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老害の吐く「若いのにしっかりしている」

「『若いのにしっかりしている』という褒め言葉は嬉しくない」という話を昨日していた。

360°悪気のない老害が絡んでくるフレーズだ。

これには「正義」の話をくっついてくる。

人間は自らが「正義サイドにいる」と確信できるときほど攻撃的になる。

正しさサイドに付くと、「もう何言ってもいいし何やってもいい」と勘違いしてしまう。だからデモや政治的な闘いにおいては血が流れる。

「政治的」というのは何も日本の内閣のような、大規模なものばかりではない。学校、友達、バンド。人間が三人以上集まると「政治」が始まる。

僕は政治的闘争がまったく好きではない。

「正義」には依存性がある。他者を傷つけると万能感に包まれ、アドレナリンが出るからだ。

「正義中毒」になると、正しさに寄りかかるのがクセになる。自分の足で立てなくなる。こうなると自分の頭では何も考えられないやつになる。

「『若いのにしっかりしている』という褒め言葉は嬉しくない」という話だが、

たしかにコレを言われて嬉しかった経験は僕にも少ない。ゼロではないが、悪気なき老害に吐かれた記憶が蘇る。「いっちょまえに評価すんな」と言い返したくなった。

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この「しっかりしている」を因数分解すると【自分一人で時間を潰せる力がある×何を言っているかわかる】だと思うのだ。

「自分一人でも楽しめる能力」だが、これは教養とも言い換えられる。
そして自分の言いたいことを述べるだけでなく、相手の聞きたい言葉で自分の意思を伝達できる力。

この二つがある人間は「自分で創意工夫、模索、思考し、それを他者と分かち合う認知能力がある」と仮定しても差し支えない。

『若いのにしっかりしている』と言うひとは「若い年齢でこの力を持っているひとは少ないよ」と言いたいのだろう。年齢を重ねると成長し、人格に変化が生まれると考えているからだ。

残念ながらそうではない。

還暦を越えても自分一人では何も決められない老害もいるし、十代で自己理念を伝達できる人間もいる。

つまり三十路を過ぎても「しっかりしていない人間」というのはいる。

「しっかりしていない人間」はいつも「正しさ」に寄りかかる。

あげく正義に依存して、これを使って誰かしらを攻撃、ひいては破壊する行為に歓喜するケースもある。

選挙に行かないひとをボロクソに言っている男を見たことがある。

「選挙に行くべき」という正義以外、語れる言葉がない彼は、「選挙に行かない人間」を選挙に向かわせる術がない。

あくまで彼らの目的は若年層の投票数増加ではなく、誰かを攻撃することだからだ。

踏み石理論(増長理論)はアメリカの実験で不確かな証明がされているので、「しっかりしていないと、他者攻撃をする人間に増長する」ということにはならないだろう。

ビールを飲んだ人間が次第にウォッカをガブ飲みしないのと同様、タバコを始めた人間がヘロインやコカインにまで手を出さないのと同様にだ。

それでも「正しさ」には依存性がある。

その依存に本人はきっと死ぬまで気づかない。だからか、僕は僕なりに少しでも「しっかり」していたいとは思うのだ。

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