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【民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代】民衆暴力はなぜ起こるのか?を考える

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆

〜わずか100年前にあった凄惨な暴力〜

本書は、近代日本で起きた大規模な暴動のうち、新政反対一揆(1866〜77)、秩父事件(1884)、日比谷焼き打ち事件(1905)、関東大震災時の朝鮮人大虐殺(1923)の四つの事件を取り上げ、民衆(本書では、「民衆」を「国家を構成する人びと」の意味で広義で用いている)による暴力は、一体何に駆り立てられたのか?という事を、さまざまな史料から読み解いていく。

正直に言うと、僕は日本史については中学生以下の知識であり、30代になった今学び直しの真っ最中である。近代史については特に知識が無く、関東大震災時の朝鮮人大虐殺については、なんとなく「そんな事があったらしいなぁ」というぐらいの知識であったが、今の日本では考えられないような凄惨な大虐殺がわずか100年前にあったとは…という本書の趣旨とは関係のないところで驚いている(笑)

本書はただの歴史事実を並べて述べるだけではなく、四つの暴動事件から、民衆暴力の発生原因を明らかにするのが目的である。


〜暴力のトリガーは存在する〜

さて、歴史の中で暴動事件や大虐殺などについて、暴力が少なくなった現代においては「当時の人々は未熟だった」と考える人も少なくないかもしれない。僕もそう考えていた。

しかし、単純な暴力性とか幼稚性で当時の人々の暴動を否定する事は出来ない。たしかに、暴動を起こす経緯として、本能的な暴力願望があった事は著者も否定はしていないが、要因はそれだけではない。大きな社会的変化が突如として現れた事や他国に支配され自国の文化を破壊されるかもしれない事などへの"不安"や"不満"が暴動という形で現れている点を見逃してはいけないのだ。
また、民衆はただただ闇雲に暴力を行使していたわけではない。暴力を正当化する倫理が存在していた、という点も非常に興味深い。「暴力はいけない」という価値観は、社会や環境に応じていくらでもひっくり返るのである。

暴力の人類史」では、「暴力は年々減少しており、歴史上、現代が1番平和な時代である」としている。たしかに、恒常的に暴力が身近にあるという環境は無くなった。しかし、暴力のトリガーは存在しており、それはおそらく社会の変化に対する"不安"なのだろう。
名だたる有識者が「資本主義の限界」を唱え、政治家が「古い政治を変えなければいけない」と有権者に訴えかける。この状況は、社会の大きな変化がすぐ目の前まで来ている、という事ではないだろうか。

そして、その時にはまた暴動という形で民衆暴力が発せられる事も覚悟しなければいけないのかもしれない。


〜民衆暴力は抑えられるか?〜

民衆暴力はどのように抑えられるのか?その答えは著者は明確には示していない。
しかし、僕らは考えなければいけない。
暴力行為をただネガティブなものと捉えるだけではいけない。歴史の中で、民衆がどのような考えを持ち、どのような倫理の中で、暴力という方法を用いていたのか。それを理解する事が、現代を見る眼を磨くことになる、と著者は述べている。

暴力はいけない、という道徳観は非常に良いものだと僕は思う。暴力は人の命を危険に晒す行為であり、それを抑制する事は正しい事だ、と信じて疑わない。
時代によってその価値観は変わる、というのは事実かもしれないが、それに甘える事なく、暴力の無い社会を作るのが、長い平和な現代を生きる人々の使命ではないだろうか。

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