論文紹介 NATOの領域を東欧へ拡大しないという「誓約」は存在したのか?
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論文紹介 NATOの領域を東欧へ拡大しないという「誓約」は存在したのか?

武内和人|戦争、社会、人間を学ぶ

1990年にアメリカとソ連は東西ドイツを再統一させる交渉の中で、ある「誓約」を交わしていたという議論があります。その議論によれば、アメリカはソ連にワルシャワ条約機構の加盟国だった国々を北大西洋条約機構(NATO)に加盟させないことを保証したはずでした。

ところが、1990年代後半にワルシャワ条約機構の加盟国だった国々は続々とNATOに加盟し、集団防衛の領域は東へ大きく拡大しました。当時、ロシア政府関係者がアメリカは「誓約」に違反したと主張しましたが、アメリカ政府関係者がこれに反論し、「誓約」の実在そのものを否定しました。

研究者はこの「誓約」が実際に存在していたのかどうかをめぐって検討を重ねてきました。ここでは2本の研究論文を紹介してみたいと思います。

Kramer, M. (2009) The Myth of a No-NATO-Enlargement Pledge to Russia, The Washington Quarterly, 32:2, 39-61, DOI: 10.1080/01636600902773248
Shifrinson, J. R. I. (2016). Deal or No Deal? The End of the Cold War and the U.S. Offer to Limit NATO Expansion. International Security, 40(4), 7–44. doi:10.1162/isec_a_00236

NATO不拡大の誓約などなかった

Kramer(2009)はアメリカとソ連との間でNATOを東へ拡大しないという「誓約」がなかったと結論付けました。著者は当時、ハーバード大学冷戦研究プロジェクトを率いるディレクターであり、同大学ロシア・ユーラシア研究デイヴィス・センター(Harvard’s Davis Center for Russian and Eurasian Studies)の上級研究員でした。

著者の調査によれば、アメリカとソ連との交渉の議題となっていたのは、あくまでもドイツの再統一でした。ソ連の最高指導者ゴルバチョフは西ドイツと統一した後で東ドイツがNATOの領域に取り込まれることを警戒し、ドイツをNATOに加盟させないことを要求していました。しかし、アメリカの大統領G. H. W. ブッシュは統一後もドイツをNATOに加盟させ続ける立場を崩そうとしませんでした。この立場の隔たりを埋めるために、両国は交渉を重ね、1990年5月にアメリカが以下の9点をソ連に保証しました。

(1)ヨーロッパにおける通常兵器の大幅な削減に向けた協議を行うこと
(2)短射程の核兵器を削減するための協議を始めること
(3)ドイツが核兵器、化学兵器、生物兵器を保有、または製造しないことをドイツの指導者が再確認すること
(4)一定の移行期間中にNATOの部隊を旧東ドイツに配備しないと約束すること
(5)ドイツの領土からソ連軍が撤退するための適切な移行期間を与えること
(6)「ヨーロッパにおいて発生した変化を考慮に入れて」NATOを再編すると約束すること
(7)統一前のドイツの国境に関するあらゆる問題を解決すると約束すること
(8)全欧安全保障協力会議の役割を強化すると約束すること
(9)「ソ連のドイツとの経済的関係を満足のいく方法で処理する」ことを促すこと(p.54)

アメリカがこれらの保証を与えることによって、ソ連はドイツが統一後もNATOの加盟国にとどまることを受け入れたと著者は説明しています。著者の見解では、他のワルシャワ条約機構の加盟国がNATOに加盟することはないとアメリカがソ連に保証した事実はなく、少なくとも成文化された形での「誓約」は存在しなかったと結論付けています。

NATO不拡大は米ソ交渉の基礎だった

Shifrinson(2016)は「誓約」をめぐる議論を踏まえつつも、新たに機密指定が解除された史料も使用し、抜本的に再検討を行う必要があると考えました。これは「誓約」が書面に残る合意として残っていないとしても、関係者の間で非公式の合意として成立していた可能性があると考えたためです。

外交の世界では公式な合意がすべてではなく、非公式な合意が重要な意味を持つことも少なくありません。1962年のキューバ危機でアメリカとソ連が互いの領土に配備されたミサイルを撤去し合うことにより、危機を回避できたのは、非公式な合意があったためだと著者は指摘しています(p. 18)。

1990年のアメリカとソ連の交渉で主要な議題とされていたのは、確かにドイツの再統一でしたが、当時の関係者はこの問題がヨーロッパにおけるNATOの境界と密接に関係することを明確に認識していました。交渉の過程でアメリカは、もしソ連がドイツの再統一を受け入れるならば、アメリカはNATOの領域を東方に拡大することはないと非公式な形で保証した証拠も発見されています。

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専門は政治学で、軍事学の研究にも取り組んできました。この筆名で行う活動は勤務先と無関係です。人文・社会科学の研究が全般的に好きです。文献・論文を紹介する記事などを投稿します。プロフィールに記事一覧をまとめています。