大きな石を前にして
僕は東南アジアの発展途上国でサッカーを通じた社会貢献活動に取り組んでいる。
6年間活動を継続して思うことがある。
それは、手を差し伸べることによって支援先にとってどういった変化を及ぼしているのかということだ。
僕の願いとしては、
頑張っているのに環境が違うことによってその成果が得られにくい状況にいるのであればそこに手を差し伸べることによってともに成長を目指したい。
スポーツは平等だというけれど、平等な環境や機会があるかというとそうではない現実を自分の目で見たから取り組みたいと思ったことです。
そして、支援はいくら持続的に行う努力をしたとしても永続的なものではないと思っています。永続的にするべきではないとすら思います。
なぜなら、支援することによってするのは背中を押すことで合って、支援という縄をつけて無理矢理引っ張ることではない。
少し強引な表現を用いましたが、本人のやる気次第だというのが僕がスポーツで学んできたことだし、表現したいことである。
自分一人で石を持ち上げる気がなかったら二人がかりでも石は持ち上がらない。(ゲーテ:『箴言と省察』より)
これは、ゲーテの自立心を説いた言葉。
(厳密には「ユリウス・ヴィルヘルム・ズィンクグレフの格言」を引用し、ゲーテの粉飾が加わっているのではないかと言われている。)
自分自身でやり遂げる気持ちがなかったら、他人がいくら助けても成果はあがらない。
何事も本人の情熱、やる気次第だと思うのです。
組織として、この大きな石をたくさん運ぶと言うのを目標に掲げたとしたら、個人個人がそれぞれに目の前にある大きな石に対してどう言った気持ちを抱いているかによって全体の仕事量やスピード感は大きく変化をします。
一人ひとりが自分の手でその石を持ち上げようと思っているのか、はたまた誰かの手を借りなければ持ち上がるわけがないと嘆いているのか。
持ち上げるという意志があるのであれば、自分の手で持ち上がらなかったとしても誰かに助けを求めるという行動を起こすことに行き着くでしょう。
結果として人の手を借りたとしても、それは「この石を持ち上げたい」という確固たる意志に基づく行動です。
しかし、持ち上げたいという気持ちを持っていない人は、ただ石を眺め、最終的には興味関心すら無くしてしまうでしょう。
そして、その人たちが自分の手で達成するという意志を持たないのに手を差し伸べている事は、
手を差し伸べている「あなた」のやりたい事であって、彼の意思はそこにはない。
「自分で持ち上げる」という意志を持たずに、他人の力を借りて持ち上がったものは「人の助けがなければ持ち上がらないもの」へと変容します。
それが自分の手で持ち上がる可能性があったとしても。
そして、石を持ち上げることに関してはこうした見方をすることができる。
二人で力を合わせているのに持ち上がらないケースというのがある。
それは、最初に石に向き合った彼が自分で持ち上げる意志を持たずに誰かが手を貸してくれるのを待っている場合には、二人の力を合わせても持ち上がらない。
なぜなら彼は100%の力を出すつもりがないし、出るはずがない。言ってしまえばおそらく50%ほどの力に留まってしまう。
助けているあなたは100%を発揮しても、彼は50%の力しか発揮できないのだ。
その石は、二人が100%の力を出し合って200%に達してようやく持ち上がるのであり、
二人とも他人任せになって手を抜いてしまえば、永久に石は持ち上がらない。
一人ひとりが、「自分一人で持ち上げる」という気持ちを持ってやるときに、
初めて100%という力が発揮されるものである。
僕の願いは、これから描くようなストーリーになる。
あなたが手を差し伸べて教えてくれた事によって、どうしたら自分の力でこの大きな石を持ち上げられるのかというのを学んだ。
また、自分ひとりでは持ち上がらなくとも、持ち上げたいという仲間が集まることで自分ひとりでは不可能だった事でも、可能になるのだと知った。
そして、今は人の手を借りているのだけど
いつか自分の手であの大きな石を持ち上げたいという目標を持っている。
だから日々それに向けて努力を続けているんだよ。
常に走り出している人の背中を押すのはとても気持ちが良いし、自分を一緒に走りたいと思う。一緒に走っているから(もしくは、走ったことがあるから)こそ見える景色でもあるのかなと思う。
熱を育てたい。
それによって、自分ももっと燃えたい。
熱が集まることで、2倍、3倍と・・・
いや2乗、3乗というスピード、勢いでその熱は育っていうくと思う。
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