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論文紹介 なぜソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻したのか?

1979年12月、ソ連は国境に集結させた部隊をアフガニスタンの領域に侵攻させ、アメリカを含めた西側諸国を驚かせました。この時のアフガニスタンで革命評議会議長として権力を掌握していたのはハフィーズッラー・アミーンでしたが、彼は12月27日に大統領宮殿でソ連の国家保安委員会が送り込んだ特殊工作員によって暗殺されました。アメリカは、このソ連の軍事行動に対して反発し、安定の方向に向かっていた米ソ関係は1979年以降に新冷戦と呼ばれるほど悪化の一途を辿ることになりましました。

冷戦終結後、ソ連がアフガニスタンに侵攻するに至った理由を探るために、さまざまな調査が行われています。その研究は今でも続いていますが、ソ連の首脳部、具体的にはソ連共産党政治局でアフガニスタンに侵攻するという選択肢はもともと避けるべきだという見解が支配的だったことが分かっています。しかし、1979年の間に相次いで発生した政変で政治局のメンバーの認識が変化し、軍事的介入の必要があるという判断に傾きました。今回は、ソ連がアフガニスタンに侵攻した動機に関する分析の一つを紹介します。

Gibbs, D. N. (2006). Reassessing Soviet motives for invading Afghanistan: A declassified history. Critical Asian Studies, 38(2), 239-263. https://doi.org/10.1080/14672710600671228

アフガニスタンの状況は1979年に大きく変化しています。そのため、その経緯を最初に確認しておくことにします。1979年4月のクーデターでアフガニスタンではムハンマド・ダーウードの政権が崩壊し、ヌール・ムハンマド・タラキーが首相に就任しました。しかし、同年9月には副首相だったハフィーズッラー・アミーンの部下がタラキーの身柄を拘束するという事件が起こり、翌月にタラキーは「健康状態が悪化して死亡」と発表されました。こうしてアフガニスタンにおけるアミーンの権力が確立されると、アフガニスタンはソ連との関係を見直し、対米関係を強化する動きを見せました。

当時、アメリカの政府高官の間ではアミーンが外交政策の基軸をソ連からアメリカに移しつつあることが認識されており、ソ連の政府高官もそのような同盟は現実に起こり得る考えていました(Gibbs 2006: 255)。ただし、アメリカの側からアフガニスタンに接近を図っていたという証拠は見当たらないと著者は述べています(Ibid.)。それにもかかわらず、ソ連の指導部ではアフガニスタンからソ連の南部に対してアメリカの脅威が及ぶことが懸念されていました。

1995年に出版されたアレクサンドル・リャホフスキー(Alexander Lyakhovsky)大将の回顧録と1994年に出版されたゲオルギー・コルニエンコ(Georgy Kornienko)の回顧録によれば、国家保安委員会(KGB)議長ユーリ・アンドロポフはアフガニスタン侵攻を強く主張した人物であったとされています(Ibid.: 256)。ただし、アンドロポフは最初からこのような見方を持っていたわけではありませんでした。1979年3月の時点でアフガニスタンの主要都市の一つであるヘラートで蜂起が起きており、ソ連から派遣されていた軍事顧問とその家族が虐殺されるという事件が起きましたが、アンドロポフはアフガニスタンに軍隊を派遣すれば、アフガニスタン国民から侵略者のように見なされ、ソ連の立場が悪化すると主張し、侵攻には反対の立場をとりました(Ibid.)。

また、外務大臣のアンドレイ・グロムイコもアフガニスタンに軍隊を派遣すれば、米ソ関係が傷つけられるという認識から、ソ連としてアフガニスタンに軍事行動をとることは自制すべきという見解でした(Ibid.: 256-7)。こうした見解は政治局において共有されていたようであり、1979年の中頃まではソ連の首脳部でアフガニスタン侵攻という選択肢の欠陥がはっきりと認識されていたことが伺われます。

こうしたソ連の認識が変化した理由について、著者はアミーンがアメリカと繋がっているのではないかという認識をアンドロポフが強く持つようになったことについて述べています。著者は「1979年のヘラート危機の際に表明された政治局の合意と一致して、アフガニスタンにソ連軍の部隊を展開することに反対していたが、10月までアンドロポフは自らの反対意見を翻し、ソ連として直接介入する政策を率先して擁護するようになった」と述べています(Gibbs 2006: 256)。

リャホフスキーの回顧録によれば、アミーンの脅威が誇張されたと述べられており、例えばアンドロポフはアミーンをアメリカのエージェントであると主張し、アメリカがアフガニスタンにミサイル基地を建設する可能性があると予測しました(Ibid.: 256-7)。それだけでなく、アメリカの狙いは新しいオスマン帝国(new Great Ottoman Empire)の形成にあると主張し、中央アジアからソ連を脅かそうとしていると推論しました(Ibid.: 257)。ちなみに、国防大臣ドミトリー・ウスチノフもアンドロポフの立場を支持し、アフガニスタン侵攻を推進したとされています(Ibid.: 258)。

政治局はアフガニスタン侵攻を12月12日に決定しました(Ibid.: 256)。著者の調査は、ソ連の政府関係者の間でアフガニスタン侵攻が即興的であったことを強調しており、西側を相手に世界規模で勢力の拡大を図る野心があったわけではないと評価しています。これはソ連の戦略行動を理解する上で興味深いだけでなく、当時のアメリカの反応について考える上でも参考になります。というのも、1979年当時、ジミー・カーター大統領はソ連のアフガニスタン侵攻の情報に接して、ソ連の友好的な態度を疑い、その領土的野心を強調するように変化しているためです。当時のソ連の内部の政策過程を調べると、そのような構想があったとは認められませんが、これは国際関係における国家の意図がいかに誤解されやすいものであるかを示しているといえます。

アフガニスタン侵攻の後でアメリカ軍は中東に部隊を短期間で展開できるように、態勢を見直し、アフガニスタンにおける反ソ武装闘争組織を支援するようになっています。こうした国際政治史の展開を理解する上でソ連の指導者がどのように状況を認識していたのかを探ることは重要な研究課題です。

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