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中国政治における労働運動の展開を分析した『反乱の罠』の書評

19世紀以降の政治史で絶えず争点となってきた問題の一つに労働問題があります。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどでは、19世紀の後半に工業化が進み、社会に占める賃金労働者の割合は大幅に増加しました。彼らは企業に労働条件の維持、あるいは改善を要求し、一斉に就労を拒否するストライキや、仕事の能率を低下させるサボタージュといった争議行為を繰り返し、使用者に圧力をかけるようになりました。

争議行為は社会経済の混乱に繋がるため、各国では争議ではなく交渉によって労使紛争を解決へ導く可能性が模索され、それが政党制のパターンに影響を及ぼしています。フランスやドイツでは、労働者が組織する労働組合が、使用者が組織する経営者団体と並ぶ政党の支持基盤となっています。

中国共産党が政権を独占する現代の中国では事情がまったく異なります。経済改革の効果で工業化が進んでいますが、中国の組合は使用者と交渉する能力が乏しく、労働者の経済的地位を向上させることが困難です。結果として、一部の労働者は過激になり、非合法的な争議行為に走ることもあります。研究者のイーライ・フリードマン(Eli Friedman)は『反乱の罠(Insurgency Trap)』(2014)で、中国社会で労働問題が深刻化している原因は中国共産党の政策によって説明が可能だと主張しています。

Friedman, Eli. 2014. Insurgency Trap: Labor Politics in Postsocialist China. Ithaca: Cornell University Press.

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この著作では、中国の労働運動の歴史や現在の実態を一次史料も駆使して記述する過程追跡のアプローチが採用されています。そこで注目されているのは中華全国総工会(All-China Federation of Trade Unions, ACFTU、以下総工会)であり、これは中国共産党の指導の下で存在が認められている唯一の全国的労働組合です。20世紀に中国が列強の支配を受けていた時期に、都市労働者を組織化し、党の政治活動に貢献してきました。

著者は、この組合には労働者の経済的地位を向上させようと努力した個人がいたことを認めていますが、彼らの活動の実績の多くは象徴的なものに終わっているとも指摘しています。総工会の弱さの原因は一つではありませんが、幹部の多くが都市部出身のエリートであり、農村部出身の出稼ぎ労働者の利益に関心がないこと、中国の地方政府が地元の企業集団と経済的利害を共有しているので、組合との交渉でも企業は強い立場を占めていることなどが挙げられています。一部の労働者が、組合の規律から離れ、非公式な争議行為を展開する事態が起きているのは、組合に労使交渉を進める能力が欠けているためである、と著者は説明しています。

著者は、組合の活動を支持しても、中国の地方政治で労働者が優位に立てない政治構造を罠と表現しています。この罠から逃れるために、労働者は既存の制度から逸脱することになりますが、必要な成果を獲得すれば、既存の制度に復帰する場合もあります。ただ、著者は中国で労働者を制度内に留め置くことは次第に難しくなってきていると指摘しています。2007年にアセンダント・エレベーター(Ascendant Elevator、現在)で起きたストライキは労働者の敗北に終わりましたが、2008年から2009年にかけて香港とその後背地である珠江デルタを中心に労働争議が急拡大し、紛争を解決するための訴訟が急増しました。

党中央は低賃金労働に依存した輸出志向の経済開発モデルが限界に達しつつあることを認識し、懐柔する方針を採用するようになったと著者は説明しています。2010年に南海本田で起きたストライキでは、労働者の要求が認められており、賃金の上昇が実現しました(南海本田ストライキ事件)。これは中国の労働運動の新しい成果として注目に値するものですが、その後も労働争議が収まったわけではなく、2012年だけで65万件の争議が報告されており、依然として大きな問題であり続けています。

労働者の不満をそのまま放置すれば、体制の存続を危うくする脅威に成長する危険があります。ただ、著者はこのシナリオを回避できる可能性があることも述べています。例えば、中国の地方政府と企業の関係を完全に断ち切り、組合の地位を相対的に上昇させる方法が考えられます。これは現実的ではありませんが、一つの理論的な可能性として見なすことはできるでしょう。

より妥協的なシナリオとしては、全国各地で労働争議が長期にわたり繰り返されることが予想されています。もし安定的な労使関係から得られる経済的利益を地方政府と企業が認めれば、段階的に労使関係の改善に向かうかもしれません。もう一つの妥協的なシナリオとしては、組合との膠着状態を維持し、険悪な労使関係を管理しながら経済成長を進める状況も考えられます。このシナリオは労働者との不満を鬱積させる危険がありますが、低賃金で労働力を提供し続ける国民がいなくなれば、世界経済における中国の競争優位が損なわれる可能性は否定できないでしょう。

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