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エンジョイしない

「つまらない」という時間を削りまくってきた。
振り返ると僕の半生は「つまらない」をどれだけ減らせるかだった。

とにかくつまらなくて死にそうだった。つまりたくて、つまりたくて仕方なかった。

つまるためなら死んでもいいと思っていた。「つまれ、俺の人生、もっとつまれ」とある種の洗脳にかかっていたように思う。

話変わるが、少し前に小藪大説教に行った。

吉本新喜劇・座長である小藪先生から「エンジョイしようとすんな」なる教えを授かった。

大学がつまらない。
仕事がつまらない。
家族がつまらない。
将来もつまんなさそう。

などの悩みがボンボン投げつけられ、小藪先生は事あるごとに「エンジョイしようとすんな」と説いた。

「楽しいこと」が是で「楽しくないこと」が悪という考えからいったん抜け出てみろよ、ということだろう。

仏教の「足るを知る」を基にした、それでいてエッジの効いたフレーズだと思う。目から鱗がバリバリ落ちた。

「エンジョイしようとすんな」は転じて、「エンジョイしなくてもいいや」になる。そう思えば、何でも知れてしまう現代人はかなり生きやすくなるだろう。

僕も同じくである。でも今さら時間は戻らないし、「エンジョイ」にすべてを捧げてきた人生に、後悔しているわけでもない。ただ、これからは少し「エンジョイ至上主義」と距離感をとってもいいかなと考えたのだ。

現在、僕の毎日に「つまらないこと」はほとんど無い。
つまらなくなるために我慢をすることもあった。学生じゃなくなってからの方が勉強した。良くない頭を少しでも良くすることにほとんどの時間を注ぎ、気が遠くなるような時間を捧げた。

そして「つまらないこと」は一つずつ減った。一つ減るたびに嬉しくなった。

それはそれで良いのだが、失ったものもある。その一つが体験だ。

「つまらないこと」ってなかなかにわるくない体験なのだ。興味がもてない空間に、今まさに自分がいるという異常事態から得るものは多い。

その場に足りないものは何なのか。

自分は何に興味があって、何に興味が無いのか。

そもそもなんでこんな場所に迷い込んでしまっているのか。

「面白くて仕方ないとき」は基本夢中だ。夢中なときほど思考も雑念も無い。

自分がエンジョイしていない時間こそ、自分を知るのには最良の環境だ。

人間は幼ければ幼いほど、つまらないことが多い。自分の思い通りにならないケースが多いからだ。

好きな場所にも住めないし、好きな人間とも関われないし、好きなようにお金も使えないし、好きなことに時間も割けない。

この理屈通りならば大人になるにつれ、生きるのは面白くなるはずだ。

中には大人になるにつれ、それらを失うひともいるのかもしれないが、0〜18歳のときよりはマシではないだろうか。

たとえばどれだけ仕事がつらくても、辞めることだって自由だ。

両親の理解が無いと、不登校になるのにも一苦労な学生時代とは違う。成人した以上は自由だろう。

稀に「親の許しが無いとダメ」なんていう成人もいるのだろうが、そこらへんの事情は理解し難い。

そんな関係ならばアディオスと言って、絶縁するのも手ではないだろうか。


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