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論文紹介 なぜウクライナは1994年に核兵器放棄を決断したのか?

1991年にソビエトが解体され、ウクライナが国家として独立したとき、その領土にはソビエト軍が配備していた数千発の核弾頭が残されました。そのため、この核兵器をどのように処理する方法がアメリカ、イギリス、ロシアを巻き込む国際問題となりました。

外交交渉が進められた結果、1994年にブダペスト覚書が成立し、アメリカ、イギリス、ロシアは、ウクライナ(また、同じようにソビエト軍の核兵器が残されていたベラルーシとカザフスタンも含めて)の独立と主権を尊重し、武力の行使だけでなく、政治的な影響を及ぼす目的で経済的な圧力をかけることも控えることが定められました。この合意に基づいてウクライナは核兵器をロシアに移転することを受け入れました。

1994年当時、ブダペスト覚書は外交による非核化の成功事例として歓迎されました。しかし、今日の私たちは違った視点でこの出来事を捉え直すようになっています。ウクライナはその後、ロシアからの経済的な脅迫と軍事的な脅威に晒されるようになり、2014年以降は一部の領土を占領され、2022年からは大規模な武力紛争に耐えています。しかも、その武力紛争ではロシアから核兵器の使用を脅されており、核戦争のリスクに向き合わなければならなくなっています。

2014年にロシアがクリミア半島を武力で奪取して以降、1994年にウクライナが選択した非核化の是非をめぐって大きな論争が起こりました。例えばウクライナは核兵器を放棄しないだろうと1990年代初頭に予測していたジョン・ミアシャイマーも、ウクライナが非核化していなければ、ロシアが2014年にウクライナに侵攻することはなかっただろうと主張しました。

2015年にMaria Rost Rubleeは、そのような政策決定は当時のウクライナにとって現実的ではなかったとして、論文「幻想の反実仮想:核保有国ウクライナ(Fantasy Counterfactual: A Nuclear-Armed Ukraine)」でその理由を述べています。当時のウクライナを取り巻く状況を考えれば、非核化には十分な理由があったことが指摘されています。

Rublee, M. R. (2015). Fantasy counterfactual: a nuclear-armed Ukraine. Survival, 57(2), 145-156. https://doi.org/10.1080/00396338.2015.1026091

著者は、ウクライナが軍事目的で核兵器を保持しようとすれば、2014年より前にロシアによって支配されていたはずだと主張しています。なぜなら、1990年代のウクライナの国力では核兵器の整備能力を確保することは軍事的に極めて困難な状態にあり、核兵器の近代化を無理に推進すれば、数多くの問題が生じていた可能性が高かったためです。

ウクライナには核実験場、ウラン濃縮施設、プルトニウム再処理施設、弾頭製造工場など核兵器の製造に必要とされる専門的な能力がありませんでした。これらの供給の問題を乗り越えるには、巨額の支出が必要であり、仮にそれが財政的に実現できたとしても、ウクライナ軍は極めて少数の信頼性、安全性が低い核兵器を保持したにすぎなかったでしょう。

核弾頭だけでなく、その運搬手段にも問題がありました。あらゆる工業製品と同じように、ウクライナの領土に残された大陸間弾道ミサイルにも耐用年数が近づいていました。ウクライナ軍に残されたミサイルには130基のSS-19と46基のSS-24がありましたが、いずれも10年以内に耐用年数を迎えることが予想されていましたが、これを更新することは極めて困難な状況にありました(Rublee 2015: 147)。ウクライナには戦略爆撃機も残されており、書類の上では核爆弾を投下する能力を持っていましたが、実際に稼働する機体は限られており、10機ほどが運用可能であったにすぎませんでした(Ibid.)。

技術的な問題を別にしても、ロシアがウクライナに核兵器の保有を認めることは政治的に考えられませんでした。ロシアは1992年から1994年にかけて、何度もウクライナがロシアに依存していたガスの輸出を停止し、ロシアの外交的な要求を受け入れなければ、ガスの供給を永久に停止するとさえ脅しました(Ibid.: 148)。ウクライナが核兵器を維持するために、研究開発への投資に乗り出していれば、ロシアはウクライナにより早期に軍事侵攻していた可能性が高いと著者は述べています(Ibid.)。

実際にそのような軍事的行動はとられなかったものの、ロシアはクリミア半島をめぐってウクライナと激しく対立し、非軍事的な措置で対抗しています。1991年に独立した直後にウクライナがクリミア半島の領有権に基づく法的主張をロシアに行った際には激しい反発を受けており、1994年にロシア政府はクリミア半島の住民に対してロシアの旅券を発行する措置を講じました(Ibid.: 149)。また、クリミア半島では分離独立を求める政治運動も組織され、ロシアはこれを支援していました。もしウクライナが核武装に動いていた場合、このような紛争が軍事化するリスクがありました。

当時はアメリカや欧州各国もウクライナに対して核兵器を放棄するように圧力をかけていたことも指摘されています。ウクライナが核兵器を放棄させたブダペスト覚書は、1991年にアメリカとロシアが相互に核兵器の保有量を同水準に調整することを目指す戦略兵器削減条約の履行確保のためにも重視されていました(Ibid.: 150-1)。ウクライナがロシアの反対を覚悟して核兵器の維持を図ろうとしても、アメリカはそれを支援することはなく、ウクライナはより厳しい立場に置かれていたはずです。

ソビエト時代に核兵器の製造に技術者として携わった経験もあった、ウクライナのレオニード・クチマ大統領は、核兵器を完全に稼働状態にするためには最短でも10年必要であり、費用は1,600億ドルから2,000億ドルと見積っていました(Ibid.: 151)。独立直後のウクライナは行政サービスを維持することさえ厳しい財政状況にあり、これだけの予算を軍事部門に割り当てれば、経済に与える影響は深刻になっていたはずだと著者は評価しています(Ibid.)。そうなれば、ウクライナの国内では政府に対する批判が沸き起こり、政権の安定性が低下していたかもしれません。

たとえ少数であっても核兵器を保持していれば、ロシアの行動を抑止することができたという見方が出されることもありますが、1999年に核保有国であるインドとパキスタンとの間でカールギル戦争が勃発していることからも分かるように、核抑止だけで国家の安全が確保できるわけではありません(Ibid.: 152)。著者は、1994年にウクライナ政府が下した非核化という決定を後知恵で評価するにしても、核戦力の費用を無視したり、核戦力の便益を誇張してはならないと主張しています。核兵器をめぐる軍縮、軍備管理の取り組みがウクライナの安全をかえって脅かしたと解釈することについても反対の立場をとっています。

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