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非唯物論 オブジェクト指向社会理論/グレアム・ハーマン

ANTとOOO。
アクターネットワーク理論(Actor Network Theory)オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontrogy)

ある物事を理解するためには、その対象そのものを内側から直接見ようとするだけでなく、その外側からすこし距離をおいて同時に見てみたほうが理解が深まりやすい。

今回、僕はANTに関してそれができた。
ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す』でANTについて知ったばかりなので、グレアム・ハーマンが『非唯物論 オブジェクト指向社会理論』を読んだのだが、ハーマン自身が掲げるOOOの観点からANT、特にラトゥールのそれを批判的に見つつも評価しているものを読むことによって、外側からANTへの理解を深めることができたからだ。

物事を生起的にみるANT

詳しくは、「社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門/ブリュノ・ラトゥール」というnoteを見てほしいが、ANTとは何かを簡潔にまとめるとこうなる。

アクターネットワーク理論とは、人間/非人間、人工/自然などの違いに関わらず、あらゆるもの(アクター)を、常に変化し翻訳し生成される作用(エージェンシー)のネットワークのつなぎ目として捉えることで、社会的な物事の理解の組み直しを図るもの、と。

ラトゥールは、社会的な現象や出来事を、固定的な社会的な概念でトートロジー的に説明しようとする「社会的なものの社会学」を批判し、実際の社会的な現象が発生する際に立ち会っている人間やモノなどのあらゆるアクターのあいだで生じる作用によって社会を記述することを提案した。

まずはじめに書いておくと、ハーマンは、ANTにまったく否定的というわけではない。むしろ、好意的に捉えているところも結構ある。

たとえば、ハーマンは「私の見るところANTの良いところは」という書き出しで、こんな風に言っている。

脈動する総体、もしくは静態的な総体に対立するものとしての個別の存在に立ち戻ろうとする点、またあらゆる存在――人間と非人間、自然的なものと文化的なもの、現実的なものと想像的なもの――がひとしくこの理論に参与すべく主張しようとする動機という点に主にある。

総体ではなく、個別の存在に着目し直すというANTのANTたる主要なポイントを評価する。そして、その個別な存在として、人間中心主義に陥ることなく、非人間、自然や文化的なものも含めてアクターとして扱う点を。

けれど、ハーマンはこうも続ける。

それによってANTは、かつて現象学が占めていた存在論的に民主主義的な立場に置かれるが、ただしそれはこの学派が観測する人間主体を特権化しすぎる面をのぞけばというかぎりにおいてである。

一言でいうなら、OOO側からのANTへの批判は、ANTが「観測する人間主体ありきでのみ、モノの存在を認めている」ということを見逃しているという点だ。ANTが生成、変化に注目しすぎることで、そうした変化(の人間的な観測)がなくても、モノは存在しているということを認めていないことを、ハーマンのOOO的な視点では問題視される。

生成に着目するANTの視界の外にあるもの

「ANTは、すでに出来上がったモノではなく、まさにモノがはじまろうとしている瞬間をとらえるべく議論をたどるよう促す」とハーマンは言うが、これはまさにそのとおりだ。

ただ、ANTが生成ばかり見て、すでに存在しているものの存在を認めようとしないというのはハーマンの言い過ぎで、ANTはそうした存在を論考の対象にしないし、対象にする場合はそれが存在するようになった「はじまりの瞬間」のことに目を向けようとする姿勢というだけだ。それは何を説明しようとしているかの違いであって、どちらの世界の理解の仕方がより良いかということではない。

20世紀に繰り返し登場した知的修辞の1つに、モノは活動に、静的な状態は動的な過程に、名詞は動詞に換えられなければならないという考えがある。

確かに、ANTはこの知的修辞の流れのなかにある。そして、この思考の仕方ゆえに僕はANTに惹かれてもいる。

一方のハーマンのOOOはこれとは「反対の原則を強調するのを選ぶ」。

つまり、生成が間違いにつながるからではなく、移り行く過程は、この過程から外れた何かがなければ生じえないからである。

そう。ハーマンは「この過程から外れた何か」を含む対象=オブジェクトに注目する。ここにおいて、ANTがモノを見る視点と、OOOが対象を見る視点の差が浮かびあがってくる。

