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『わたしが一番きれいだったとき』

茨城のり子さんの『自分の感受性くらい』は、あまり詩を読まないわたしですら大好きな詩の一つ。そして、茨城のり子さんの詩は、ビールみたいだ。

一回目はなんだか美味しい気もするけど、苦くていまいちその美味しさがピンとこない気もする。それでも、何回か飲んでると、ある日突然「美味しい、、、!」になる、あの感じ。
そして、そのあとは発泡酒じゃ満足できなくなるような、そんな独特の中毒性というか代替不可能性をもつ。

そんな茨城のり子さんの作るビールたちの中で他にも好きな詩がある。

それが、『わたしが一番きれいだったとき』。

”・・・
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように  ね”

この詩の全編を読んでもらえるとすぐにわかるんだけど、これは戦争についての詩だ。

でも、わたしにはフェミニズム的要素のある詩だな〜と思う。

「わたしが一番きれいだったとき」
きっと、ここは世間一般で持て囃される年頃の女性たちを指している。そこには、エイジズムが表現されていて、

「年とってから凄く美しい絵を描いた」
ここで、「美しさ」とは主観的なもので、エイジズムもルッキズムも糞食らえ!と言いたげな、力強い批判を感じる。

そして、世間一般の「きれい」に振り回せれていた頃の、
わたしは「ふしあわせ」で「とてもとんちんかん」で「めっぽうさびしかった」。

わたしもそうだったし、今でもそういう日があるよな〜って共感するのだ。勝手に。茨城さんが、この詩を書くときに、そんな意図があったのかはわからないけれど。

「若さ」に囚われ、「若さ」で優越感に浸って、「若さ」に絶望し、「若さ」に喜び、「若さ」に唇を噛んだ。

「美しさ」に呪われ、「美しさ」で人をはかり、「美しさ」に自暴自棄になって、「美しさ」に縋って、「美しさ」に泣いた。

確かに、そんなわたしのどこが幸せなんだろう。自分が自分を「幾つになっても、どんなわたしであっても、わたしはわたしで、美しい」と思わずして、誰が自分を尊ぶことができるだろう。

好きな人に振り向いてもらえなくて、「わたしがもっと可愛かったら、、、」と考えそうになる。
そして、その度に「大丈夫。わたしはわたしで可愛い。美しいよ」と鏡に声をかける。

どんなに涙と鼻水で、グジュグジュになった顔でも。

わたしを外見だけで判断してくるような人と美しい関係なんか築けるはずがない。

ありがとう。フェミニズム。