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米国が台湾の防衛に慎重な姿勢を見せてきた理由を歴史的に考察する『米国の台湾海峡政策』(2012)の紹介

アメリカは中国と台湾に対する外交関係で「戦略的曖昧さ(strategic ambiguity)」として知られる立場を堅持してきました。この戦略的曖昧さは、中国が台湾を武力で統一するため、軍事侵攻に踏み切った場合、アメリカが台湾に派遣する戦力の規模や種類をあえて曖昧にする立場をいいます。

アメリカ政府がこのような立場を採用してきた理由については、政治学者ディーン・チェン(Dean P. Chen)が著作『米国の台湾海峡政策:戦略的曖昧さの原点(US Taiwan Strait Policy: The Origins of Strategic Ambiguity)』(2012)でアメリカ政府で独特な対中認識が形成され、それが対外政策に影響を及ぼしたためだと主張しています。

Chen, D. P. (2012). US Taiwan Strait Policy: The Origins of Strategic Ambiguity. Boulder: First Forum Press.

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1 台湾に関するアメリカの利益
2 米中台関係
3 開かれた中国に向けたウィルソンの構想
4 共産主義の支配から台湾を解放する
5 戦略的曖昧さの始まり
6 台湾海峡における将来のアメリカの政策

著者によれば、戦略的曖昧さがアメリカに独特な中国観を反映しており、戦略的曖昧さが台湾海峡の勢力均衡を安定化させる目的で合理的に導き出された対外政策だと単純化することは誤解です。「戦略的曖昧さの背後にあるのは、権力政治(power politics)と抑止の論理によって形作られた強い根拠ではあるが、この政策の発端が自由主義的な規範への義務、つまりウィルソン主義に基づいた門戸開放の国際主義(the Wilsonian Open Door internationalism)があったことを忘れてはならない」と著者は主張しています(p. 4)。

ウッドロー・ウィルソン大統領(在任1913~1921)は、統一され、自由で、民主的な中国がアメリカと手を結び、共に自由主義的な国際秩序の担い手となることを構想していました。19世紀末までアメリカはヨーロッパの列強が干渉を強める中国大陸の問題にさほど強い関心を持っていませんでしたが、1900年に義和団事件が発生したことで関心を高め、中国大陸が無政府状態に陥ることを防ぐことに積極的になりました。ウィルソン政権はアメリカの外交政策における中国問題の重要性を高め、中国の領土の一体性を守り、近代化を支援し、自由と民主主義の価値に目覚めさせることを使命と見なしました。1912年に辛亥革命中華民国が建国されたとき、アメリカは「中華合衆国(the United States of China)」、つまり自由で民主的な中国の誕生に期待すると公言しました。

もちろん、著者は理念や思想の影響ばかりを強調し、アメリカ政府が中国の経済的権益、物質的利益に無関心だったと主張しているわけではありません。ウィルソンが中華民国を承認した背景に、中国におけるアメリカの経済的な利益が関係していたことは間違いありません。ただ、経済的な利害がそのままアメリカの対中外交を形成したと単純化すべきではなく、利害関係は政府関係者の思想、観念、認識を介して政策に影響を及ぼすものであり、対中認識に関する思想的な変化を考慮に入れることが重視されなければなりません。それまで中国大陸で勢力を拡大しつつあった日本をアメリカが脅威と再認識するようになったのも、中華民国の成立によって中国に対するアメリカの認識が変化したことが一つの要因だったとも考えられます。

著者は、ウィルソンが取り入れた対中外交が、その後のアメリカ政府の対中外交に長期的な影響を及ぼし、その基本目標を形成したとして、次のように分析しています。

「アメリカの究極的な目標は明確であり、それは台湾海峡紛争を長期にわたって、おそらくは無期限に先送りにすることで平和的に解決することである。統一であれ、あるいは独立であれ、それが双方の平和的で、非強制的なプロセスによるものであれば、アメリカはそれを容認する。もし中国が台湾の自治と民主的システムを維持するような統一案を提示し、台湾が民主的な手続きを通じてそれを受け入れるのであれば、アメリカはその取り決めをアメリカの利益になると考えたであろう。要するに戦略的曖昧さは、単に安全保障、安定性をもたらす抑止戦略なのではない。中国を自由で民主的な国家へ変化させるという、ウィルソン的な門戸開放の構想を具体化しようとするものなのである」(pp. 3-9)

ウィルソンの構想がアメリカ外交に及ぼした影響を示す上で特に重要なのがハリー・トルーマン大統領(在任1945~1953)の対中外交であり、彼がアメリカの台湾政策の原型を構築したとされています。国共内戦(1946~1949)で軍事的敗北を喫した蒋介石が台湾に政権を移動させたことによって、毛沢東は中国大陸で支配を確立し、中華人民共和国の成立を宣言しました。

このとき、アメリカのトルーマン政権は毛沢東と蒋介石への対応をどのように両立させるべきか難しい判断を求められました。トルーマン政権としては、冷戦構造でアメリカと対立していたソ連との関係を重視する毛沢東が、台湾も支配するようになることは防ぎたいと考えていました。そのため、台湾を見捨てることはアメリカにはできませんでした。しかし、毛沢東がユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトーのように、ソ連と距離を置き、より中立的な立場をとることに期待しており、それがアメリカにとっても望ましいという考えもありました。

蒋介石が台湾で戦力を強化し、再び大陸に反攻する意図を持っていることも気がかりでした。直ちに実行に移せるだけの戦力を持っていなかったものの、蒋介石の立場は極めて強硬であり、アメリカに軍事的支援を繰り返し求めていました。トルーマン大統領は1950年の声明で「アメリカ政府は中国における内戦(civil conflict)への関与に繋がるような方針を追求することはない」という立場をとり、蒋介石の大陸反攻には明確に反対しました。これがアメリカの戦略的曖昧さの原点になったと考えられています。

戦略的曖昧さの効果がよく表れているのが、1950年に勃発した朝鮮戦争に対するトルーマン政権の対応でした。トルーマン大統領は朝鮮戦争が台湾海峡の軍事情勢に影響を及ぼす可能性があることを認識しており、毛沢東の台湾侵攻と蒋介石の大陸反攻のいずれも容認しない姿勢をとり、外交声明でどちらの勢力の軍事行動であっても、それを阻止するように第七艦隊に命令を下達したことを発表しました。これによって、中国と台湾の軍事侵攻をいずれも抑止することが期待されていました。

外交史の研究者の多くは、アメリカの台湾政策で戦略的曖昧さを採用したのは、1972年に中国訪問を成し遂げ、毛沢東と面会したリチャード・ニクソン大統領(在任1969~1974)と説明されることが多いのですが、著者の議論はこの定説に挑戦するものと位置づけることができます。また、2010年代にアメリカの国内で中国を脅威として見なす見解が広まっており、バラク・オバマ大統領(在任2009~2017)が戦略的曖昧さの見直しが必要だと述べたことで、台湾防衛を軍事的に支援する姿勢を明確にすべきという議論も出てきています。このような議論の是非を考える上で、アメリカの台湾政策を長期的な観点で捉え直した著者の研究が参考になると思います。

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