現象学に由来するOOO

ラトゥールのANTがどこまでもフラットな地平におけるモノ同士の存在論を展開するのに対し、ハーマンのOOOでは対象(オブジェクト)は2つのカテゴリーに分けられる。
すなわち実在的オブジェクトと感覚的オブジェクトに。

ハーマンはそれを、昨年末に紹介した『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』において、このような図を使って説明している。

モノは確実に存在している。
そう言い切るように、ハーマンはカント以来の観念論とは異なる態度を示す。
モノは他とは独立的に存在しているというのがハーマンの立場だ。

カントにとって本当の問題は物自体の導入にあるのではなく、物自体が人間だけにとりついており、結果、有限性という悲劇的な重みは対象という単一の者によって担われている、ということにある。カントが指摘しそこなったのは次のようなことだ。どんな関係もその関係項を汲み尽くしそこなうので、あらゆる生きていない対象は他のあらゆる対象にとっても物自体である。

と。
物自体という問題は、人間が対象となるモノに完全に接近しきることができないということではなく、それは異なるモノ同士でも同様の問題でもある。
カントの問題は、それがあたかも人間のみの問題であるかのように扱ったことで、モノ同士のあいだでも同様なのだとしたら、人間がモノから孤立しているのだと考える必要はなく、あらゆるモノ同士がたがいに孤立しあっている。それがハーマンのいうモノの独立した存在の仕方だ。

そして、『四方対象』でハーマンが「ぼくはいつでもあるモノについて現に知る以上に感じるのだし、モノを知るのでないとすれば、感じるのである」と書いているとおり、たがいに相手を知ることができないものの、たがいにその存在を感じあっているという意味においては完全に孤立しているわけでもない。
モノは関係性のなかからは退隠している。その退隠したモノを僕たちは対象いうオブジェクトとして感じているし、その対象は現にホロビオントたちがどう思おうと独立して存在している。
ハーマンはそう考えるのだ。

その際、ハーマンが参照するのは、フッサールからハイデガーに至る現象学の視点だ。

私たちは、意識から退隠するのは客観的で物理的なものではなく、世界それ自体が、あらゆる意識的なアクセスから退隠する実在でできているのだという点においても、ハイデガーに同意せざるをえないのである。

と、ハーマンは『四方対象』で書いている。
道具が実際の日常で僕たちに使われているとき、その存在はほとんど意識されないが、それが壊れて機能しなくなった途端、僕たちはそのモノ性を感じるのだというハイデガーの「道具分析」の視点に従い、ハーマンは、モノの「退隠」しがちなあり様に注視を送る。
その壊れた道具において、僕たちは普段感じている道具の感覚的対象とは別の、実在的対象を感じとるのだ。

このモノの分裂があるがゆえに、ハーマンは、ANTのフラットなモノの扱いに意義を唱えるのだと言える。ハーマンにとってANTが扱うモノは、感覚的対象のみであるように見えるのだろう。

共生という視点

ハーマンは、ANTの弱点である、人間のいない森の中における一本の木という存在を認めることができない点をこんな風にも指摘している。

この点でまだ見落とされているのは、この宇宙における膨大なほとんどの諸関係は人間とは関係がないということ、少なくとも他の千億の銀河のなかのありふれた銀河の辺縁に位置する、そのまた千億の星々の1つにすぎない中型の恒星の近くの標準的な大きさの惑星の正体不明の住人と、宇宙におけるほとんどの関係は無縁であるということだ。人間がいなくても対象どうしは他のものとの間で相互に作用するという点を忘れてしまえば、どれほど声高に主観=対象の分岐ののりこえについて吹聴したとしても、人間が住める宇宙の50%を自分たちのものと主張することになるのだ。本当の意味でオブジェクトに賛同するオブジェクトの理論は、人間を直接には全く巻きこんでいない対象間の背景について意識する必要がある。

