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世界史を変えたかもしれない“IF”の話

 歴史を学んでいると、どうしても「もし、この時こうなっていたら今の世界はどう変わっていただろう」と想像を膨らませてしまうことがあります。

もし明智光秀が本能寺の変を起こさなかったら

もしオスマン帝国がウィーンを攻略していたら

もしナチスが対ロシア戦を開始しなかったら

このような本当に一歩選択を変えれば、のちに全然違ったケースになったかもしれない出来事の話です。

 

1. イギリスが宇宙先進国になっていたかもしれない

Attribution: Bundesarchiv, Bild 141-1875A / CC-BY-SA 3.0


冷戦期はアメリカとソ連の二大国による宇宙技術開発競争の時代でもありました。ソ連は史上初の宇宙の有人飛行を実現させ、アメリカは史上初の月面着陸を実現させました。

他の国は指をくわえて見ていたかというとそうではなく、戦後すぐのイギリスは宇宙技術に先んじる可能性がありました。

第二次世界大戦中、ロケット技術が最も進んでいたのはナチス・ドイツで、イギリスはV2ロケットの標的になり、約1,400機のロケットが発射されていました。

イギリスの宇宙技術者ラルフ・スミスは、イギリス本国に落下した不発のV2ロケットを回収し、改造を加えると「宇宙での有人飛行が可能になる」と考えました。

その設計は、ロケットに窓付きのカプセルを設置するもので、最大5分間大気圏外に出て宇宙遊泳し、その後地球に戻るというもの。全て既存の技術を活用するもので、1951年には実現できるとされました。

しかし、1946年12月にイギリスには労働党の政権が成立。

福祉国家を目指すイギリスは新たな分野への投資に否定的で、1947年初頭にこの計画は廃止され、イギリスの宇宙計画は放棄されたのでした。

 

2. インターネット社会は来なかったかもしれない

Photo by cellanr

ティム・バーナーズ=リーは現在我々が使っているインターネットサービスであるWWWを開発した人物。

彼は「人類と社会の発展のために」WWWを無償で開放し、技術に関する一切の特許も出願しませんでした。

その後のわずかな期間でティムの発明したWWWには数え切れないサービスが林立し、世界を支えるインフラとなっています。

実は2001年のTIMES誌とのインタビューで、ティムはWWWの特許を出願し、管理する会社を立ち上げようか真剣に考えていたことを明らかにしました。

ティムと友人は弁護士に相談し、自分の会社を設立しお金の使い道を検討しました。最終的にティムはWWWをオープンにすることを選びました。

もしティムがこの時、特許を出願し管理会社を設立していたら、インターネットはもっとクローズな場所で、会社のイントラのような世界がいくつも存在するのがインターネットと呼ばれたかもしれません。

もしそのような状況が先にできたらネットの統合は不可能だったでしょうし、今のようなインターネット社会の到来はなかったに違いありません。

 

3. ナポレオンはアイラウの戦いで死んでいたかもしれない


1807年2月、ナポレオン軍約6万は東プロイセン南部のアイラウでプロイセン・ロシア連合軍約7万と衝突しました。真冬に行われた異例の戦いでした。

情報不足や吹雪の到来もあってナポレオンは苦戦し、2月8日の朝は援軍が到達するのを待っていました。すると突然、猛吹雪がフランス軍を襲い視界を奪いました。この激しい吹雪により、フランス軍は奇襲攻撃のために近づくロシア軍約6,000に全く気づかなかったのです。

吹雪が止むと、ナポレオンの本営にはロシア軍が侵入しており、ナポレオンの目前にまで迫っていました。

親衛隊が身を挺して守ったこと、そして運によるところが大きかったと思うのですが、ナポレオンは援軍の到達までロシア軍の奇襲に耐え、命を永らえたのでした

 

4. イラク戦争は起きなかったかもしれない


2003年のイラク戦争では、時のイギリス首相トニー・ブレアはアメリカのブッシュ政権に追随し、国際社会の大きな反対にも関わらずイラクへの介入を決定。アメリカのイラク政策を強力に後押ししました。

