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論文紹介 ラテンアメリカの国家形成は戦争でどれほど影響を受けたのか?

政治学者は戦争には長期的観点から見れば国家の形成と発達を促進する効果があると考えています。ある地域で国際平和が長期にわたって維持されたならば、その地域の国家は通常の統治の費用に加えて、戦争の遂行に必要な行政能力、戦闘能力を拡張する費用をあえて支出しようとはしないはずです。

このような理論はヨーロッパの歴史を踏まえながら発展してきました。そのため、一部の研究者はラテンアメリカには適応することができないと考えています。しかし、ラテンアメリカでも国家と戦争は密接な関係にあったことを裏付ける研究が出ています。

Schenoni, L. L. (2021). Bringing War Back in: Victory and State Formation in Latin America. American Journal of Political Science, 65(2), 405-421. https://doi.org/10.1111/ajps.12552

著者はラテンアメリカでも国家と戦争の関係は切り離せないと考えていますが、戦争そのものが国家の形成を促進すると考えるだけでは不正確であるとも考えました。国家が戦争に勝ったのか、あるいは負けたのかによって、その戦争が国家の形成に及ぼす影響はまったく違ったものになるはずだからです。

ラテンアメリカ諸国の歴史は、国家と戦争の関係を考える上で興味深い事例を提供してくれます。20世紀のラテンアメリカでは確かにヨーロッパにおける第一次世界大戦、第二次世界大戦に匹敵するような大規模な戦争が起きておらず、相対的に平穏な地域でした。しかし、1820年から1914年までの時期を調べると、ラテンアメリカ諸国が経験した戦争の回数はヨーロッパ諸国とほとんど同じであり、戦争の期間も長く、その軍事作戦の規模も決して小規模ではありませんでした。ヨーロッパでは1853年から1856年まで続いたクリミア戦争で26万4200名の犠牲者が出ていますが、ラテンアメリカで1864年から1870年まで続いたパラグアイ戦争では31万名の犠牲者が出ています。

ラテンアメリカ諸国の政治史は、首都圏に住む中央エリートと、首都圏に住まない地方エリートの権力闘争の歴史として捉えることができます。両者の能力は拮抗する場合が多く、内戦があった後も地方のエリートは一定の自律性を維持して中央の権威に抵抗することが少なくありませんでした。大規模な戦争が勃発すると、中央と地方の利害は一致するので、新たな均衡が形成され、中央と地方のエリートが連合体となって政権運営に協力し、国家機構の拡充を推進した事例が確認できます。

興味深いのは、敗戦国に転落すると、この連合体が崩壊するだけでなく、政権運営の主流派ではなかった地方エリートが一挙に政権を掌握し、中央エリートが二度と立ち直れないように、あえて国家機構を弱体化させることがあったことです。戦勝国になると、連合体は単に存続するだけでなく、戦時下で拡大した国家機構をさらに強化しようとしました。国内政治上の対立が消滅したわけではありませんが、議会政治や政党政治のメカニズムを導入することによって武力衝突を避ける取り組みが行われました。

論文では、以上の理論の妥当性を実証するために、国家の統治能力の程度を鉄路の距離、国民一人当たりの歳入、歳出、輸出、軍隊の規模、議会の効率性、学校教育の普及度、都市化で測定しました。エクアドル・コロンビア戦争(1863)ドミニカ回復戦争(1863~1865)フランス・メキシコ戦争(1861~1867)パラグアイ戦争(1864~1870)太平洋戦争(1879~1884)バリオス統一戦争(1885)の勝敗を判定し、その結果によって国家の統治能力がどのように変化するのかを定量的、定性的に分析しています。

ここでは定性的分析で取り上げられた事例の一つであるパラグアイ戦争に注目してみましょう。これは19世紀のラテンアメリカでも特に多くの犠牲者を出した戦争の一つであり、ブラジルとアルゼンチンの緩衝国であるウルグアイで起きた反乱にパラグアイが軍事的に干渉したことで発生しました。

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スペインの植民地だったパラグアイで独立運動を指導し、独立後は終身執政官としてパラグアイを統治したフランシア政権(1816~1840)は議会を解散し、粛清で政敵を一掃する強権的な政治家でしたが、財政基盤を強化し、軍事産業を発展させ、軍備拡張の礎を作りました。次のカルロス・アントニオ・ロペス政権(1841~1862)の積極的な国防政策でパラグアイは4万名の兵力を保有するに至りました。これはヨーロッパの基準で見ると小規模に思えるかもしれませんが、南米諸国の中で最大規模の兵力でした。

大統領フランシスコ・ソラーノ・ロペス政権(1862~1869)が1864年にパラグアイ戦争を引き起こした当時、パラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイに対して軍事的に優勢でした。そのため、パラグアイはブラジルに対して攻勢をとり、その一部の領土を占領することに成功していますが、1865年にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが同盟を締結し、連合作戦を遂行するようになってからは、次第に戦局が悪化していきます。間もなくパラグアイはブラジルから兵を国内へ退却させることを余儀なくされ、ロペス自身も1870年に戦死しています。敗戦国となったパラグアイの陸海軍は大幅に縮小され、製造業や造船業は解体されました。

しかし、パラグアイの国家形成において最も致命的な出来事は、戦後に残された2,500名ほどの軍人が自らの利権を追求するようになり、政府支出の5分の1を手に入れました。また、それまでのパラグアイは全国の土地の90%を国有地として所有していましたが、1883年、1885年に相次いで売却処分され、新たに土地を手に入れた地方エリートの勢力が台頭しました。こうして独立以降のパラグアイの目覚ましい国家建設の動きは、戦争に敗れたことによって行き詰まったのです。

結論で著者は戦争が常に国家の発展を促進するわけではなく、戦争の結果によって参戦国が異なる政治的影響を受けるという仮説には実証的な妥当性があると主張しています。ここでは定性的な分析のみを紹介していますが、論文では定量的な分析の結果でも仮説を裏付けることが可能だとも示されています。特にパラグアイの国家形成が頓挫した以降にアルゼンチンやブラジルの国家形成が促進されているという指摘は国際政治と国内政治の関係を考える上でも興味深い分析結果だと思います。

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