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もしあの歴史が違う展開を見せていたら?『バーチャル・ヒストリー』の書評

歴史学者は基本的に「もし」と問いかけることを学問的タブーと考えてきました。研究者の間でそのタブーを正当化する根拠について議論がなされることはめったにありません。挑発的な疑問を投げかけ、この問題について改めて議論しようとする研究者もほとんどいませんでした。

ただし、ニーアル・ファーガソン(1964~現在)はその例外でした。彼の著作『バーチャル・ヒストリー(Virtual History)』(1997)は、歴史を理解するために、あえて史実に反することを想定する反実仮想(counterfactuals)の意義を主張するだけでなく、それを実践した論集です。

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ファーガソンは反実仮想のアプローチが歴史学者からタブー視されていることをよく認識しています。この著作の第1章では、反実仮想に対する歴史学者の批判がまとめられており、最も率直な批判としてイギリスの歴史学者であり、『イングランド労働者階級の形成』(1963)の著者として有名なエドワード・トムスン(1924~1993)が反実仮想を「非歴史的な戯言」と呼んだことも取り上げています(p. 5)。

ファーガソンはこのような見方をよく検討した上で批判しています。ファーガソンの見方によれば、反実仮想に基づく推測を許さない歴史学の立場は、過去に起きたことによって、未来に起こることが必然的に決まることを想定する決定論の妥当性に依拠しています。確かに、反実仮想は、空想や願望を実現するための手段に陥りがちであることをファーガソンは認めています。しかし、それは反実仮想を展開する方法の問題であり、反実仮想それ自体の意義を否定できるものではありません。歴史に「もし」がないと否定しようとするのは、過去から現在へと至る因果関係に一定の必然性があるという歴史学の伝統的な前提と矛盾する考え方であるためだというのがファーガソンの批判の要点です。

ファーガソンは、歴史に確率的に発生する事象が含まれていると想定して研究する方が、歴史は決定論的な因果関係によって規定されると想定して研究するよりも妥当性があると考えました。つまり、歴史的に起こる事象が本質的に不確かなものであり、ある連続的な出来事が因果関係によって結び付けられていたとしても、予想できない結果がもたらされた可能性があることをファーガソンは認めているのです。

ただし、確率的な因果関係を想定して歴史を考える場合には、歴史的な反実仮想を想定できる範囲をルールで明確にしておくことが必要になります。そこでファーガソンは反実仮想のルールを次のように論じています。

「反実仮想アプローチに対して最も頻繁に提起される反論は、それが『存在しなかったとされる事実』に依存している、というものである。つまり、我々には反実仮想の問いに答えるための知識が欠けているのである。しかし、これは間違っている。この問いに答えることは、実は非常に簡単である。つまり、同時代の人々が実際に考えていたことで、現代的な証拠に依拠して提示することができる別の可能性だけを妥当であり、あるいは起こり得ることだったと我々は考えるべきである」(p. 86)

このような基準を採用すれば、無制限に条件を増やして反実仮想を展開する必要はありません。当時を生きていた人々が、どのような未来を予測していたのかを知ることが重要であり、そこから起こらなかった歴史を推定しながら反実仮想を展開します。このような方法を使用しているのが、続く9章の内容であり、いずれもイギリスの歴史に関する反実仮想が展開されています。

ここでは個別の研究を詳しく紹介することはできませんが、特に優れた分析を展開しているのは第2章「クロムウェルがいないイングランド:もしチャールズ一世が内戦を避けていれば」であり、その著者のジョン・アダムソンは数々の賞を受けた近世イギリスを専門とする歴史学者です。

もしピューリタン革命が起きなければ?

