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なぜ戦争が革命の要因になり得るのか?『国家と社会革命』の書評

ある国で革命が成功するためには、どのような条件が満たされていなければならないでしょうか。一般的には国家体制を防衛するべき官僚と軍隊が、都市あるいは農村において組織された反政府組織の攻撃に抵抗できないほど経済的、軍事的に弱体化していなければならない、と考えられています。しかし、国内政治で圧倒的な力を有する国家機構が、反徒に対してそれほど脆弱な状態に陥ることがめったにないということも事実です

アメリカの政治学者シーダ・スコッチポルは『国家と社会革命(State and Social Revolution)』(1979)において、国家機構を打倒するチャンスが訪れるのは、国際情勢が緊迫化し、軍事的な対立が激化しているときであるという説を唱えたことで注目を集めました。この説は学界で大きな影響力を発揮し、さまざまな論争を引き起こしました。

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国際政治の状況が革命の成否を左右する

著者の見解によれば、革命にはいくつかの種類があり、効果にも差異があります。ある革命は既存の体制を転覆させますが、それがもたらす効果は権力者を交代させるだけです。別の革命は政治体制を修正するかもしれませんが、社会のあり方までは大きく変わることがありません。

著者がこの著作で注目している社会革命(social revolution)は、社会と政治の両方を急激に変化させるタイプの革命です。つまり、富裕層、中流層、貧困層のように富の所有状況で区分できる社会構造と、権力の保有状況で区分できる政治構造の両方集団の構成を抜本的に変化させるタイプの革命を問題としています。

政治史をさかのぼって調べると、社会革命は革命の中でもかなり珍しいタイプの事象であることが分かります。その数は多くはありません。著者は、その中でも特に重要な事例として、フランス革命(1789年)、ロシア革命(1917)、中国の辛亥革命(1911年)を取り上げています。そして、軍事的競争の影響がそれまで考えられていた以上に革命の成否を左右することを指摘したのです。

フランス革命(1789年)のケース

革命が起こる前のフランスはヨーロッパ大陸でも特に大規模な軍事力を保有する大国でしたが、国内においては貧富の格差が大きく、経済発展でイギリスの産業に大きく後れを取っていました。その原因はフランス国王の政治権力を支えていた貴族や聖職者ばかりが富を独占し、市民や農民が厳しい生活環境にあり、貯蓄や設備投資の余裕がなかったためだと考えられています。

革命が起こる前のフランスでは凶作の年が続いており、各地で雇用が失われ、物価が高騰したために、農民や市民の多くが必需品を手に入れることができなくなっていました。各地で餓死者が出るなど、社会不安が高まっていたことも指摘されています。

このような国内状況であるにもかかわらず、フランスはイギリスに対抗する目的でアメリカ独立戦争(1775年~1783年)に関与したために、莫大な戦費を支出しなければなりませんでした。国王は貴族や聖職者の免税特権を維持せざるを得なかったので、財政が逼迫したとしても、生産性が低い産業の従事者にさらなる課税をする以外に道がありませんでした。

当面の資金を得るために公債を発行することも行われましたが、フランスではイギリスのように政府の収入と支出を監視するような議会政治が導入されていないため、高い利子をつけなければ、海外投資家はそれを買い求めませんでした。財政を再建するための方法をめぐってエリート間の対立が発生し、国王の政治的権威と軍事的能力は低下しました。このため、1789年には農民や市民の武装蜂起を封じ込めることができなくなっていたと考えられます。

ロシア革命のケース(1917年)

ロシア革命においても第一次世界大戦(1914年~1918年)で支払うことを余儀なくされた軍事費が国家の安定を脅かしたことが確認できます。

ロシア帝国の主要産業は農業でしたが、その生産性は非常に低く、農民の生活水準は低いままでした。農民を反政府運動に組織する動きもあり、1905年にサンクトペテルブルクで農民が蜂起していますが、ロシア皇帝はすぐに軍隊を動員して反乱を鎮圧することができました。

農業だけに頼るのではなく、より効率的な財源を確保するために、ロシアは製造業の育成に乗り出しました。これは一定の成果を上げたものの、都市で資本家と労働者の社会的緊張を生み出す影響もありました。しかも、ロシアは産業振興の経費を支払うために、西欧諸国に対して多額の債務を背負うことになりました。そのため、1914年に第一次世界大戦が勃発したことによって、ロシアはドイツやオーストリアを相手に大規模な戦闘を繰り広げることになり、農村における生産が停滞すると、たちまち国庫の資金は枯渇しました。

第一次世界大戦でロシアは一時的に優勢を確保することができましたが、全体として見れば軍事的な失敗が続きました。損耗が累積し、物資が不足すると、ロシア軍の部隊の規律は次第に悪化していきました。国内では物価が高騰し、労働者は生活の必需品を手に入れることができていませんでした。1917年に都市と農村で反政府運動が組織されたときに、ロシア皇帝は反徒を鎮圧することができなかったのは、こうした要因が存在していたためであると考えられます。

