバラに分解したものごとをうまく適切にはつなぎとめられないのだから。繰り返すが、それは単純なロジックだけでできる芸当ではない。

と、ここまで言語化を否定的に捉えてはきたが、言語化なしで済ませることはできない。問題は、言語化の過程を終わらせてしまうことにある。そうではなく、常に言語化し続けようとすることが大事なのではないかと思う。

その点について、すこし長くて難解だが、エルネスト・グラッシの『形象の力』から引用しよう。

人間は対話のプロセスを経つつ根源の洞察に従って、自分の世界を決定する根源的な諸々の原因に到達する。これに立ち戻ることが想起である。文字を使う、あるいはその他の譲渡可能な記号を使ってわれわれが遂行中の過程から遠ざかるなら、それは疑問の停滞を意味する。たまさか学識を得る人もあろうが、霊魂の源泉には届かない。あるテキストの理解にすら到達するためには、繰り返される対話過程にのっとるしかないのである。これで言おうとしているのは、人間の現実はつねに人間が何かに達しようとする過程なのだということである。この過程はその構造、その状況、その危険を持っている。けれども現実は、人間が〈途上に〉ある間だけ、与えられている。立ち止まるやいなや、一切は古色蒼然となる。〈あること〉はそれゆえ完結していることではなく、絶えざる生成である。〈形相〉、〈記号〉はふるまい方、行動の仕方、ないし交わり方、あるいは〈思考の処方〉である。〈交わり〉の外、〈交わり〉から放り出されると、形相は死んだ〈箱〉となるのだ。

何かに到達する過程としての人間。それは対話や、交わりを通じた、絶えざる生成の途上としてある。
このことと人が何か新しいことを発見したり、生み出したりすることは無縁ではない。

いや、それどころか、おそらく人は自分自身の生成を通じて、新しい何かを生み出すのだろう。
たとえ、そこで生まれた新しいことばがその後、世界を減圧するよう働くのだとしても。

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