アダムソンは1639年にイングランド王チャールズ一世がスコットランドとの主教戦争(1639~1640)に敗れ、財政的な危機に陥り、議会の抵抗を排してでも徴税を断行しなければならなかったことに注目しています。

歴史的には、この強引な徴税の企てがピューリタン革命を引き起こす原因となり、チャールズ一世の王政が打倒される事態につながったのですが、アダムソンはこのような事態が不可避ではなかった可能性があると想定し、なぜチャールズ一世がそのような失敗を犯したのかを検討しています。

チャールズ一世は主教戦争に乗り出す前の1638年から1639年の冬にかけて、緻密な戦争計画を立案し、スコットランドを屈服させようとしていました。それは大規模な海洋戦略に基づく攻勢作戦の計画であり、5,000名の兵を8隻の軍艦と30隻の船舶で海上機動させ、スコットランドのエディンバラを封鎖することを基本的な目標としていました。この海上機動に必要だった船舶の調達に要した経費が莫大なものであったことをアダムソンは指摘しています(p. 96)。

1639年に開始された作戦はなかなか計画の通りには進まず、チャールズ一世は自身の計画の大部分を放棄せざるを得なくなりました。この決定にはさまざまな要因が関係していましたが、戦地に向かう途中で部隊の糧食を調達するための経費が想定以上にかかったことはその一因でした。1639年5月にヨークシャーに土地を持つジェントリーから王室に軍隊の糧食費として20,000ポンドが請求されたことがアダムソンによって紹介されています(p. 97)。1639年にチャールズ一世が支出できた200,000ポンドの10%に相当する莫大な請求額でした(Ibid.)。

アダムソンによればチャールズ一世にとって最も致命的な悪手だったのは、1639年6月に早々に交渉を開始したことでした。というのも、当時のチャールズ一世は戦局の優劣を見誤るという状況判断の誤りによって、時間をかけていれば得られたであろう数的優勢を自ら放棄してしまい、外交的な決着を目指してしまったのです(p. 100)。

当時、イングランド軍が日に日に兵力を増強していることが報告として残っていますが、チャールズ一世は自らが軍事的に劣勢であると判断し、早期に戦争を終わらせようと和平を急がせました。アダムソンは、同時期のスコットランド軍の資金が枯渇し、糧食が不足していた証拠があることを指摘した上で、客観的に見ればイングランドがスコットランドに対して軍事的に優勢であった可能性が高いと述べています(Ibid.)。

もしチャールズ一世がスコットランドとの戦争をもう少し長く継続していれば、スコットランドは屈服することを余儀なくされていたかもしれません。すると、その後のイングランドの歴史は違ったものになっていた可能性があります。その後の歴史としては1640年にイングランドとスコットランドとの間で第二次主教戦争が勃発することになり、チャールズ一世の軍勢はニューバーンの戦い(1640年8月28日)で決定的な敗北を喫しました。

最終的にスコットランドはスコットランド軍を和平成立までイングランドに駐留させ、それに要する経費をチャールズ一世に請求することに成功しました。この支払いのためにチャールズ一世は深刻な財政難に陥ってしまい、政治的なリスクを冒してでも議会を招集しなければなりませんでした。この議会の招集がピューリタン革命の発端となっています。

結論として、アダムソンはチャールズ一世がスコットランドを打倒することができていれば、イングランドはスコットランドだけでなく、アイルランドに対しても強固な支配を確立することが可能となり、ピューリタン革命を避けることもできていたのではないかと論じています。この解釈によれば、ピューリタン革命の歴史は、不安定で、偶発的な要因が歴史の展開に重大な影響を及ぼすことがあることを裏付けていると言えるでしょう

まとめ

歴史を理解する上で「もし」を問う反実仮想のアプローチが創造的な取り組みであるというファーガソンの主張には多くの読者が説得力を感じることでしょう。

ただし、ファーガソンの議論をどれほど受け入れるべきなのかについては慎重さも必要だと思います。ファーガソンの決定論に対する批判は、例えばマルクス主義の理論を受け入れる歴史学者の研究にはよく当てはまると思いますが、必ずしも歴史学者の全体に当てはまるような批判だとは思えません。また、著作で取り上げられている歴史は政治史、特に戦争史に偏っています。戦争史は反実仮想のアプローチを受け入れやすい特性があるため、歴史全般に対する有用さに関しては別の検討が必要です。

この著作は出版されてから多くの読者を獲得しており、2011年にKindle版が出ています。日本語に翻訳されたことはありませんが、歴史を理解したいと願うすべての読者、特に歴史の流れを変える偶発的な事象に興味がある方に一読をおすすめします。


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