辛亥革命のケース(1911年)

中国における辛亥革命の歴史もまた、国際政治が財政問題を通じて革命に重大な影響を及ぼす可能性を示しています。

満州族の王朝である清は19世紀に自由貿易を要求する欧米列強から大きな軍事的脅威を受けるようになり、日清戦争(1894年~1895年)などでの失敗から自国の軍事力の近代化に取り組む必要に迫られました。清はそれまでの伝統的な軍事制度を抜本的に見直し、近代的な軍事制度へ移行するために、大規模な軍事予算を組むことになりましたが、これは大きな財政負担を生じさせました。

当時、清の財源を支えていたのはほとんどが農民であり、都市の労働者はわずかでした。農民の大部分は私有地を持たない小作農であり、わずかな収入で生計を立てていました。彼らには生産性を向上させるような設備投資ができるだけの余裕がなく、しかもフランスやロシアの農民と異なり、反政府運動を組織化できるような自治組織や指導者が欠落していました。中国の農民は反乱を起こすために、組織的な政治行動をとることが非常に難しい社会情勢にあったと考えられます。

このような農民の状況を大きく変えたのが郷紳の台頭でした。郷紳はもともと清が地方行政の実務を担うエリート層でした。20世紀に入って清は政治改革の一環として各地方に議会を設置しましたが、郷紳はこの政治制度を足掛かりとして、中央政府に対抗する地方自治の強化へと動き出しました。このときに郷紳は地元の農民を組織化し、各地方で政治的勢力を形成することに成功しています。このような勢力を持っていたために、1911年に清が各地方の民営鉄道を国有化し、これを担保にして列強諸国から金を借り入れようとした際に、大規模な反対運動を展開することが可能となりました。

この反対運動は全国に広がり、四川では大規模な暴動が起きたので、これを平定するために清は軍隊を派遣しています。しかし、この軍隊に対する革命工作が大規模に進められていたので、10月10日に武昌で革命派の軍人が蜂起することを防ぐことができませんでした。この蜂起が辛亥革命の発端となり、これに同調する動きが全国へ広がりました。

しかし、1912年に南京で中華民国を発足させてからは、郷紳がそれぞれの地盤に依拠した土着の勢力であり、全国的な組織を持っていないことが問題として浮上してきました。海外列強の軍事的脅威に対抗する必要については合意できたものの、もともと各地方ごとに形成された勢力を統一的な国家体制に再編する試みは難航しました。

国内政治の不安定化は行政や治安の混乱をもたらしただけでなく、列強による中国への干渉を容易にしてしまいました。ソ連の支援を受けた中国共産党は日中戦争(1937年~1945年)で政治的、社会的、経済的な混乱に乗じて地方の農民に対する工作を強化し、全国規模の政党組織を形成していきました。地域を超えて農民を組織化できたことが、1949年の中華人民共和国の建国に寄与したと考えることができます。

まとめ

スコッチポルは以前に紹介した『独裁と民主政治の社会的起源』の著者であるムーアに師事していました。そのため、彼女の著作にはムーアの研究に強い影響を受けていることが読み取れます。例えば、『国家と社会革命』ではいずれの革命事例においても農民の政治行動が分析されていますが、農民を動員できるかどうかが革命の成否を左右するというムーアの考察を踏まえたものとして理解することができます。

ただし、スコッチポルの研究はムーアの研究よりも国際政治の影響をはるかに重要視しています。反政府組織が政府組織に対抗できるようになる状況は限られており、国際情勢、特に軍事的対立を通じてその国の政府組織が軍事的、経済的に弱体化していないと、抜本的な体制変革を伴う社会革命は実現困難であるというのがスコッチポルの立場でした。

スコッチポルはこれ以外にもムーアの議論について批判を加えたことがあります。例えばムーアは国の政治体制が民主主義、ファシズム、共産主義のいずれを採用するかは社会的、経済的状況によって規定されると説明していましたが、スコッチポルは国家機構の能力の方がより重要であると主張していました。

もちろん、ムーアはスコッチポルが批判するほどに国家機構の役割を軽視していたわけではありませんし、またスコッチポルも革命が成功した後で採用される政治体制の種類は、その国の社会的、経済的状況によって左右されることを認めています。そのため、スコッチポルが国際政治と革命を関係づけたことの意義は評価すべきですが、彼女のムーアに対する批判の妥当性については別の検討が必要でしょう。

この問題に関する研究は、スコッチポルの後でさらに進展していきました。数多くの研究者がいますが、例えば政治学者のゴールドストーンは『近世世界の革命と内乱』(1991)で、人口構造とインフレーションが革命に与えた影響を考察しています。以前に書いた書評があるので、興味がある方は一度ご覧ください。


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