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区別するか混ぜちゃうか

ちゃんと理解するにはちゃんと区別した方がいいが、僕はいったん分けたら(ようは分かったら)、もう一回混ぜてごちゃごちゃにしちゃった方がいいと考える性質(たち)。
区別を維持しちゃうと考えが固定化しちゃってつまらないことが多いからだ。

理解が大事なら、また分け直せばいい。それが前の分け方と違っても、分ける際に理解できてれば、その分け方がどういう観点で分けられているかが分かり、前の分け方との違いも明確なはずだから問題はないはず。問題ないというより2つの視点=理解が持てているという点で、分け方(理解の仕方)が1つしかないより良いくらいだろう。
むしろ、その理解がない人ほど、分けてあることを変えること自体に無意味な拒否感を示すような気がする。前と分け方が違うとか、そういう話になっちゃうような固定化を理由なく信奉する話は無意味だ。理解しようとすることの放棄以外のなにものでもない。
分け方に何か1つ正解があると思っちゃうのは、考え方や理解の仕方が1つしかないという頭の固さにつながっている。しかも、その1つすらほんとうの意味では理解しておらず、そう決まってるいるからと根拠のない信仰を捧げているだけだろう。

もちろん、分け方が変わった際、その背景にある理解そのものを他人にも理解してもらうときのコミュニケーションコストが問題になるケースでは、分け方を変更することに慎重になる必要もある。多くの人の間でルールを維持したい場合はそういうケースだろう。
だが、その場合は、その分け方の論理を使う集団にとってもっとも都合の良い分け方で固定できれば良いが、そうできなかったら変更コストとの兼ね合いで「分け直し」も視野に入れたいし、完全に固定しちゃう前のプロトタイピングも必要だろう。

とはいえ、そんな決まった答えばかり必要とされる時代ではないだろう。むしろ、新しい発想が求められる傾向の方が強い時代だ。であれば、分けては混ぜ、また分けるというスタンスをとる方が、分け直しの際に新たな発見が生じるのだから良いと思う。

あれとこれは違う、それとこれは同じ、といった分類に決まった正解があるかのように考えるのはつまらない。何と何が同じで、何と何が違うかを説明し直せる機会が多い方が新たな視点が得られるのだから面白い。それに新たな見方が得られれば、それをネタにコミュニケーションの機会だって増えて良いのではないだろうか。そして、その見方の発見を繰り返していくことが人それぞれの個性を紡ぐことにもつながっていく。

でも、この「分け直し」の作業に慣れてない人は少なくない。
体験してない、訓練されてないのが、分け直しができない理由だろう。自分で考えること、自分で何かを生みだすことをしてこないで、教わったことしかできなくてもなんら疑問を感じずに過ごしてきてしまうとそうなりがちだ。あとは失敗をおそれたり、プライドが高すぎる人が、この体験不足、訓練不足であることが多いような気がする。

分け直しができないと当然、モノの見方が固定化してしまいやすい。
いままで経験したことのない新たな物事に対する理解が苦手になるし、自分とは見方が異なる人の言ってることがちゃんと分かってあげられない。自分の見方にこだわらざるを得なくなり、他の人が別の視点で言ってることもその視点を理解してあげることができないから、相手を否定してしまうか、理解できずに途方にくれることになる。

「所有こそが法のすべてだ」。この「所有」の代わりに固定(クリスタライゼーション)という言葉を置いてみ給え。『白鯨』の水と流れの詩学の一切の秘密がここにあるだろう。メルヴィルがかくも流水に憑かれたのは何故か。

と書くのは、『アリス狩り』の高山宏さんだ。
「固定こそ法のすべて」。先にルールの固定のことを書いたが、まさに分けたものを固定化するのは法の作用だ。考え方が固定してしまうと、意図せずとも、他人に対しての自分の発言や振る舞いが法のように働いて、他人の考えや行動にまで制約を与えてしまいかねない。そのつもりがなくても勝手に法の番人のような発言でまわりを困らせてしまう。

そうならないよう、分類などは固定せず、混ぜちゃえばいいと僕は思うから、『白鯨』の法を流水のように押し流し、エイハブ船長以下、ピークォド号の乗組員一同が海の藻屑と消し去ってしまう力を描いたメルヴィルの物語に惹かれるのだと思う。覆水盆に返らず。すべてが海という大きな力に押し流されることで、人間のつくった小さな法という1つの理解の形はリセットされるのだ。そういう人間のちからが及ばない世界を描いたのが『白鯨』という作品だろう。

分かるということが分けることであり、近代はその分類を細かくして体系化し、知の膨大なアーカイブを蓄積し続けることで発展した。
その蓄積されたものからあぶれるものも当然あった。それが白鯨モビィ・ディックであり、それが住む大海だ。

けだし近代のアントロポモルフィスムは生のアイロニー性からの逃亡だった。了解可能なものは内部として感じられたが、そうでないものは都市空間の外に、意識の外に押し出され抑圧されきたったのだ。近代、それは世界の内部化だった。近代、それはアイロニーの単純化だった。近代、海からの距離だった。

アイロニーの単純化としての近代。ごちゃごちゃ、どろどろとしたところのある生の営みを、わかりやすくシンプルな形に分割してルール化して知識化してシステムを成り立たせようとしたのが近代であろう。その仕組みを、その近代の目指したものをまるまる否定するつもりは当然ないが、一方、あくまで、そうした固定は恣意的なものであることは忘れてはならない。自分の生きやすさは誰かの生きにくさであることはあるし、ひとつの理解がそれ以外の理解の可能性を潰すというのは知というものがもともともつ両義性である。

とはいえ、メルヴィルが生きた19世紀後半から半世紀ほどたてば、そうした近代こそが瓦解したはずでもある。
あらゆるものは状況に応じて理解は変わるものだという認識は20世紀の初頭に科学的、数学的、論理学的にも明らかにされている。不確定で相対的な知というもののあり方は1920年代から30年代にかけて、アインシュタインやらハイゼンベルクやらゲーデルやらヴィトゲンシュタインやらがとっくに明らかにしたはずのものである。
にも関わらず、それほど「相対的」とは思えない現実感のなかに暮らす人間の直感は相対性こそ理解できにくいのかもしれない。なぜ、そこだけ頭を使わず、直感に任せて流されるのかとは感じるところ。
このあたりは学びも教育も足りてなさすぎるところだろう。みずからの体験のなかで考えながら学ぶ方針の教育に足りないところがあるとすれば、こうした 人間の直感の誤解をあらためる機会をうまく持てないところかもしれない。

だから、分けて分かったことを維持しようというのはあんまり正しいようには思えない。その分かったことを正解とする姿勢がつまらない。正解など、状況や意思においていくらでもバリエーションがありえることを大事にしたいし、その状況に参加するものの間で、正解としての「分かる」ことが生まれ、それが共通のルール、法として機能することが望ましいからだ。

だからこそ、何か固定した考えを正解として振りかざす議論の仕方は避けるようにしたい。そういう区別を前提にするより、ごちゃ混ぜの状態でこそ、議論をはじめたいものだ。

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