とはいえ、やはりOOOとANTにおいては、説明しようとする対象が異なるのであって、両者のどちらの方が良いということにはならない。

ラトゥールは「社会的なものを組み直したいならば、伝統的に思い描かれてきた社会的な紐帯の循環と定型化を脇に置いて、他の循環する存在を探索することが必要だ」といい、「この探索をもっと容易にするために理解すべきこと」は、「「既に組み合わさった社会的なもの」を、「社会的なものを組み直すこと」と混同すべきでないということ」だと書いているように、既に組み合わさったものも考察の対象とするOOOと、社会的なものを組み直すことを目指すANTで方法論が異なってもそれはそれで構わないだろうと思う。

ただ、それを理解した上で、ハーマンのOOOが面白いのは、まさに「既に組み合わさった社会的なもの」を理解するためのハーマンが進化生物学者のリン・マーギュリスのホロビオント=共生体という考えを援用しながら展開する物事の組み合わせにおける複数のモノの共生という観点だ。

ハーマンは本書でオランダ東インド会社(VOC)を対象として、ANTではできない考察がOOOではできることを示している。

たとえば、一例としては、VOCが東インドのスパイス諸島と交易する際に、オランダから持ち込む品ではそれがむずかしかったがゆえに、スパイス諸島との交易を可能にする中国などのアジアの品々を必要としたという歴史的ことがらをめぐって、こんな考察がなされている。

「VOCが商品の輸送をヨーロッパに集中させ、また大方のアジア内貿易を、バタヴィアで商品を扱う伝統的かつ私営のヨーロッパの貿易業者に委ねようと望んだ数年という興味ぶかい期間があった」。この結果、ヨーロッパ交易に直接には結びつかない数多の施設は閉鎖することになったが、この施策はうまくいかないことがわかったので「1625年頃にはVOCは、アジア内貿易をゆるぎなく維持する交易地点や拠点のネットワークで結んだ元々の構成に逆戻りせざるをえなかった」。

このVOCによる一度破棄したアジア内交易の再開という考察は、ANT的な生成に重きを置く考えではうまくいかないと指摘する。
何かが結合しあうことで何かが生じるということを重視するがゆえに、すでにある関係への回帰をうまく説明できないし、見逃してしまうというのだ。

こうした全てのことから、対象についての関係主義的な理論がしばしばうまくいかない別の理由が見えてくる。関係論は様々な対象によって形成される結合や同盟を過度に強調する一方で、共生がある対象をこうした結合から保護し、それによって対象の自律性を固めるやり方を考えずにすましている。

アクター同士が結びつくような作用が先にあるという見方がANTの見方だが、それに対して、共生的なモノとモノとの既存の状態が先にあってこそ作用は生じるというのがOOO的な見方だと言えるだろうか。

モノたちの宇宙

最後にハーマンがみている世界観、宇宙観にもうすこし目を向けてみたい。

共生は、広い意味での集合的属性ではなく、所与の個体の特異性に容易につながる偶然の要素をはらんでいる。(中略)われわれは顕著な個人を探すところからはじめなければならなくなる。なぜならそれは一般に現状を変える直接の原因や媒介要因よりも現場にあらかじめ組み込まれている背景となる条件のうちにあるからである。

ハーマンは先にしめしたように、あらゆるモノ同士がたがいに相手を知りきることができずに孤立しあいながらも、それでもたがいを感じとりながら共生しあっている宇宙を想像している。それはまさにスティーヴン・シャヴィロが『モノたちの宇宙』というタイトルの本で、ハーマンの考えを紹介したことにも表れているだろう。

最後に「非唯物論」というタイトル通り、ハーマンはいわゆる唯物論的な思想に反対しており、唯物論的な左翼的な思想に政治的にも真反対の姿勢をとっている。だから、ハーマンのいう対象=オブジェクトは唯物論的なモノではない。それは人間とモノを対比させるような視点ではなく、ここにおいてはラトゥールとハーマンは共闘するのだが、両者は人間とモノを等しくフラットに捉え、両者による民主主義的な宇宙をとらえているのだ。


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