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人工補装具(プロテーゼ)

もっともっと、ちゃんと常識にとらわれず、知識や言語やさまざまなイメージなどの人間的な錯覚を強いるものに惑わされることなく、現実を、現在を生きていたいと思う。

それは正しい答えを見つけるということではなく、答えという静的なまやかしに安住してしまう罠を免れて、常に自らが何に捕らえられているのかを反省しつつ、そのヴェールの奥にあるものを探求し変わり続ける姿勢ではないかと思う。

まわりはひとつも悪くない。
いつでも間違いは自分の側にあり、自分の未熟さに原因があるのだから。
現在見えている風景は自分が作っているものであって、自然やまわりが作ったものではない。自分のやったこと、やらなかったことの結果が常に目の前にある。だから、どんなに自分に不都合なことが起きていたとしても、それは常に自業自得でしかない。

それに気づかず、周囲に不満をいって何かから自分を守ろうとしているつもりなのであれば、とんでもない過ちだと思う。そんな暇があれば、自分のことを変え続けたい。

変わり続けることをやめてしまえば終わり。止まってしまえば終わり。
まあ、止まっても再開できればよいし、そもそも止まる気配はいまのところ、自分のなかにはなさそうではあるけど。

行為と運動

そう、思わせてくれるのは、1つ前のnoteで絶賛したアンリ・ベルクソンだったり、以前から大好きなジョルジュ・バタイユだったりする。

例えば、バタイユの『内的体験』のなかの、こんな記述。

すなわち、内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある。

「企て」という、現実そのものからは離れた、人工的な存在するための様式。そして、その企てに導かれた人間の行為。それは、ベルクソンが「運動」と呼んだものに比べて、はるかに人工的な香りがする。

バタイユはこう続ける。

そして、うっとうしいことに、推論的思考はそれ自体、企ての存在様式のなかに嵌り込んでいる。推論的思考とは、行為のなかに嵌り込んだ人間の仕事であって、彼のなかでその思考は、彼のもろもろの企てより発しつつ、企ての持つ熟考の領域において生起する。企ては、単に行為に含まれ、行為に必要とされる存在様式であるにとどまらず、逆説的時間における一個の存在様式でもある。つまりそれは存在のもっとあとへの延期なのである。

企てによって、人間がみようとするものは、将来へと延期される。
企てが推論的思考を内包するかぎり、そこで意識は現実よりも将来に向けての推論に傾く。

その意識のもとに行為が行われるので、ベルクソン的な現実の運動とはかけ離れている。
現在を生きるのではなく、将来のために生きる方法が企てである。

ときには企てを拒否して

もちろん、将来のために企てることは、大切だ。

むしろ、将来を企てることの重要性は僕のnoteでは繰り返し訴えられることでもある。
企てられないのは、企てに対して意識的でないことは、それこそ自分たちの環境を自分たちでつくることに無責任すぎるからだ。

とはいえ、同時に、企てが現在を犠牲にして、将来を思考するものであることを忘れてはならないと思う。

ときには、企てを拒否して、現在を生きることを考えてみることも大事だと思う。それこそが、生きることそのものに対して向かい合うことだと思うし、人間中心ではない観点でほかの生物や非生物も含めた環境のなかでの自分を見つめることになると思うから。

私の現在

しかし、現在を生きることは、そもそもむずかしい。

それは『物質と記憶』でベルクソンが教えてくれている。

現在は存在するものと勝手に定義されるが、実際のところ、現在とは単に成り行くものでしかない。

と、ベルクソンは言う。

現在が「単に成り行くものでしかない」からこそ、その現在においての「運動」は、バタイユが「行為」と呼ぶ、企てに彩られた動きとは異なる。
運動も、現在も、そうした人為的なものからは一線を画している

過去と現在を分けながら、それ自体はもう分けられない境界のことを言っているのであれば、そんな現在の瞬間ほど存在しないものはない。この現在を、まさに存在するものと考える時には、それはまだ存在していないし、それを現に存在するものと考える時には、現在はすでに過ぎ去ってしまっているのだ。

現在と過去は分割できるようなものではなく、生きる運動ともに、変化そのものである時間として連続している
表現のトーンは、大きく異なるものの、バタイユが『内的体験』で述べる、こんな時間の見方も、ベルクソンの「現在」というものの見方と同じものだと思う。

時間とは、真実らしく見えた諸客体の逃走をしか意味しない。諸事象の実質的現存在とは、ところで自我にとっては悲痛な意味しか持ちえないものなのだ。つまり、諸事象の執拗さは、自我にとっては自分の死刑執行の準備作業にも比すべきものだということである。

時間が、諸客体がそれまでのもっともらしく纏っていた真実っぽさをかなぐり捨てたあとに見えてくる風景であるからこそ、「私の現在とは、私が自分の身体についてもつ意識であるということだ」というベルクソンの認識は成り立つ。
それは決して、時計の目盛りのような客観的を装った人工物を頼りに成立するようなものではない。