その後にイラクに起こった混乱と悲劇はご存知の通りですが、もし首相がトニー・ブレアではなく、労働党のジョン・スミスだった場合、イギリスはイラク戦争に参加せず、孤立したアメリカはイラク戦争を開始しなかったかもしれません。

ジョン・スミスは1992年から労働党の党首を勤めますが、不規則な生活と過度の飲酒が原因で心臓発作を起こし、1994年5月12日に死去しました。

その後行われた党首選挙で、トニー・ブレアは臨時党首であったマーガレット・ベケットを破り労働党党首になりました。

ジョン・スミスは反介入主義者で、政策的には穏健派だったため、1997年と2001年の選挙で労働党が勝利した後、彼はアメリカのイラク戦争に賛同せず、よってアメリカはイラク戦争に踏み切れなかった可能性があると言われています。

 

5. 1994年に米軍が北朝鮮を攻撃したかもしれない


1994年、北朝鮮・寧辺の核施設査察を巡りアメリカ・IAEAと北朝鮮の対立は決定的になり、北朝鮮側は戦争も辞さない強固な立場を取り続けていました。

6月16日、ウィリアム・ペリー国務長官とアメリカ統合参謀本部のジョン・シャリカシュヴィリはクリントン大統領に呼び出され、寧辺の先制爆撃の可能性について議論を行いました。もしこの会談で合意がなされれば、すぐにでも米軍は寧辺を爆撃するという意思決定会談です。

争点は爆撃ごとの核汚染の可能性について。

ペリーは、おそらく大きな核汚染を撒き散らすことなく米軍は攻撃を行い撤収することができるだろうとしましたが、これが半島を壊滅させ、また周辺各国をも巻き込む大戦争になる可能性のほうが懸念されると話しました。

そうしてペリー長官は1分ほど沈黙したのでした。

クリントン大統領はその意図を汲み取り、爆撃開始は延期することになりました。

その2日後、元大統領カーターが平壌に電撃訪朝し、平和取引を結んだことで戦争は回避されたのでした。

 ペリー長官の「沈黙」がなければ、もしかしたら第二次朝鮮戦争は既に起こっていたかもしれません。

 

6. 日本降伏後も太平洋戦争が続いたかもしれない


1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、天皇による玉音放送で全ての将兵に即時停戦が呼びかけられました。

しかし中には「断固抵抗」を主張する者もおり、厚木海軍飛行場で第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐は連合軍機の撃ち落としを部下に命じました。いわゆる、「厚木航空隊事件」です。

マッカーサーは本当に日本の軍人全てが降伏勧告に応じているか確認すべく、東京近郊に爆撃機を派遣してテストを行いました。8月17日、4機の爆撃機が横須賀近辺を飛行した時、第三〇二海軍航空隊に所属する航空機が出撃。4機の爆撃機はたちまち餌食になり、ジョゼフ・ラカリテ補佐官が重症を負い、アンソニー・マキオネオが死亡しました。

この結果にマッカーサーは激怒し、日本はやはりまだ戦うつもりらしい、と考え始めました。直ちに爆撃部隊を派遣し厚木基地の空襲を行いたかったのですが、翌日は日本側の和平団との会談が控えていたため、

「もし明日、和平団が来なかったら、戦争は継続されているとみなす」

としました。

翌日、和平団はちゃんとマッカーサーの元を訪れたため、戦争は再開されずに済んだのでした。

反乱を起こした第三〇二海軍航空隊も21日には海軍によって武装解除されました。

 

まとめ


何らかの間違いや偶然で大きく歴史の流れは変わってしまうものなのだと痛感します。

いま我々が普通のことと思っている世界や構造も、偶然の産物が積み重なってできているのですよね。

いまの世界が人類または地球にとって良かったのか、もしくは悪かったのかは分かりません。それはこれからの我々の努力にかかっているのでしょう。

 

参考サイト

"10 Tiny Things That Nearly Changed History" LISTVERSE

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