批評家たち!

音楽と小説と映画には高圧的な批評が多い。もちろん高圧的な批評なんてものは、どこの世界にも付きものだとも思う。

スポーツやグルメにも、高圧批評はたくさんある。

たまに食べログで、松屋とかマクドナルドにまで必死に低い評価を付けているひとがいる。もはや何と戦っているのか想像もつかないレベルだ。

そして、やはり音楽にはじつに多い。

むかしから僕が曲を書いても、歌っても、何かを書いても、絶対に高圧批評を放ってくるひとがいた。

どこが悪いか、ちゃんとメールで送ってきたりする丁寧さを持つひとまでいる。

なぜそんなことをするのだろうか。たぶん「楽しい」からだ。

「上から批評する」というのは、そのコンテンツより、上の立場にならないとできないからだ。上に立つのは楽しい。全能感に包まれた気になるのだろう。

しかし本当に申し訳ないのだけど、批判された通り、言われた通りに修正することは、まず無い。

なぜなら僕が作ったものを楽しんでくれるひとたちは、「高圧批評され、それに合わせて修正されたもの」を求めていないからだ。

僕もいろんなエンタメのファンだ。

好きな舞台、好きな本、好きな歌を作るひとがたくさんいる。

一ファンとして、楽しみたいのは「クリエイターが自分の血のたぎりに従った、全力で書き上げられたもの」だ。

他人の意見に合わせて、「批評されないため」に修正された、守備力の高い作品はあまり興味が無い。

また、批評をもとにした修正がクオリティを上げることも無いと思っている。

人間が作るものは、足せば足すほど良くなるというものでもない。

特に音楽は全量的なものが決まっていて、いろんな要素が相対的に作用している。

インターネットの発展もあり、国民総クリエイター時代と言われている。

誰もが写真を撮って、ひとに創作や表現を見てもらえるようになった。

歌が得意なひとはiPhoneで録画して、すぐにYouTubeへとアップロードできるようになった。

ツイッターの呟きひとつとっても、短歌の変形のようなポエトリーアートだ。

十五年年前には考えられなかったことが起きている。

だけど、インターネットは創造とも相性がいいが、破壊とも相性がいい。

西に何かを作ったひとがいれば叩けるし、東に刃を研いでいるひとがいれば「意識高い系」と揶揄をかまして、親指ひとつでヘコませられる。

でもそれは、インターネットが悪いわけじゃない。刃物を手にしたとき、どう使うかはそのひと次第だ。

僕たちはその刃物で、ひとを喜ばすことも悲しませることも、活かすことも殺すこともできる。


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