花と文豪とヒビ割れ

昨夜、友人が夜釣りに行くというので付いていった。
海岸沿いで1時間ほど糸を垂れた。
エギが大きすぎたかアマモ(海藻)しか釣れなかった。
海を少し掃除しただけである。
コンクリートにイカスミの後があるので、適切な釣具があればイカが釣れるはずである。
ともあれ夜風は気持ちよかった。

家に帰ってからコーヒーカップを割ってしまった。
水切りラックから、いつもの棚に戻そうとした際に誤って落とした。
以前にnoteでも書いた貰い物のカップである。
真ん中できれいに2つに割れた。
かなり気に入っていたので10秒ほど茫然とした。
白地に小綺麗なレモンの絵が描いてあって、形も気取り過ぎずでよかった。
いま戻さなくてもよかったのに、どうして動かしたのか。
束の間後悔したけれど、済んだことは仕方がない。
2つの大きな破片を合わせると、ピタリと元の姿に戻るので余計に悔しい。
機会があったら直してやろうと思って、捨てないことにした。

そして今日は寝覚めが少し悪かった。
カップが壊れた胸騒ぎを引きずっていたのだろうか。
昼過ぎに散歩に出た。
朝めずらしく米を食べたからか腹持ちがよく、昼食を後回しにして散歩した。
海岸通りの花壇で一斉に植え替えが始まっていた。
シルバーの皆さんが暑い中作業されていた。
どんな花壇になるか、楽しみである。

"ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは人間だし、花を愛するのも人間だもの。"

大宰治がこういう言を残している。
この人も結構甘ったるい名言みたいなものがいろいろある。
恥の多い生涯だったと告白するが、実際この人より恥に精通した人間は稀だろう。
書く言葉のすべてに、複雑で底暗い自己愛が潜んでいて、それは、彼が自分自身の存在をどうにかして愛そうと努めた結果の絶え間ない極限の恥じらいにみえる。

花は自分の美しさを恥じるだろうか。
私は疑問に思う。
大宰の言うように、花の美しさには気づかされることがある。
いや、大宰が感じていたのはどうだか知らないけれど。
花を花と認識しはじめた頃から、私は花の美しさを不可解に思っていた。
幼心の疑問符であるけれども、どうしてこんなに人間の眼に美しく映るものが在るのか不思議だった。
純粋に、人間の楽しみのためとしか思えない、可愛くて、害のない命。
それが非常に不思議だった。
そして花を見ていると、どうしても納得できない現実が想起される。
つまり、なぜ不当な悲しいや苦しみが、多くの人を不幸にしているのか、年少の私には理解ができなかった。
心に捉える悲しいの規模は膨れ上がったけれども、未だにこの疑問は私の最大の疑問である。
この幼少の問いは、決して後付けでないのだ。

どうしてって、花の姿には戦争も虐殺も不幸も見出だせない。
ただ花はかくあるごとく美しく、それは殺人を見たことがなくても自然に見つけられるもののはずである。
つまり、美しくさや喜びは、醜さや悲しみとは、根本的に無関係だったのではないか、と、無謀な二元論の脱出を夢見てしまう。
キリスト教は原罪を説くけれども、そもユダヤ教には原罪はないとされている(少数派である)。
すなわち、畏れ多くも私は次のような疑問を持つ。
原罪は人間を説明できているのか、と。
私はこの教義の方便を、上手く理解できない質(たち)のようだ。

この一点において、私は、川端先生の『美しい日本の私』を思い出し、西洋精神との感覚の断絶を意識せざるを得なくなる。
それに応答する大江健三郎の『あいまいな日本の私』は、現代人の末端である私には、もちろん非常に深いところまでグサリときて、この自覚的で成熟した戦後の日本語作家の強烈な覚悟に、ほとんど怖じ気づいてしまう。
しかし、同時に、やはり私の心は川端先生に近づこうと懸命にもがくようである。
あるいは、このような心性は、私の世代になって許されつつある回帰であるか。
いや、そんな上等のものではない。
現に私の頭には、以下のような苦し紛れで子どもじみたタイトルが浮かぶ。

『あいまいで未熟で無知な私の美しさと日本』

戦前戦中の精神に触れる機会もなく、戦後の混乱と覚悟から遠く、心に絶海の孤島を抱えた現代の私(わたくし)。
あらゆる思想基盤に暗く、あいまいで未熟な私の立ち位置は、浮きのように頼りない。