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宿題

家庭学習と聞くと、何を想像しますか?

学習塾、習い事、通信講座、オンライン受講・・・
それに、なんと言っても学校からの宿題です。

4月に入学してしばらくの間、家庭学習を余儀なくされた今年の小学1年生。
学校というものを知らぬまま、淡々と届く課題。オンライン授業もないまま、鉛筆の持ち方や、ひらがなの練習、それぞれの家庭で課題をこなすのは、会社勤めを辞めて家にいる私でさえ、ほぼつきっきりで子供と関わり続け、かなりの疲労感でした。
しかし、悪いことばかりではありません。本来なら子供の勉強なんて学校に任せきりで、何をやっているのか興味すら無かったかもしれません。
それが、課題をもらい、一緒に学びながら進めていく作業は新鮮で、先生のご苦労が身にしみて実感できました。

そして何より、「勉強って何?宿題って何?」とその根本に疑問を持つことにもなったのです。

冒頭に書いたように、宿題とはなんなのか。

言葉の意味はともかくとして、現在小学1年生の娘は、平日は必ず毎日宿題が出ます。内容は、①音読、②漢字ドリル、③計算ドリルもしくはプリント。

必ず平日この3つが出されます。

目的は、「学校で習ったことの復習と、家庭学習の習慣付け」だと以前説明がありました。

学校で習ったことを家庭で復習する事は、指導要領には具体的な指導はありません。それなのに、全国ほとんどの小学校で宿題が出ています。

しかも、いつ、何を、どのぐらいやるのかさえ、きっちり決められています。
1日ごとに決められているので、習い事のある日は大忙しです。
もちろん、復習は大切です。私は読書が趣味ですが、本を読みながらノートにメモをし、その後インスタグラム読書メモをアップする為に清書し、その後さらに夫に内容を話し、更に友人にも話すぐらい、アウトプット、つまり復習をしているので、その大切さは身にしみています。

ただし、家庭でその復習をやる事については、疑問を感じます。
復習までが学校が指導する範疇だからです。学校での学びは学校の責任で、教育要領を把握した教員免許を持つ教師が教えています。その復習の部分を、教師でもない、教育要領も知らないただの保護者が介入してはいけないと思うのです。子供も、「どうせ残りは家でやるから・・・」と緊張感のない態度で授業に臨むようになりかねません。

では、家庭学習は何をやるのか?ですが、習い事は家庭学習です。子供は遊びのつもりで習い事には行っていません。大抵は1時間程度の習い事が多いと思いますが、子供はかなり集中して学んでいます。
昭和の頃と違って、今は小学校1年生でも、1〜2の習い事はしているものです。習い事をしていなくても、興味のある事、好きな事、没頭できる事はあると思います。それら全て、学びだと思います。子供は何をするにもたくさんの学びを吸収しているものです。そしてそれらは、子供にとっては、とても楽しく興味深いものです。

しかし宿題は、学校から出された時点でそれは「やらされるもの」となり、自主的なものではなくなります
「親に言われなくてもやれるように』と言いますが、物理的なこの行為だけを見れば確かに目的は達成されています。しかし、本当の目的はなんでしょうか?

自ら学ぶ。

「学び」が目的なのです。
「学び」とは、どんな内容であろうと、今まで知らなかった事を知る事に他なりません。算数国語も学びですが、これは学校が提供する学び(認知能力)です。それに対して、考える力だとか、工夫する力だとか、状況判断、論理的思考など、それ以外のいわゆる「非認知能力」の部分は、私は家庭での学びの範疇だと思います。

教育格差がもしあるとすれば、この非認知能力を育てる環境がどれだけあるか?というところの差なのだと思います。

学校はもっとシンプルに、4教科だけを淡々と、しかしきっちりと、学ばせるべきで、それ以外の道徳や生活、英語、プログラミングなどは、各家庭に任せ、公教育が介入する部分ではないと思っています。
子供がどんなことに興味を持ち、学びたいと思っているか?は、親にしかわからないことだからです。
それを、数十人集めて「せーの!」で始めたところで、何も身に付かず、ただ嫌悪感を抱いたり、「つまらない」と壁を作ってしまうだけです。
好きでもない食べ物を口に突っ込まれ、「飲み込め」と言っているようなものです。
そして何より、4教科の認知能力だけを鍛えるのは、教師にとっては容易いことなのです。教えるプロなのですから。教師が大変に思う事は、それ以外の教育です。非認知能力を、親の価値観の違う環境で育った35人に一斉に教えるというのは、想像したただけで卒倒しそうです。
しかし保護者は、それら全てを学校に任せようとします。学校側が、きちんと教育範囲を設定し発表しないからです。何でも屋のような状態にし、保護者の顔色を伺い、個別に対応してしまうから、そのような状態になるのです。

宿題を出すのは学校の自由です。子供の中にも、指示されたタスクをこなす事が好きな子はいます。けれど、それを強制してはいけません。「強制などしていない」と言う先生はいらっしゃるかもしれませんが、宿題を出されたら全員やらなければならないと理解します。何より親はそう思います。

出されたものは全部食べる、やれと言われたらやる、右を向けと言われたら右を向き、整列!前へ倣え!休め!

「みんな同じがみんないい」と育てられた世代だからです。

しかし、最近の保護者の中で、一部疑問を持つ方々も出てきました。何を隠そう私もそのひとりですが、これだけ社会でオリジナリティを求められ、秀でた才能を探すことに躍起になり、自由な発想やデザインを評価されるようになっていて、個性を潰しかねないこのシステムに対し、「これで良いのか?」と考えるようになって来たのです。

まだまだほんの一部かも知れませんが、それでも確実に異を唱える保護者は増えています。このnoteを読んでいるあなたは、恐らくそのひとりだと思います。

しかし、声高に異を唱えるかどうかは、今のところ判断に迷っています。
なぜなら、子供の競争相手が増えるからです。薄汚い親心です。
皆が自由に学びはじめたら、我が家は太刀打ち出来ません。経済的に豊かな家庭は、平日毎日何かしらの習い事をさせるかも知れないからです。我が家ではそんな余裕は全くありません。少ない習い事以外は、youtubeで宇宙の動画を見てノートにスケッチしたり、図鑑や地球儀で天体について話し合ったり、月に1冊絵本を買ったり。その程度で精一杯です。(タイトルの画像は娘が夏休みにハッブル宇宙望遠鏡をyoutubeで見ながら一時停止してスケッチしたものです)旅行と称して電波望遠鏡を見学に行ったり、車中泊で星空を見に行ったり、お金を使えない分、工夫するしかありません。
しかし裕福な家庭では、こんな私たちの努力は、一瞬で飛び越えられるのです。
結局は多くの経済活動は椅子取りゲームに過ぎません。

東京の片隅にある、古ぼけた賃貸マンションに住む私たちの子供が、社会に出て椅子取りゲームで勝ち残るには、偏差値の高い高校でも、一流大学でもなく、小学校と中学校で習う4教科を突き詰めて理解する事が何より重要なのです。そして、私たち夫婦が家庭学習の本質を理解し、どれだけ自由な発想で子供に提供出来るかで、将来が大きく変わってしまう事が、恐ろしくもあり、楽しみでもあるのです。


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