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【いじめ加害者にどう対応するか】いじめ加害者に規則に則った処罰を

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆


〜僕のいじめ体験〜

はじめに、この記事においては、僕自身の事を語る上で、やや過激な言葉を使っており、かつ感情的で偏ったことを書いているのでご容赦いただきたい
本書自体は、僕が書くような偏った話ではなく、もっと建設的な大人な議論になっているため、いじめ問題を考える助けとして、ぜひ読んでいただきたい。



僕は中学の時にいじめを受けていた。
自分自身のことや家族のことまで暴言を吐かれ、露骨に仲間外れにされたり、数は多くはないが怪我をするほどの暴力を受けたこともある。
いじめの当事者だけではなく、他のクラスの見たこともない同級生から侮蔑の言葉を投げられたこともある。おそらく「あいつ、いじめちゃって良いよ」なんて話が色んなところで広がってたのだろう。

今の自分の感覚では考えられないのだが、当時の僕は「逃げる」という選択肢が無かった。そういう発想は無かった。というか、できなかった。
親に相談しようとしたら、なんとなくいじめを受けていた事を知っていた姉から「弟がいじめられてるなんて恥ずかしいから、絶対お母さんとかには言わないで」と、今思い出すとありえない一言を突きつけられた。
担任の先生に相談しても「そんなのただの遊びだろ?」と取り合ってもらえなかったのだが、何度も相談に言った結果、クラス全員の前で、「こいつはいじめられてる。でも、みんなの前で仲直りしてもらう」とその当事者と無理やり握手をさせられた。その時のクラス全員のニヤニヤした顔は今でも忘れられない。
そんなわけで僕は中学のいじめから逃げられなかった。解決しようとしても、ただただ、恥ばかりかくだけなので、僕はそのまま「怒り」や「悲しみ」を麻痺させる事でなんとか3年間やり過ごした。


今では、素晴らしい妻と出会えて子どもにも恵まれて、やっと「人間らしい1人の人間」になれたと思っているが、それまでは漠然と「30歳になったら死のう」と考えていた。

本書の中で、「いじめられた体験は長期的に"いじめPTSD"として後遺症が残る」と書かれていたが、僕はまさしく自分がそうだと思っている。
今でも、ふとした時に、全く関係のないタイミングで、いじめられていた時の事をフラッシュバックするし、現にいじめから離れて10年以上経った後でも漠然と自殺を考えていた。もしくは、姉や担任を含めていじめに加担していた奴らをどのように○していくか、どうやって○したら自分のこの気持ちは晴れるのか、という事を割と真剣に考えていたこともある。

いじめられた当事者としては、「いじめ」というのは絶対に無くしたいと心から願う。
僕は運よくおとなになってから良い人間関係を築くことができ、比較的回復した人間であるが、みんながみんなそういうわけではない。いじめは、間違いなく一生残る傷を作る。


〜「いじめるのは恥ずかしい」というイメージを作る〜

さて、ここまで長々と僕のいじめられた体験を書かせていただいたわけだが、僕の思いとしては「いじめ加害者」は何年遡ってでも罰せられるべき、だと思っている。

大人になってショックだったのが、姉が僕に対して「いじめられている弟なんて恥ずかしい」と言ったことを覚えていなかった事だ。
僕の中に一生残る傷を負わせたにも関わらず、その当事者が覚えていない。「やった側は覚えていなくて、やられた側はずっと覚えてる」の典型的なパターンだ。

そう考えると、当時僕をいじめていた彼らも僕をいじめていたことなんて覚えていないんだろう。もしやすると、僕のことすら覚えていない可能性もある。

本書では「いじめられた側が学校から去り、いじめた側が学校に残る」という構図が歪だ、と述べられているが、同じように「いじめられた側が一生傷が残り、いじめた側が忘れてしまう」というのも十分歪だ。

そんな現状を解決する案として著者の1人である斎藤氏が述べた「いじめは恥ずかしい事だ」とスティグマ化するというものに、僕は大きく賛同したい。
具体的には、いじめ加害者を規則に則りキチンと出席停止やクラス替えなどで「処罰」するのである。いじめをするような奴に効くわけもない「指導」をするよりかは、「あいつはいじめをして処罰されたらしいよ」という印を加害者につけるのである。
そうする事で、「自分はいじめなんていう恥ずかしいことをやった」と加害者も忘れないようになるし、キチンと処罰を受ければ被害者も全面的ではなくともある程度は納得出来る。
何よりも「いじめは恥ずかしい」という空気が学校に蔓延すれば、いじめそのものを無くすことだって出来るだろう。
(ちなみに、本書の中でもこの「処罰」に対して人権問題だという批判が出てくる、という話があったが、被害者であった僕にとって加害者の人権などどうでもいい)


〜学校の限界〜

いじめの問題については、学校のシステムの問題でもある。

本書によると、「その時の政治的思想や世相の変化により教育内容が左右されないように、教育に関する権限は学校が独立して持っている」という事情から、学校という空間自体が閉鎖的になっている。
要するに外部から手を出しにくいのだ。
大阪の寝屋川市では、いじめに対して直接自治体の首長が働きかけられるよう条例が制定されるが、これも教育行政の権限を犯すものとしてかなり例外的なものなのである。
そして、そんな閉鎖的な学校にいる先生たちは、外部に助けを求めるということもしにくい。

また、地域の保護者にも問題がある。
進路、部活動、社会性、交友関係、などなど、あらゆる問題を学校に丸投げしている現状がある。

閉じられた中で様々な仕事をやらなければいけない先生たちにとって、「いじめ」という問題は数ある仕事のひとつに過ぎなくなってしまうのも無理はない。学校の先生をしている友人もいるので、彼からの話を聞く限りあまり先生たちを責めることも出来ない。
おそらくは、先生たちの働き方改革などと並行して解決していかなくてはいけないのだろう。

学校がもっとオープンな場所になり、外部からの助力が得られるような仕組みになり、また、保護者が学校に全て丸投げするのではなく、生徒たちを地域全体で学べるような環境づくりが必要だ。そのためにもやはり大人全体が子ども全体を育てて守る、という意識は必要なのではないだろうか。
「いじめ」は学校の問題、と考えている限りは解決は無い、と感じる。

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