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【日記エッセイ】「引き篭もりの公共」

僕は自らが行為に向かえないなと思うことがある。それについてずっと考えている、行為とは何か、それは些細な日常の場面の洗濯物を干すとかでもそうだし、誰かに想いを伝えるとか、新しいことを始めるとかの局地的な場面でもそうだし、自らの習慣を変えるなどの限定的な場面で起きることも行為だと思ってる。つまり「何かする」くらいのイメージである。

僕は現在、シェアハウスに住んでいる。そこではキッチンが共同で食器も共有している。そのため、明確なルールがあるわけではないが、ご飯を食べた後は、他の人が使う可能性があるため、食器をすぐに洗うことになっている。洗い物は後回しにすることが多いが、共同で使っているから洗わないとと思って、なんだかんだすぐに洗えてしまうのである。

だけど、僕がすぐに洗えなかったものがある。

それは僕が、このシェアハウスに自分で持ってきた、自分のコップである。

この前、そのコップでコーヒーを飲んだ。つまり、共有ではなく私的なコップで飲んだのである。

僕はコーヒーを飲み干して、自分のコップを自分の机に置いた。結局、すぐに洗わずに放置してしまったのである。自分のコップをすぐに洗わなかったことに僕は驚いた。他人と共有しているお皿やフライパンや包丁はすぐに洗うのに、自分のコップだと放置するのである。

人は自分のことになると怠惰になってしまい、他者が関わるとしっかりしてしまうのかもしれない。僕は自分のコップを洗わなかった時にそう思った。そうしたことは往々にしてある、誰かのためならご飯を作れたり、人へのプレゼントの方が真剣に悩んだり、誰かの頼みだから必死になれたり、みたいに。

人は自分のためだけに行為するのは難しいのかもしれない。

自分のコップだから、自分のことだからこそ、放置しちゃうことがある。

他人と共有するコップの方がすぐに洗うように、他人と共有する自分の方がすぐ行為できるのかも知れないと思った。すると、自らを、共同、公共、パブリックへと開くイメージが湧いた。自らを公共にするという考えが頭で膨らんだ。

この時の公共とは、「誰かのために」ということではない、「誰かと共に」という感覚を持つことである。その感覚は家族やバイト先、恋人、友達、会社など、それ以外にも多種多様な社会的空間で育まれるはずだ。けど、こんなこと、1年前の引き篭もりで、社会との接点がほぼなかった僕は聞いてくれるのだろうかと思う。あの時の僕が公共という言葉に辟易している姿が見えるのである。あの時の僕には具体的な「誰かと共に」は伝わらない、社会に出た方がいいという実践的で効果的な方法を促す言葉ではダメなのである。あの時の僕は「それはわかる、でも、そのもっと手前で悩んでいるんだ」と言うと思う。だからこそ、僕はもっと広い公共を考えている。いや、もっと狭いのか、まぁ、とにかく、自分をもっと存在として捉えて、そして開くイメージがある。

僕はあの時の自分を慰めたいわけじゃない、そうじゃなく、あの時の自分をハッとさせたい。

僕が言う、広い公共に向かうとは、自分を丸ごと、存在そのものとして、他者(この時の他者は自分以外)に投げ出すことである。社会参入とか、社会性とか、大人になれよとか、そんなのすら飛び越えることを言いたいんだ。

あの時の自分が少し目を大きくしたのがわかる。

そしたらあの時の僕が、「社会人になれよという言葉から見える狭さが嫌なんだよ、窮屈で仕方ない、だからと言って何もしないわけにはいかないこともわかってる」と言った。

僕は「うん、わかるよ、むっちゃわかる。けど、お前は何かはしたいんだろ?」と聞いた。

あの時の僕が少し黙った。

沈黙がある。

僕はあの時の僕から目を逸らさないでじっと待った。

あの時の僕が何かを口籠もりながら言おうとした。一言目を言葉にしようとした瞬間、ずっと張っていた顔の筋が解けて、一気に顔全体が綻び、ボロボロと泣き始めた。そして、目を擦りながら、涙声で、あの時の僕は「うん、したい」と言った。

だからこそ、自分を他者に開くんだ、それは何も急にどこかに属せとか、誰かに会いに行けとか、生産性があることをしろって言ってんじゃない、そうじゃなくて拡張させるんだ。

なんでお前は今、息を吸ったり吐いたりできてる?なんでお前の排泄物は溜まらずに流れてる?なんでお前は眩しいと思えた?なんで寒いって言えた?なんでこけそうになった?なんでそれを食べれてる?なんで今日もまた寝れている?なんでお前は生まれたの?なんでお前は殺されないの?

そうやって、自分というものを、言わば、頭の中だけにある自分と他者との接地点を確認してみる。すると、開く必要なんかなく、開いていることに気づく。これが僕の言う開くである。これをしろとか、もっと社会に出てとか、このままじゃいけないとかじゃない、もう既にそうなっていることにまず気づくこと、まず気づくんだ、するとどうだ、心配してくれてる家族や、一緒に居てくれる友人にようやく目が向くと思う。そんな人がいないじゃない、自分の肌に触れたあの冷たい風、暑い夏の日の木陰、過去の誰かが書いた本、自分を見つめる野良猫、全部他者だ、人だけじゃない、そんな他者の存在のディテールに、その具体性に、目を向ける、開くのである。今、僕の近くにいる他者と宇宙は実はなんら変わりがない、なんら変わりがないんだ、けど、そこにその人がいる、そこにその物があることの、それを宇宙と区別して実感できる、実感できてしまう人間の愚かさに僕の言う公共がある。美しさも愚かさもあっていいじゃん、そんな自分を十分味わえば良いと思う。

あの時の僕は今の僕だ。

今の僕はあの時の僕だ。

これが僕の公共である。

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