現在とは、むしろ、そんな時間を空間化してしまうような錯覚とは無縁の、世界と自分自身の共犯関係を身体を通じて意識される、連続的で、運動的な時間なのだろう。

そして、そうであるがゆえに、人の意識を将来へと先送りしてしまう企てから解放されない限り、「私の現在」を人は自分のものにすることができないのだ。

夜の決断は、人工補装具の向こう側に

「夜なくしては、誰にも決断を下すことはできない」とバタイユは言う。
人工的な光が錯覚によって、みずから決断することから人を遠ざけてしまうからだ。

贋の光のなかで甘受することにとどまる。決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ。

最悪のものから人が目を背けることができるようにするものが人工物だ。
人工物といっても、物理的なものによらない。数学的な思考や言語による思考もそうである。

例えば、ベルクソンが『物質と記憶』のなかで、本来、現在の時間における不可分な厚みをもった連続的なものである運動を、分割可能な空間的なものと錯覚してしまう要因として、数学的な計測的見方を挙げているのをみれば、それがいかに人を不安にさせる闇から目を逸らし、安全な領域に人を避難させるものかがわかるのではないか。

動いているのは動体であって、動体が関係づけられる座標軸ないし点の方ではない、ということを表せる数学的記号が存在しないのである。そして、これはごく当たり前のことだ。本来の目的が常に計測である以上、数学的記号には距離しか表せないのだから。

この過ちによって、アキレスが亀を追い越せないなんてことがまかり通ってしまう。
人体は測定可能な物質と化し、ほかの生物の進化の連続的な流れから切り離された存在と化して、自然と文化の断絶みたいな話が普通に語られることになる。

それはあくまで人工的な「測定器」をはじめとする、闇から目を背けて企てとして用いる人工補装具(プロテーゼ)を身につけた上での行為がもたらす人工的で抽象化された景色であるのに、僕らはまるでそれらがそもそもの自然な景観であるかのように錯覚してしまうのだ。
そして、それが人にやさしい常識の正体である。

ますます空間的で計測的なものになる世界

人工補装具という言葉を僕は、いま読んでいるハンス・ベルティンクの『イメージ人類学』から借りた。

この世紀は自然のままの身体を不完全と思い込んだので、現代的なテクノロジーに飛びつき、感覚的知覚を変容させる人工補装具を求めたのであるが、その一方では全体主義運動が身体を差し押さえた。身体の規格化は大衆の集団的規格化の範型となって、新しい身体的至福を政治的理想の賛美に利用したのである。

「この世紀」は、現在の21世紀を指すのではなく、1つ前の20世紀のことだ。
ベルティンクは、20世紀が全体主義的方法として身体の規格化を企て、アーリア人の身体とユダヤ人のそれとを対比させたことを指摘するが、それとともに指摘しているのが、写真や映画、テレビや自動車や飛行機などの人工補装具が人間の知覚や行動を大きく変化させたことを指摘する。

もちろん、21世紀のいま、そこにはバイオテクノロジーやVRやARなどxR技術、さらにはAIなども加わって、人自身が世界を見ることをできなくするテクノロジーが爆発的に普及しはじめている。
ウェアラブルなテクノロジーはもはや人間が世界を計測的にしか感知することができなくなるようにすることを奨励しているかのようだ。世界はますます時間的で連続的で不可分なものから、空間的で分割されバラバラな要素でできたものになっていく。

持続可能性の観点から世界をシステム的に連続したものとしてみることが要請されている状況であるにも関わらず、まったく正反対の企てが進行しているのに、それに対する議論はほとんど行われていないように思われる。
計測性をますこと自体が悪いのではない。それが何をもたらしているかということに盲目的であることが問題である。

人工的な方法を人類学的に考察する

だが、大きく変えたのはテクノロジーの力を借りた20世紀ではあるが、それがずっと前に洞窟に絵を描くなど芸術的創作をはじめたころから、人間は人工補装具によって、変化し続け、不安定な世界をわかりやすく認識するための方法として用いてきたことも同時に指摘する。
ようするに、人工補装具という言葉でベルティンクが想定しているのは、マクルーハンのメディア論でのメディアに近い。

そして、ベルクソンやバタイユとはすこし違う立場からだが、知覚やその結果のイメージというものの人工性を指摘し、それゆえにそれが人類学的な研究対象になりうるとしている。

知覚は周知のように視覚データや刺激を受容する分析的な操作であるが、総合作用がそれを引き継いで初めて、「形態」としての像(イメージ)が生成する。したがって、像は必然的に人類学的概念であり、今日の美学的概念や技術的概念に対抗し、その正当性を主張しなければならない。

ここにくると、ベルティンクの見ているものがマクルーハンのメディア論とはすこし異なることもわかってくる。ベルティンクはマクルーハンのようにメディアを文学のように扱ってメディア詩学を展開したいのではないからだ。
彼が企てているのは、イメージという観点から人間そのもののほうを人類学的に解体することだと思われる。
この姿勢を感じるからこそ、冒頭書いたような常識にとらわれずに現在を生きるには?を問いたい、僕の思考にも合っている。

バタイユはいう。

通常の条件下では、時間は廃棄されていて、もろもろの形態の、あるいは予見された変化の永続性のなかに閉じ込められている。秩序の内部に書き込まれた諸運動は時間を停止させ、尺度と、透過性のなかに凍結してしまう。

と。

この時間の廃棄、変化を予定調和的なものに帰してしまう姿勢こそ、僕が疑いたいものだ。ここ最近、ずっと「時間」と「変化」についてばかり考えているのはそういうわけだ。


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